脳死による臓器提供が家族の承諾だけで初めて実施された8月、日本臓器移植ネットワークのホームページを通じて臓器提供を拒否する意思を登録した人が急増したことが6日、わかった──というニュースが。
内容としては──
現在の臓器移植法では、本人が生前に拒否の意思表示をしていなければ、家族の承諾だけで臓器提供ができる。ネットワークへの意思表示は、臓器を、〈1〉脳死と心停止のいずれの場合でも提供〈2〉心停止の場合のみ提供〈3〉提供しない――の3種類があり、これまで〈3〉は2%に過ぎなかった。ところが、8月9日に家族承諾による脳死判定がおこなわれたのを機に登録者が相次ぎ、8月の登録者では〈3〉が10%を占めた。〈1〉は86%、〈2〉は4%だった。──
となっている。
家族の承諾…救急現場での密室性、それ以外に道がないのではないかと思わされる説明かもしれない。そして、生きることができるかもしれない可能性を、抹殺され、臓器がまるで、「モノ」のように全国各地に配られていく。
生きる権利を奪われる社会。何かふと、かつて、「お国のために喜んで死ぬ」という教育がされ、若者が生きる権利を奪われてきたあの時代と重なるイデオロギー操作さえ感じる。
今こそ、脳死判定を拒否しよう!臓器移植を拒否しよう!
最期の時まで、自分のために精一杯生きることに誇りを持とう。
誰かのために心臓をあげることは、自分の生を全うできない、自分を大切にできないということだと思う。自分を大切にできないのは、他人をも大切にできないことであり、当然、未来に向けて光を感じることができないということだ。
──Byあゆむ
内容としては──
現在の臓器移植法では、本人が生前に拒否の意思表示をしていなければ、家族の承諾だけで臓器提供ができる。ネットワークへの意思表示は、臓器を、〈1〉脳死と心停止のいずれの場合でも提供〈2〉心停止の場合のみ提供〈3〉提供しない――の3種類があり、これまで〈3〉は2%に過ぎなかった。ところが、8月9日に家族承諾による脳死判定がおこなわれたのを機に登録者が相次ぎ、8月の登録者では〈3〉が10%を占めた。〈1〉は86%、〈2〉は4%だった。──
となっている。
家族の承諾…救急現場での密室性、それ以外に道がないのではないかと思わされる説明かもしれない。そして、生きることができるかもしれない可能性を、抹殺され、臓器がまるで、「モノ」のように全国各地に配られていく。
生きる権利を奪われる社会。何かふと、かつて、「お国のために喜んで死ぬ」という教育がされ、若者が生きる権利を奪われてきたあの時代と重なるイデオロギー操作さえ感じる。
今こそ、脳死判定を拒否しよう!臓器移植を拒否しよう!
最期の時まで、自分のために精一杯生きることに誇りを持とう。
誰かのために心臓をあげることは、自分の生を全うできない、自分を大切にできないということだと思う。自分を大切にできないのは、他人をも大切にできないことであり、当然、未来に向けて光を感じることができないということだ。
──Byあゆむ
興味深かったのは、「障害者」という概念が生まれたのはそれほど古いことではなく、資本主義の勃興の中で、工場労働に適した画一の労働者を大量に雇い入れる必要から、規格外の人間を「障害者」と呼ぶようになったとのことでした。だから教授は、誰が何の基準で「障害者」と決めたのかと問い、それぞれが一人の人間であり、もともと「障害者」というような人はいない、というようなことを言っていました。
教授の人類史的、宇宙史的な発想にも驚かされました。仮に投資で何億というカネをもうけていたとして、宇宙の発展からみて、それがどんな意味があるのかといいます。人間を大事にするという立場から、投資や金儲けに狂奔している人とそのシステムを心の底から蔑視しているようでした。宇宙的な見地から見たら、大投資家も、全盲ろうの自分も、同じちっぽけな存在なのだ、もっと謙虚にならなければと。
もちろん、どうでもいいといっているのではなく、だからこそ、そのちっぽけな存在の価値をどう見いだすのかが問題になるのです。福島教授から太田光が「障害者の生きる価値」を問われ、スティービーワンダーやホーキングの例を出して、障害者でもすばらしい功績を残す人がいる、それに比べると自分なんかは障害者より劣っていることになる、というようなことをいうと、福島教授は、彼らは天才だ、それは誰しも認める、しかし、天才でない一般の障害者はどうか、耳も聞こえない、目も見えない、身体も不自由、身動きできない、そんな人は生きている価値があるのか、とさらに問います。ここで太田は詰まってしまいます。
教授は、バリアフリーなどというようなきれい事ではなく、本質的なところで、四肢や感覚を奪われただ生きているだけのように見える重度の障害者であっても、本当に生きる価値、生かす価値があるのかを問題にしています。つまり本人が「生きる価値」があると主張するのはもちろん、社会が「生かす価値」を認めなければならないのです。
結論ははっきり「生きる価値はある」「生きる権利はある」「誰も奪うことは出来ない」でした。どんな境遇に陥っていたとしても、人は生きたいという意志をもっているし、仮にそれを奪うとすれば、それは本人の意志とか家族の合意といいながら、実は「生きたいと思えない社会」「それを受け入れない社会」なのです。人は皆生まれながらにして等しく「生きる価値」をもっているということではないかと思います。
「脳死」になってただ人工呼吸で生きているだけの子どもたち、しかしそれでも懸命に生き続けているのであれば、それで生きる価値をもち、彼らの人生を全うしているのです。そして、重大疾患や事故で「脳死」になったとしても、決して臓器供給源にしてはならない、最後まで治療をあきらめてはならないと思います。