教育再生会議の第一次報告がまとまったことを
知らせる政府広報の中に
「全ての子どもに高い学力と規範意識を」という部分がある。
規範意識はともかくも,
「全ての子どもに高い学力」という表現は
どうもいただけない。
「全ての子ども」というからには,
義務教育の段階のことを指しているのであろう。
義務教育が全ての子どもに保障するのは,
社会生活を営む上での
必要最低限度の基礎的知識や技能などを
与えることではなかったか。
これを,「高い学力」という言葉で
言い換えていくとすれば,
義務教育の根本的な機能を見失ってしまうのである。
子どもたちの多様な実態に対して,
これほどまでに鈍感な表現があるだろうか。
そもそも,「学力」が
教育論議の中心になっていることそのものが,
学校教育の価値を矮小化させてしまうことに
気づく人は少ないのだろうか。
深く憂慮しているのである。
知らせる政府広報の中に
「全ての子どもに高い学力と規範意識を」という部分がある。
規範意識はともかくも,
「全ての子どもに高い学力」という表現は
どうもいただけない。
「全ての子ども」というからには,
義務教育の段階のことを指しているのであろう。
義務教育が全ての子どもに保障するのは,
社会生活を営む上での
必要最低限度の基礎的知識や技能などを
与えることではなかったか。
これを,「高い学力」という言葉で
言い換えていくとすれば,
義務教育の根本的な機能を見失ってしまうのである。
子どもたちの多様な実態に対して,
これほどまでに鈍感な表現があるだろうか。
そもそも,「学力」が
教育論議の中心になっていることそのものが,
学校教育の価値を矮小化させてしまうことに
気づく人は少ないのだろうか。
深く憂慮しているのである。
おっしゃること、同感です。私たち教員もいけないのですが、予定しているタイムスケジュールを消化させたくて、つい生徒に「早く~、急ぎなさい」と声をかけています。
教員になって自分の性格が変わったところと言えば、
まず真っ先に「せっかちになった。物言いがきつくなった」と親に言われます。
私たちが教員である前に「一人の人間」として、基本的な生活習慣を身に付け、生活にゆとりを持たないと理想像は実現しないと思います。
「よく学び、よく遊び、よく寝る」
自分に役立つ分野に積極的に関心を持ち、健康的な生活を営みたいです。
私は海外の底辺校で日本語を教えて2年目になります。教師の置かれている状況の困難さは日本とあまり変わりません。
いつもこちらのブログを読み、共感と心の安らぎを覚えております。
「学力重視」の大切さも大いにわかるのですが、「全ての学生」にそれを求めるとなると、私の学校のような「底辺校」や「授業困難校」はどうすればいいのでしょうか。
日々、せめて「普通の授業」を成り立たせるために冷や汗かきながら教壇に立っている身としては(そしてなかなかそれすら実現できない状況)、「高い学力」なぞ夢のまた夢です。
文科省などはこういう底辺の状況をどれほど把握しているのでしょうか・・・。