「悪法も法なり」という言葉を聞いたことがあるでしょうか?
どんなに悪い法でも、法として存在するなら不満があっても従わなければならないという考え方ですね。
さて、この考え方は、現在の日本国憲法の下では正しいのでしょうか。
第1回で、「法の支配」について少し説明しましたが、それと似たような概念に「法治主義」というのがあります。もしかしたら、こちらの言葉の方が耳にはよくなじんでいるかもしれません。この両者を比較すると、この問題の答えが自ずと明らかになってきます。
「法の支配」とは、国家権力を「法」で拘束することで、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理です。
ここで言う「法」とは、法であればなんでもいいというわけにはいきません。基本的人権が保障されており、適正な手続きに従って作られたものでなければなりません。
一方、「法治主義」とは、国民の権利を奪い、義務を課す場合には、法律上の根拠が必要であるという原理です。「法の支配」が英米で発達してきたのに対して、「法治主義」はドイツで発達してきました。
大日本帝国憲法で、「臣民権利義務」の条文に「法律の範囲内において」とか「法律に定めたる場合を除く」と書いているのは、この法治主義をよく表しています。
「法治主義」の場合、「法」の内容を問わないという点で、「法の支配」とは異なります。治安維持法のような基本的人権を侵害する悪法もOKになってしまいます。ドイツでもナチス時代にユダヤ人の迫害が合法化されるなど、人権侵害がまかり通ってしまいました。
(ただし戦後のドイツでは、ナチス時代の反省から、「法」の内容を問題にする「実質的法治主義」が採用されたので、「法の支配」とほぼ同じものとなっています。)
さあ、「悪法も法なり」が正しいかどうか、もうおわかりですね。
では悪法が現実に成立してしまえば、どうすればいいのでしょう。
ひとつはそんな法律を通した政党を選挙で落とし、別の政党を通すことですが、そのためには多数派を形成しなければならず、少数派の人権を守ることにはなかなかつながりません。(また政治家が公約を守るかという問題もあります。)
日本国憲法では、「法の支配」がおこなわれるようにするために「違憲立法審査権」という権限を裁判所に与えています。人権侵害の法律か否かを裁判所が決められるのです。その法律が違憲であるという判断が確定すれば、無効になります。非常に強力な権限です。
ここから先は法律の話ではなく、市民運動の課題ですが、悪法があれば、その問題点を世間に広く知らせ、それを実施させない、協力しないという運動を巻き起こすことも必要になってくるでしょう。(鈴)
どんなに悪い法でも、法として存在するなら不満があっても従わなければならないという考え方ですね。
さて、この考え方は、現在の日本国憲法の下では正しいのでしょうか。
第1回で、「法の支配」について少し説明しましたが、それと似たような概念に「法治主義」というのがあります。もしかしたら、こちらの言葉の方が耳にはよくなじんでいるかもしれません。この両者を比較すると、この問題の答えが自ずと明らかになってきます。
「法の支配」とは、国家権力を「法」で拘束することで、国民の権利・自由を擁護することを目的とする原理です。
ここで言う「法」とは、法であればなんでもいいというわけにはいきません。基本的人権が保障されており、適正な手続きに従って作られたものでなければなりません。
一方、「法治主義」とは、国民の権利を奪い、義務を課す場合には、法律上の根拠が必要であるという原理です。「法の支配」が英米で発達してきたのに対して、「法治主義」はドイツで発達してきました。
大日本帝国憲法で、「臣民権利義務」の条文に「法律の範囲内において」とか「法律に定めたる場合を除く」と書いているのは、この法治主義をよく表しています。
「法治主義」の場合、「法」の内容を問わないという点で、「法の支配」とは異なります。治安維持法のような基本的人権を侵害する悪法もOKになってしまいます。ドイツでもナチス時代にユダヤ人の迫害が合法化されるなど、人権侵害がまかり通ってしまいました。
(ただし戦後のドイツでは、ナチス時代の反省から、「法」の内容を問題にする「実質的法治主義」が採用されたので、「法の支配」とほぼ同じものとなっています。)
さあ、「悪法も法なり」が正しいかどうか、もうおわかりですね。
では悪法が現実に成立してしまえば、どうすればいいのでしょう。
ひとつはそんな法律を通した政党を選挙で落とし、別の政党を通すことですが、そのためには多数派を形成しなければならず、少数派の人権を守ることにはなかなかつながりません。(また政治家が公約を守るかという問題もあります。)
日本国憲法では、「法の支配」がおこなわれるようにするために「違憲立法審査権」という権限を裁判所に与えています。人権侵害の法律か否かを裁判所が決められるのです。その法律が違憲であるという判断が確定すれば、無効になります。非常に強力な権限です。
ここから先は法律の話ではなく、市民運動の課題ですが、悪法があれば、その問題点を世間に広く知らせ、それを実施させない、協力しないという運動を巻き起こすことも必要になってくるでしょう。(鈴)
憲法は国家を縛り、法は国民を縛るというのが基本原則です。ただし、基本的人権を侵すような法律は憲法違反として認められません。あくまで憲法が法より優位に立ちます。
おっしゃるとおり、憲法で書かれたことを具体的に実現するために作られた法もあります。(特に社会権についてはそうですね。)
9条については自衛隊の創設以来「解釈改憲」が横行してきました。それは次第にエスカレートし、最近のソマリアへの自衛隊の派遣はまったく危険な動きであると言わざるを得ません。
また、悪法も法なりという諺は、そもそも法の支配と法治主義が定立していない時代にこれらの考え方を当てはめるべきなのでしょうか?
ここでは、古代民主政になぞらえ、民主主義の原理で理解するほうが自然です。国民に主権があるならば、その国民が選んだ議会で制定された法律ならば従わなければいけない、という意味に解すべきです。
法治主義は民主政治下では実質的には法の支配として機能しえます。にもかかわらずこれを形式的に理解し、現代民主制下の憲法批判につなげるのは、公法的に理論が飛躍しすぎていると思います。
そのことは、本文でも「実質的法治主義」に触れる形で示しています。
ただ、逆に言えば、「法」の中身が基本的人権をないがしろにするようなものであれば、それが「法の支配」を謳っていようが、「実質的法治主義」を謳っていようが、ナチス的なものを正当化してしまいかねません。(もちろん、それは根本原理を否定するものとなり、もはや「法の支配」とも「法治主義」とも言えないとは思いますが…。)
ただ、現在の政治状況下では、地方議会で基本的人権を制約する条例を制定し、それを「民意」だとする風潮が非常に大きな力を持っています。
民主政治というものが単に多数決で物事を決することだということに解されれば、多数決によって少数者の権利を奪うことが正当化されてしまいます。
したがって、今日においては、これらの概念をその淵源にまで遡って考察することが必要だと考えています。もちろん、ご指摘の通り、これらの概念が古代ギリシャに遡って存在していたわけではなく、あくまでも近代の産物です。
ただこの諺(本当にソクラテスがこう言ったのかどうかも不明ですが)が、現在においても人口に膾炙し、普遍的な真理であるかのように思われている傾向があるので、このような形でとりあげてみました。
ご意見ありがとうございます。