学校教育を考える

混迷する教育現場で,
日々奮闘していらっしゃる
真面目な先生方への
応援の意味を込めて書いています。

「公」ということの意味

2008-01-10 | 教育
私が子どもの頃,
小学校の先生が,
「明日は,セロハンテープをもっていらっしゃい」と
おっしゃった。
当時,セロハンテープは
「セロテープ」というのが普通であったので,
子どもがそのことを問いただすと,
先生は,
「セロテープ」は登録商標なので
公立学校の先生である自分は
特定の企業の商標名を
教室で口にすることはできないのだという意味のことを
おっしゃった。

なぜか,印象に残っている。

「公」であるということは,
特定の「私」との関係を持たない,
あるいは,
どの「私」とも
一定の距離を保つということではなかったか。

そこに,「公」の「公」たる所以があり,
「私」にはない「公」の理念も生まれてくる
のではないか。

最近,杉並区の中学校が
特定の塾と連携したというニュースを聞いた。

連携する塾を公募したのであろうか?
競争入札したのであろうか?
なぜ,その「私」企業が選ばれたのか?
その塾の授業の会場である校舎の
電気代やチョーク代は誰が負担するのか?

学校ではなく,地域本部が主催などという
搦め手をつかっているのも解せない。

理由はどうあれ,
「公」としての矜持を見失った公立学校に
「公」を名乗る資格はないし,
「公」が維持する必要もない。
 


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17 Comments

コメント日が  古い順  |   新しい順
塾に行けない子への福音だそうです (電車女)
2008-01-11 01:14:01
教育ブログ上位100ブログの中で、この問題を取り上げてくださっているのは現在4ブログです。貴ブログのご意見はまさにそのとおり。良くぞ言ってくださいました。
とんでもない「よのなか科」ならぬ、世の中か!
9日の朝日新聞、天声人語の意味不明文をご覧下さい。
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塾と学校の望ましい連携像とは? (kurazoh)
2008-01-11 10:03:06
難関校に進学する生徒の多くは進学塾に通っています。しかし、それらの生徒の中には進学後、実力?が発揮できず、「本当にこの子の学力は高いと言えるの?」と思われてしまうことがあります。大学でも同じ実感をもっている教師が多い。知識量の差で合否が決まるような入試問題を出しているところでは、進学塾はどうしたら効率よく点がとれるかに注力しています。いわゆるPISA型に対応した学力が日本の高校生に育っていない背景に、入試問題やそれに対応した塾の教育?があることは明白です。塾が学校と連携して、「暗記重視の入試対策ではない、学ぶ楽しさが味わえる本物の学力を育成できる教材づくり」に取り組んでくれることは、評価すべきことかもしれません。学校ではできない成績上位者の「能力向上策」と、進学実績・営利至上主義の塾ではできない「本物の教材開発」が合体して、よい成果が上がるのであれば、評価できる取り組みになるのですが。
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Unknown (madographos)
2008-01-12 00:13:32
>電車女さま。コメントありがとうございます。天声人語読みました。全く馬鹿げていますね。公教育の本質が,学力問題に巧妙にすりかえられています。朝日も物事の本質を見抜く目がないですね。ジャーナリズムの退廃にはあきれます。
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Unknown (madographos)
2008-01-12 00:27:45
>kurazohさま。コメントありがとうございます。そもそも塾と学校が連携することは不可能です。塾はあくまでも営利企業です。とくに大手進学塾はそうです。公教育とは全く機能が異なります。両者が合同して「本物の教材開発」などできませんし,おそらくする気もないでしょう。「公」と「私」との機能の違いを,学力問題にすりかえるべきではありません。公立学校は,「公」の枠組の中でできることを追究すべきです。安易に,「私」の機能を取り込もうとすることは危険です。私企業の立場から見れば,公立学校は極めておいしい市場です。さらに公立学校の先生方や教育委員会の方々は,競争や利潤追求の観点に基づく営利企業の算段に全く無垢なほどに無知です。これほど扱いやすい市場があるでしょうか。大手塾にとっては,公立学校との連携が将来の安定したビジネスのための大きなチャンスになるのです。「教材開発」は,営利目的を教育目的であるかのようにカモフラージュする手段なのです。そのような手段を使うところに今回の連携のあざとさを感じます。少なくとも「私」の立場での教育に身を置いた経験のある私にはそう思えます。
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「公共」のかたち (kurazoh)
2008-01-12 01:41:00
ご回答ありがとうございます。
消費者・生活者の論理に立たれると、「公」の立場が弱くなってしまうのが問題ですね。公立学校の生徒は、1人当たり1コマの授業に1000円の税金を使っている計算になります。年間100万円です。これだけの授業料が税金でまかなわれているのに、志望する高校に入学するための学力はつかない。だから塾という「私」教育が必要になる。公教育の「より高い学力をつけさせる」という「機能」の不足を補う産業が進学塾です。生徒や保護者のニーズにこたえようと、和田中は学校支援組織という「公共」という形で対応しようとしています。生(なま)のままの「私」教育ではないことで、批判はあっても実現の可能性が高い政策になっています。よい教材を開発できる塾講師が教員になって、楽しい授業を展開してくれることを期待したいです。
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Unknown (madographos)
2008-01-12 08:05:23
>kurazoh様。コメントありがとうございます。妙な論理ですね。「志望する高校に入学するための学力」がつかないのは,本人の責任ではありませんか? 学校は,学習指導要領にしたがって,生徒全員に対して授業を行い,理解度を確かめるというのが責任範囲であって,真面目に勉強する生徒ならばそれだけで通常,高校受験の学力は身につきます。もし志望校に入学するための学力を自力でつけることができないならば,能力がないかもしくは努力が足りないということでその場合は志望校をあきらめるべきですし,それでも何とかしたいというならば,「私」的に塾などの学習機関を利用して,足りない能力を補う可能性にかけるしかありませんね。その場合でも,塾であっても,受験学力をつけてくれるわけではありません。要は,本人の能力あるいは努力の問題でしかありません。入試は選抜のために行うものです。選ぶ側は,能力のある人間がほしい,ただそれだけです。そして,能力をつけるのは,本人の努力,つまり自己責任です。そこをあいまいにしてはなりません。
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学習指導要領の総則にご留意を。 (kurazoh)
2008-01-12 15:34:23
受験に関しては、地方の学校でなければ、「どうせ受験勉強は塾でやらせるからいい」という常識があるので「自己責任」論ですまされるかもしれません。
ただ、けっこうナーバスにならざるを得ない状況がおこることがあります。
私の勤務していた学校で、学級数が多かったため、同じ学年を2人の教師が受け持っていた教科がありました。問題になったのは、Aという教師が受け持ったクラスよりBという教師が受け持ったクラスの方が平均がかなり低く(この教科に限って)、内申が悪くなり、受験が不利になるということでした。
小学校の担任の「当たりはずれ」問題といっしょです。
こういう現実があるとき、Bという教師が受け持ったクラスの生徒は、この教科の勉強だけしなかったのが悪い。責任は子どもにある。という論理は通用するでしょうか?
小学校で、初任者の受け持ったクラスは、子どもも勉強の習慣が身に付かないのが悪いので、初任者には責任はない・・・通用しませんよね。
だから、能力差が付きやすい算数などは、教師がローテーションで学級をまわり、不公平がないように配慮している学校すらあります。しかし、教師ごとに決まり事や教え方が変わるので、みんなできなくなった、という話も聞いたことがあります。
学習指導要領の総則には、「指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」というものがあって、中学校では12項目あるのですが、そのうちの1つが、「各教科等の指導に当たっては、生徒が学習内容を確実に身に付けることができるよう、学校や生徒の実態に応じ、個別指導やグループ別指導、学習内容の習熟の程度に応じた指導、教師の協力的な指導など指導方法や指導体制を工夫改善し、個に応じた指導の充実を図ること。」となっています。
これが「公教育」に求められていることです。
さらに、「開かれた学校づくりを進めるため、地域や学校の実態等に応じ、家庭や地域の人々の協力を得るなど家庭や地域社会との連携を深めること。」とあります。この地域社会には「塾」が含まれるかどうか。前述の学習指導要領の規定を実施しきれない学校の選択肢として、「塾」が選ばれたわけです。
いずれにせよ、「生徒全員に一斉指導をして理解度を図れば終わり」というわけにはいかないので、学校がどこまで「個に応じた指導の充実」を図ることができるかが問われなければなりません。
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Unknown (madographos)
2008-01-12 20:08:30
>kurazohさま。たびたびコメントありがとうございます。「地域社会の連携」をそのような文脈で解釈するのは拡大解釈ではないでしょうか。事例としてあげておられるA先生とB先生の問題は,それこそ学校のなかで解決をはかることのできる問題で,同一学年を担当している二人の教師の協力関係や相互の連絡体制が全くできていないからに他なりません。こんなことが問題になって,しかも,それを自ら解決できないような学校は,校長以下関係者が無能である証拠ですから,さっさと辞表を出してしかるべきです。少なくとも,授業に関しては学校教師がプロとして責任を持つべきです。もしもそれすら無理で,塾との妙な連携を必要とするというならば,公立学校や教育委員会にもはや公教育を任せるわけにはいきませんね。
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日本の教育は政治的だなと思います (yo)
2008-01-12 23:17:14
藤原校長は「私学ではなくて志学をめざす」というようなことを言っていました。
私には民間あがりの校長としての「脱公立宣言」とも聞き取れたのですが、結局言葉のあやだったのかなと思っています。
彼はやはり「私学化」をしたかったのではないかと思うのです。
巧みに周囲を取り込み、上手に人と金を集めながら。
そういった手腕は民間では評価されるのかもしれません。

>理由はどうあれ,
>「公」としての矜持を見失った公立学校に
>「公」を名乗る資格はないし,
>「公」が維持する必要もない。

その通りだなと思いました。

それから、ちょっと横やり失礼。

「指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」は「前述の学習指導要領の規定を実施しきれない学校の選択肢」のために存在していると解釈するのは本末転倒な解釈だと思います。

「個に応じる」の拡大解釈としてもおかしい。
受験指導(受験学力)をクローズアップするのも総則から語る論議としてはおかしい。
「今の学校にできない」というのであれば、学校を今の枠組みで改善していく道が第一。

そう思いました。
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Unknown (madographos)
2008-01-13 08:18:18
>yoさま。コメントありがとうございます。やはり民間出身で校長になるような人は,民間の考え方がベストだと思っているところがあって,「公」の意味があまりよく理解できないし,理解しようともしないのでしょう。「公」のほうでも,自らの問題をあくまで自力で解決しようとせず,なにか「私」のなかに救いがあるかのような幻想を抱いていることも問題ですね。
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