私が子どもの頃,
小学校の先生が,
「明日は,セロハンテープをもっていらっしゃい」と
おっしゃった。
当時,セロハンテープは
「セロテープ」というのが普通であったので,
子どもがそのことを問いただすと,
先生は,
「セロテープ」は登録商標なので
公立学校の先生である自分は
特定の企業の商標名を
教室で口にすることはできないのだという意味のことを
おっしゃった。
なぜか,印象に残っている。
「公」であるということは,
特定の「私」との関係を持たない,
あるいは,
どの「私」とも
一定の距離を保つということではなかったか。
そこに,「公」の「公」たる所以があり,
「私」にはない「公」の理念も生まれてくる
のではないか。
最近,杉並区の中学校が
特定の塾と連携したというニュースを聞いた。
連携する塾を公募したのであろうか?
競争入札したのであろうか?
なぜ,その「私」企業が選ばれたのか?
その塾の授業の会場である校舎の
電気代やチョーク代は誰が負担するのか?
学校ではなく,地域本部が主催などという
搦め手をつかっているのも解せない。
理由はどうあれ,
「公」としての矜持を見失った公立学校に
「公」を名乗る資格はないし,
「公」が維持する必要もない。
小学校の先生が,
「明日は,セロハンテープをもっていらっしゃい」と
おっしゃった。
当時,セロハンテープは
「セロテープ」というのが普通であったので,
子どもがそのことを問いただすと,
先生は,
「セロテープ」は登録商標なので
公立学校の先生である自分は
特定の企業の商標名を
教室で口にすることはできないのだという意味のことを
おっしゃった。
なぜか,印象に残っている。
「公」であるということは,
特定の「私」との関係を持たない,
あるいは,
どの「私」とも
一定の距離を保つということではなかったか。
そこに,「公」の「公」たる所以があり,
「私」にはない「公」の理念も生まれてくる
のではないか。
最近,杉並区の中学校が
特定の塾と連携したというニュースを聞いた。
連携する塾を公募したのであろうか?
競争入札したのであろうか?
なぜ,その「私」企業が選ばれたのか?
その塾の授業の会場である校舎の
電気代やチョーク代は誰が負担するのか?
学校ではなく,地域本部が主催などという
搦め手をつかっているのも解せない。
理由はどうあれ,
「公」としての矜持を見失った公立学校に
「公」を名乗る資格はないし,
「公」が維持する必要もない。
とんでもない「よのなか科」ならぬ、世の中か!
9日の朝日新聞、天声人語の意味不明文をご覧下さい。
消費者・生活者の論理に立たれると、「公」の立場が弱くなってしまうのが問題ですね。公立学校の生徒は、1人当たり1コマの授業に1000円の税金を使っている計算になります。年間100万円です。これだけの授業料が税金でまかなわれているのに、志望する高校に入学するための学力はつかない。だから塾という「私」教育が必要になる。公教育の「より高い学力をつけさせる」という「機能」の不足を補う産業が進学塾です。生徒や保護者のニーズにこたえようと、和田中は学校支援組織という「公共」という形で対応しようとしています。生(なま)のままの「私」教育ではないことで、批判はあっても実現の可能性が高い政策になっています。よい教材を開発できる塾講師が教員になって、楽しい授業を展開してくれることを期待したいです。
ただ、けっこうナーバスにならざるを得ない状況がおこることがあります。
私の勤務していた学校で、学級数が多かったため、同じ学年を2人の教師が受け持っていた教科がありました。問題になったのは、Aという教師が受け持ったクラスよりBという教師が受け持ったクラスの方が平均がかなり低く(この教科に限って)、内申が悪くなり、受験が不利になるということでした。
小学校の担任の「当たりはずれ」問題といっしょです。
こういう現実があるとき、Bという教師が受け持ったクラスの生徒は、この教科の勉強だけしなかったのが悪い。責任は子どもにある。という論理は通用するでしょうか?
小学校で、初任者の受け持ったクラスは、子どもも勉強の習慣が身に付かないのが悪いので、初任者には責任はない・・・通用しませんよね。
だから、能力差が付きやすい算数などは、教師がローテーションで学級をまわり、不公平がないように配慮している学校すらあります。しかし、教師ごとに決まり事や教え方が変わるので、みんなできなくなった、という話も聞いたことがあります。
学習指導要領の総則には、「指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」というものがあって、中学校では12項目あるのですが、そのうちの1つが、「各教科等の指導に当たっては、生徒が学習内容を確実に身に付けることができるよう、学校や生徒の実態に応じ、個別指導やグループ別指導、学習内容の習熟の程度に応じた指導、教師の協力的な指導など指導方法や指導体制を工夫改善し、個に応じた指導の充実を図ること。」となっています。
これが「公教育」に求められていることです。
さらに、「開かれた学校づくりを進めるため、地域や学校の実態等に応じ、家庭や地域の人々の協力を得るなど家庭や地域社会との連携を深めること。」とあります。この地域社会には「塾」が含まれるかどうか。前述の学習指導要領の規定を実施しきれない学校の選択肢として、「塾」が選ばれたわけです。
いずれにせよ、「生徒全員に一斉指導をして理解度を図れば終わり」というわけにはいかないので、学校がどこまで「個に応じた指導の充実」を図ることができるかが問われなければなりません。
私には民間あがりの校長としての「脱公立宣言」とも聞き取れたのですが、結局言葉のあやだったのかなと思っています。
彼はやはり「私学化」をしたかったのではないかと思うのです。
巧みに周囲を取り込み、上手に人と金を集めながら。
そういった手腕は民間では評価されるのかもしれません。
>理由はどうあれ,
>「公」としての矜持を見失った公立学校に
>「公」を名乗る資格はないし,
>「公」が維持する必要もない。
その通りだなと思いました。
それから、ちょっと横やり失礼。
「指導計画の作成等に当たって配慮すべき事項」は「前述の学習指導要領の規定を実施しきれない学校の選択肢」のために存在していると解釈するのは本末転倒な解釈だと思います。
「個に応じる」の拡大解釈としてもおかしい。
受験指導(受験学力)をクローズアップするのも総則から語る論議としてはおかしい。
「今の学校にできない」というのであれば、学校を今の枠組みで改善していく道が第一。
そう思いました。