「脳死」という概念について、なぜ脳だけがこのように特別扱いされるのか、考えれば考えるほどに疑問が深くなる。
脳機能が低下した場合に、なぜ「脳移植」しないのだろう。
肝臓が機能低下になっても、なぜ「肝臓死」という概念がないのだろう。
どうやら、脳は相当に特別器官として扱われているということなのか。
脳には身体全体の臓器や器官の働きを統合し調整する有機的統合性があるとされている。脳はトップダウン式の司令塔としての扱いを受けている…このことが「脳死は人の死」の基になっている考え方らしい。
はたしてそれは正しい考え方なのだろうか。
否、違うと私は思う。
「脳死」は人の死ではないと私は確信している。そして、改めていうまでもなく前述した「脳移植」や「肝臓死」にももちろん反対である。
「長期脳死」といわれる患者は、日本国内だけでも過去25年間で葯200例もあると報告されている。「脳死は人の死」だという人々は、これらの症例について、「それはきちんとした脳死判定がされていなかったためだ」と反論するだろう。
しかし、きちんと脳死判定され、実際にスペクトという特殊な検査をして、脳血流がないことまでも確認した1歳半の男の子は、数年間生きたことが報告されている。さらに、アメリカでは4歳の時に脳死と診断された女性が、21年間も生存したという報告まである。この女性は心臓死のあと解剖されたが、脳幹構造や神経細胞が失われ脳が岩のように石灰化していた~とのこと。現実として「脳死」状態で21年間を生き抜いたという証明である。
これは、何を意味しているのか。
カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校(UCLA)小児神経内科教授のアラン・シューモン博士は、以下のように語っている。
脳が死んでいても、身体は統合作用を保ち続ける不思議な潜在力を秘めているということだ。脳が死んでも、身体の各部分はかならずしもばらばらにはならず、お互いに連携を取りながら全体性を保つ力があるということが、医学的に明らかにされたのだ。
脳死になっても、かならずしも身体の統合機能は失われないということ、そして「身体の統合作用は、脳という中枢臓器からのトップダウンの指令によって成立しているのではなく、臓器のあいだの相互のやりとりによって成立している」
人間の身体で脳が生命の中心でもなければ、人間の身体で脳だけが重要な訳ではないのだということが理解できる。
何かしら脳は、人間にとってそれが機能していなければ、一人の人間ではないかのような扱いを受けていて、私たちも知らず知らずの間に、そのまやかしに混乱させられてきた。
しかし、脳は、もともと身体の中心的器官ではなかったはずだ。
人間の脳がここまで発達したのは、何故か。
エンゲルスが書いた「猿が人間になるについての労働の役割」という論文の中にその重要なカギを見つけだすことができる。
私たちがかつて猿だった頃、脳はこんなに重要器官ではなかったはずである。しかし、猿はある日二足歩行を始め、それによって二本の前足は、モノをつかみ意識的に労働する二本の手となった。労働することで、社会が形成され、必要に迫られて言葉が生まれる。労働し言葉を使うことで、猿の脳は格段に発達し、かつての脳とは比べものにならないくらい質的に変化した人間の脳になっていったと書かれてある。
『はじめに労働、その後に、そして今度は労働とともに言語-この二つが最も本質的な推進力となって、猿の脳はその影響のもとに、猿のものと瓜二つではあってもそれよりはずっと大きく、ずっと完全な人間の脳へとしだいに移行していった。』
ここからもわかるように、元来は身体の各器官が指令を出して、そして脳が成長発達を遂げていったというものだ。それならば、例え一時的にしろ永久的にしろ、脳機能が休止したとしても、身体には各器官が相互に支えあい協調し、生命維持を続けるための秘訣が兼ね備えられているに違いない。
日本国内だけでも200例以上にも及ぶ「長期脳死」の状態の方々がそのことを、実在することで証明してくれているのだ。
さらに、「脳死」ではないが、脳の一部が傷害されて、脳神経症状の低下を来した場合にも、例えば歩行のためのリハビリや手足の運動や、あるいは言語リハビリ・文字を書く練習等々の「労働」が、脳神経に刺激を与え、低下していた機能回復へと導くことが知られている。これは脳神経の復活や再生能力が、手足や他の感覚器官からの指令によっても復旧していく可能性を証明してると言える。
Byあゆむ
脳機能が低下した場合に、なぜ「脳移植」しないのだろう。
肝臓が機能低下になっても、なぜ「肝臓死」という概念がないのだろう。
どうやら、脳は相当に特別器官として扱われているということなのか。
脳には身体全体の臓器や器官の働きを統合し調整する有機的統合性があるとされている。脳はトップダウン式の司令塔としての扱いを受けている…このことが「脳死は人の死」の基になっている考え方らしい。
はたしてそれは正しい考え方なのだろうか。
否、違うと私は思う。
「脳死」は人の死ではないと私は確信している。そして、改めていうまでもなく前述した「脳移植」や「肝臓死」にももちろん反対である。
「長期脳死」といわれる患者は、日本国内だけでも過去25年間で葯200例もあると報告されている。「脳死は人の死」だという人々は、これらの症例について、「それはきちんとした脳死判定がされていなかったためだ」と反論するだろう。
しかし、きちんと脳死判定され、実際にスペクトという特殊な検査をして、脳血流がないことまでも確認した1歳半の男の子は、数年間生きたことが報告されている。さらに、アメリカでは4歳の時に脳死と診断された女性が、21年間も生存したという報告まである。この女性は心臓死のあと解剖されたが、脳幹構造や神経細胞が失われ脳が岩のように石灰化していた~とのこと。現実として「脳死」状態で21年間を生き抜いたという証明である。
これは、何を意味しているのか。
カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校(UCLA)小児神経内科教授のアラン・シューモン博士は、以下のように語っている。
脳が死んでいても、身体は統合作用を保ち続ける不思議な潜在力を秘めているということだ。脳が死んでも、身体の各部分はかならずしもばらばらにはならず、お互いに連携を取りながら全体性を保つ力があるということが、医学的に明らかにされたのだ。
脳死になっても、かならずしも身体の統合機能は失われないということ、そして「身体の統合作用は、脳という中枢臓器からのトップダウンの指令によって成立しているのではなく、臓器のあいだの相互のやりとりによって成立している」
人間の身体で脳が生命の中心でもなければ、人間の身体で脳だけが重要な訳ではないのだということが理解できる。
何かしら脳は、人間にとってそれが機能していなければ、一人の人間ではないかのような扱いを受けていて、私たちも知らず知らずの間に、そのまやかしに混乱させられてきた。
しかし、脳は、もともと身体の中心的器官ではなかったはずだ。
人間の脳がここまで発達したのは、何故か。
エンゲルスが書いた「猿が人間になるについての労働の役割」という論文の中にその重要なカギを見つけだすことができる。
私たちがかつて猿だった頃、脳はこんなに重要器官ではなかったはずである。しかし、猿はある日二足歩行を始め、それによって二本の前足は、モノをつかみ意識的に労働する二本の手となった。労働することで、社会が形成され、必要に迫られて言葉が生まれる。労働し言葉を使うことで、猿の脳は格段に発達し、かつての脳とは比べものにならないくらい質的に変化した人間の脳になっていったと書かれてある。
『はじめに労働、その後に、そして今度は労働とともに言語-この二つが最も本質的な推進力となって、猿の脳はその影響のもとに、猿のものと瓜二つではあってもそれよりはずっと大きく、ずっと完全な人間の脳へとしだいに移行していった。』
ここからもわかるように、元来は身体の各器官が指令を出して、そして脳が成長発達を遂げていったというものだ。それならば、例え一時的にしろ永久的にしろ、脳機能が休止したとしても、身体には各器官が相互に支えあい協調し、生命維持を続けるための秘訣が兼ね備えられているに違いない。
日本国内だけでも200例以上にも及ぶ「長期脳死」の状態の方々がそのことを、実在することで証明してくれているのだ。
さらに、「脳死」ではないが、脳の一部が傷害されて、脳神経症状の低下を来した場合にも、例えば歩行のためのリハビリや手足の運動や、あるいは言語リハビリ・文字を書く練習等々の「労働」が、脳神経に刺激を与え、低下していた機能回復へと導くことが知られている。これは脳神経の復活や再生能力が、手足や他の感覚器官からの指令によっても復旧していく可能性を証明してると言える。
Byあゆむ
脳は全てを司るコントロール器官で、感情も脳からだから脳が機能しなくなったら人間として終わりだと思っていました。(脳死判定で脳が機能していない判定はできないと思っていましたが)
しかし、始めから脳は全知全能なわけではなく、運動も知力も精神も脳は発達する器官だと思いました。
耳や目や鼻からの聴覚や視角・嗅覚や、手足・体の皮膚感覚への感覚刺激が脳に伝わり、反射や連合的な動きを繰り返し、時には一見退行しながら動きは統合され発達します。頭からではなく、体からだったのです。
体ある限り、生物は可能性に満ちているんだ♪
と思いました。
そして刺激受ける限り運動や思考も精神も発達する可能性があると思うから、脳死だから人の死というのは治療放棄だと思いました。
私のドナーカードを書き換える決心がつきました。
脳死は人の死ではないという確信に近づき、ドナーカード書き換えの決心も…。
こちらこそありがとうございます(m_m)
読んでもらえてホントに嬉しいです
私も今回の法改悪の動きのなかで、色々考えてみて、改めて脳死は人の死ではないと確信しました。
脳が中心の考え方が如何に傲慢なものか、その間違いに気づかされました。
この問題はまだまだ色んな側面から考えていきたいと思っています。これからも時々投稿予定です。よかったらまたのぞいてくださいね~