シェムリアップ死後の書🌴

憧れのパワースポット、シェムリアップで死後のことを考える日記。

よく理解する者たちは、蓮華の中におのずから化生し、両足を組んで安坐した姿で出現するのだ。

2014年01月21日 14時36分43秒 | 日記

ある一念において、弥陀仏と会う。

衆生ありて、明らかに仏智ないし勝智を信じて、もろもろの功徳をなし、信心をえて廻向せば、このもろもろの衆生、七宝の蓮華のなかにおいて、自然化生し、結跏趺坐(安楽国に化生((けしょう))する時は安楽国の蓮華の中に結跏趺坐の姿勢をして自然((じねん))に出現する。)須臾(しゅゆ)の頃に、身相、光明、智慧、功徳は浄土(ここでは安楽国・無量寿国・無量光国・極楽)のもろもろの菩薩のごとく、具足し成就せん。

須臾(しゅゆ)は、10-15(1000兆分の1)であることを示す数の単位逡巡の1/10、瞬息の10倍  一念と同じ。


常識を超えていますが、すべて本当の現実世界のこと。人の考えを超えているだけ。

一般の人に簡単に理解できるように、枝葉末節は全部除いて、核心部のみ記述。

「あらゆる衆生、その(無量寿仏の)名号を聞きて、信心歓喜し、ないし一念せん。至心に廻向して、かの国に生れんと願わば、すなわち往生することをえて、不退転(の位)に住すればなり。」 第18願成就文

「 諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心廻向 願生彼国 得往生 住不退転 」 同 第18願成就文

「その下輩(天上界と人間界にいる一般大衆)の者というは、十方世界の、もろもろの天・人民にして、それ至心にこの国に生れんと欲うものあらんに、たとい、もろもろの功徳を作ることあたわずとも、まさに無上菩提の心を発して、一向に意を専らにして、ないし十念にても、無量寿仏を念じて、その国に生れんと願うべし。もし、(この人)深法を聞き、歓喜信楽して、疑惑を生ぜず、ないし一念に、かの仏を念じて、至誠心をもって、その国に生れんと願わば、この人、(いのち)終わるときに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生をう。」

そして、全宇宙の天上界と人間界にいる、よく理解した者たちは、阿弥陀仏の安楽国の池に浮かぶ

蓮華の中におのずから化生し、両足を組んで安坐した姿で出現するのだ。

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現実世界に本当にある法蔵菩薩の48願-阿弥陀仏の安楽国設立の請願

2014年01月09日 21時01分43秒 | 日記

阿弥陀仏の名号を聞くとは、単なる、名前を聞いたり、念仏したりすることではなく、魂が生を離れて、光明に包まれた状態で、阿弥陀仏の名号(実際の姿・48願のかなった全存在)に直接会って供養することで、その魂が自分の心中で歓喜し信心が目覚めたことの証明が記憶されてひと時も忘れない(総持という)状態である。  以上はスペルマバーグの実際の体験談

以下もすべて作り話ではなく、本当の現実の話である。 

41願: もしも私が仏となる際に創立する国土以外の、すなわち無量・無数・不可思議・無比の諸宇宙の全世界に住む、数兆に及ぶ莫大な数の求道者たちが梵我一如を体験し一刹那の間に私の名号を見聞きすると同時にその魂が信心決定し不退転を得ることが出来ない場合は、正覚を取りません。   無量寿経梵文 スペルマバーグ意訳

 

同42願:たとい、われ仏となるをえんとき、他方の国土のもろもろの菩薩衆、わが名字を聞きて、みなことごとく清浄解脱三昧を体得し、この三昧に住して、一発意の間に、無量・不可思議のもろもろの仏・世尊を供養して、禅定の意を失わざらん。もし、しからずんば、正覚を取らじ。   無量寿経漢文書き下し

 

もしもわたくしが覚りの境地におもむいた後に、わたくしの名がすみやかに十方の、多くの無限の諸仏国土にひろく達しないならば、わたくしは、仏とはならないでしょう。 無量寿経梵文詩句 3.

 

33願:世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数・不可思議・無比の諸世界にいる生ける者どもが(わたくしの)光に照らされてはっきりと明らかに見えるようになったとして、かれらすべてが、神々と人間とを超えた幸せをそなえるようにならないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。   無量寿経梵文

同33願:たとい、われ仏となるをえんとき、十方の無量・不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが光明を蒙りて、その身に触れなば、身意柔軟にして、人・天に超過せん。もし、しからずんば、正覚を取らじ。   無量寿経漢文書き下し

 

34願:世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、あまねく無量・無数・不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる求道者たちがわたくしの名を聞いて、それを聞いたことにともなう善根によって、迷いの生存を除いているから、以後、覚りの座に至るまで、神秘な保持能力(記憶して忘れない力)を得ないようであったら、その間はわたくしは<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。   無量寿経梵文

同34願:たとい、われ仏となるをえんとき、十方の無量・不可思議の諸仏世界の衆生の類、わが名字を聞きて、菩薩の※無生法忍、(ないしは)もろもろの深(妙)なる総持をえずんば、正覚を取らじ。   無量寿経漢文書き下し

※無生法忍: 離生を証明して不生不滅の道理を心が悟ること 信の一念に正成就不退の位に住すること

  スペルマバーグ流に言うと、

  自分の魂が生(生きている時の感覚)を離れて自然のメカニズムの歯車のひとつの動きとして廻り始める状態で、自分が生きていないが滅してもいない状態。自分の動きが、自然のメカニズムと一体化して、自分の動きが他に影響を与えると同時に、自分以外の他の動きの影響で自分が動いているのを自分で見ている状態。 要するに自分が世の中のメカニズムの一部として動いているのが分かるがそれを止められないこと。

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