高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

参照 「日本はロシア産原油と天然ガスを輸入することなく生き残ることはできない」 ほか

2023-02-01 23:30:05 | 参照


すこし前の記事であるが重要性は変わらない

 
日本がロシア産燃料抜きに生き残ることは不可能=伊藤忠会長
 
2022年11月1日, 12:00 (更新: 2022年11月1日, 12:01)
 
© Sputnik / Ramil Sitdikov
 
日本はロシア産原油と天然ガスを輸入することなく生き残ることはできない。ロシア極東の石油・天然ガス開発事業「サハリン1」に参加する伊藤忠商事の岡藤正広代表取締役会長が英紙フィナンシャル・タイムズの取材に応じた中で発言した。
岡藤会長によると、欧州や米国とは違い、日本はエネルギー燃料の大半を海外に依存していることから、制裁があるとしてもロシアとの関係を放棄することは不可能だという。会長は取材の中で、「実際問題として、仮にロシアから輸入しない場合、あるいは仮に輸入量を減らす場合だとしても、我々は生き残れない」(英語からの翻訳)とコメントした。
また商社に地政学的圧力が行使されるトレンドや、 サプライチェーンの分野で協力の枠組みを強いることは世界経済に否定的な影響を与えると懸念を示した。
 
〈穀物合意に参加するロシア船を攻撃しないとウクライナが保証することが不可欠=露大統領
2022年11月1日, 11:31〉
 
先に日本政府は「サハリン1」の運営を担う新会社へ参画する方針を固めた。日本経済新聞によると、日本は原油輸入の約95%を中東に依存しているため、日本政府は「ロシアでの権益を当面維持することは原油の安定供給に欠かせない」と判断した。一方、同紙は、日本はG7としてロシア産石油の輸入を原則禁止する方針を決めており、「サハリン1の権益を今後も維持し続ければ矛盾した対応となる」とし、「中東依存の高さを理由にした権益維持に国際社会の理解を得られるかが課題となる」と報じている。
 
〈ブリヂストン、ロシア事業を譲渡へ 同社HPで発表
2022年10月31日, 20:09〉
 
ロシアのプーチン大統領は10月7日、「サハリン1」の運営会社を新たに設置し、米国の旧運営会社から権利や義務を移行する大統領令に署名した。日本政府や伊藤忠商事、丸紅、石油資源開発などが出資する日本のサハリン石油ガス開発(SODECO)を含む外国企業は、新たな運営会社が設置されてから1か月以内に株式保有を継続するかどうかについて、ロシア政府に通知する義務がある。また、この大統領令に基づき、14日付で国営の新運営会社が発足した。
 
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ロシアは隣国の助けにより西側の制裁を耐え抜いた=米紙
 
2023年2月1日, 12:00 (更新: 2023年2月1日, 16:27)
 
© Sputnik / Alexei Druzhinin
 
ロシアは西側の制裁を耐え抜き、その貿易はウクライナ危機以前の水準に回復した。ニューヨーク・タイムズのアナ・スォンソン解説員が指摘した。
スォンソン解説員によると、ロシアの貿易は多くの分野においてウクライナ危機以前の水準に戻ったという。

アナリストらは、ロシアからの輸入が2022年2月以前の水準に戻ると見込んでおり、既に回復したか、或いは近く回復すると分析している。
 
解説員によると、「ロシア経済は驚くほど堅固」で、西側による制裁の効果が疑問視されるほどだという。一部の国はエネルギー燃料やその他の主要取引物においてロシアへの依存度を低下させることが困難であったほか、ロシア中央銀行は自国通貨ルーブルの暴落を防ぎ、金融市場の安定維持に成功したと解説員は指摘した。

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ヤスパース『哲学』翻訳 第三巻「形而上学」「第三章 超越者への実存的関係の諸々」3

2023-02-01 16:06:38 | 翻訳

(102頁)
昼の法則と夜への情熱

 反抗および没落においては、否定的なものが肯定的なものに対立していた。この否定的なものは、或る時は、無の存在へと溶解する路として、無価値であるように見えていたのであり、或る時は、運動のなかでの分節化として、肯定的なものにとっての条件であるように見えていたのである。この運動の緊張から、超越者への関係が実現するのである。この否定的なものは、しかし、二律背反のなかで、終極的に、それ自体が肯定性であるような破滅作用となり得るものなのである。すなわち、その以前においてはただ否定するものであるように見えていたものが、真理となるのであり、紛糾しながらではあるが、今や、ただ唆(そそのか)すものであるのではなく、訴え掛けるものとなるのである。そして、このような真理を回避することこそ、ひとつの新たな没落となるのである。我々の存在は、現存在のなかで、二つの力へと関係させられているように見える。我々は、この二つの力の実存的な現象を、昼の法則と夜への情熱、と名づける。
 1.昼と夜との二律背反。— 昼の法則は、我々の現存在を秩序づけ、明晰さと一貫性と忠実を要請し、理性と理念とへ、一なるものと我々自身とへ、結びつける。昼の法則は、世界の内で実現するようにと、時間の内で建設するようにと、現存在を無限の道程上で完成するようにと、要請するのである。— だが、昼の限界に臨んで、ひとつの他のものが語る。この他のものを追い返したからといって、いかなる安らぎも許されはしない。夜への情熱は、あらゆる種類の秩序を突破するのである。夜への情熱は、無の無時間的な深淵の中に飛び込むのであり、この深淵は、自らの渦の中にすべてのものを引き込むのである。歴史的な現象としての、時間の内における構築のすべては、(103頁)夜への情熱には、表面的な欺瞞に見えるのである。明晰さは、夜への情熱にとって、本質的なものに押し迫る力のあるものでは全くない。夜への情熱は、むしろ自己を忘却することによって、明晰ならざるもの[die Unklarheit]こそを、本来的なものの無時間的な暗闇として摑み取るのである。自己弁明の可能性を一切求めることのない、ひとつの理解不能な「せざるをえない」に基づいて、夜への情熱は、昼に敵対して不信仰で不実となるのである。夜への情熱にたいして、課題や目標が語りかけることはない。夜への情熱は、無世界性の深みの内で成就されるもののために、世界の内で自らを破滅させようとするような、衝動なのである。
 昼の法則は死を限界として知っているけれども、実存が飛翔において自らの不死性を確認するかぎりでは、昼の法則は死を根本において信じているわけではない。行為することによって私は生のことを思っているのであって、死のことを思っているのではない。現存在において存在を歴史的に継続して建立することへと差し向けられながら、私は死において尚も、あたかも死が私の前に立っていないかのように、特定のこの現存在のことと、その現存在から作用が生じることを思っているのである。昼の法則は、死が敢行されるに任せておくけれども、死を求めはしない。私は死への勇気を持つけれども、死は私にとって友でも敵でもない。しかるに、夜への情熱は、自らの友でも敵でもあるものとしての死にたいして、愛しかつ戦慄するという関係を有するのである。夜への情熱は、死に憧れ、同時に死を阻止しようと努める。死は夜への情熱に語り掛け、この情熱は死と付き合う。可能性無く生きるという現存在への苦痛、そして、無世界的な生の歓喜、この両者は、自らの夜に基づいて死を愛するのである。この情熱は、死における横溢を知っている。この横溢が最終的に消え去っても、まだ、すべての迷いと苦しみの後での墓における待望の安らぎの意識が残っている。どんな場合でもこの情熱は、生への裏切りであり、すべての現実性と可視性とにたいして忠実が無いことなのである。影の国がこの情熱にとって、其処でこの情熱が本来的に生きる故郷となるのである。
 私が既に根源的に現存在と疎遠であるわけではなく、理性と建設とを嫌っているわけではない場合でも、私が昼を摑み取りながらも人生を続けてゆくうちに、私にとって、夜の国が、生長してゆくひとつの世界となる。この夜の世界において私は、今はまだ遠いにしても我が家に居る如くになり、そして遂には、私が高齢となり、ひとつの現存在世界が疎遠なものとなって私を締め出すとき、夜の世界は人生の追憶として私を迎え入れるのである。昼の法則は、私にとって汲み尽くされることによって、自らの内実を私にたいしては失い得るのである。現存在における私の存在は疲労し得るのであり、夜への情熱が終極のものとなり得るのである。
 現存在における歴史的な存在の手堅い経緯においては、開顕化への意志が導き手となっている。自らを閉ざしているような反抗は、開顕化に抵抗する。ところが夜への情熱はというと、開顕化を欲するにもかかわらず、自らを明かすことが出来ないのである。夜への情熱は運命を摑み取るが、この運命は、この情熱が視ながら欲しかつ欲さないような運命であり、それゆえ必然にも自由にも見えるようなものなのである。この情熱は(104頁)言うことが出来る、「ひとつの神が、私が為すように運命を為すのだ」、と。この情熱は一切を敢行するが、現存在の諸目的の世界においてのみならず、この情熱が種々の秩序や忠実や自己存在を毀損することで実存そのものを破滅させるように見える処においてこそ、一切を敢行するのである。目標は、存在の深さなのであり、この深さは、人間を現存在の外部に晒し、打ち砕くものである。この目標は、意味無きものの中へと瓦解することなのである。自分自身の天運へと駆り立てられているという不安のなかでは、熟慮と選択は止んでいるように見えるのであるが、それでも一切は、これ以上はない仕方によってのように、選択され、熟慮されているように〔も〕見えるのである。何ものも、この情熱の為す決意には太刀打ちできないように見えるのであるが、この決意は、別類の決意には不可視なものに留まりながらも、あらゆる運動を自らの内に秘めていたのである。壊滅作用は人間を全的に占領する。尚も残っていた建設意志さえもが、自ら欲するように見えていたものとは反対のものを引き起こすように見えるとき、〔この壊滅作用に〕奉仕させられるのである。
 この情熱は、根源的に不明瞭なままに留まる。不明瞭さは、この情熱にとって苦痛であるが、秘密でもあるのであって、この秘密は、禁じられたものや覆い隠されたもののあらゆる魅力を凌駕するものである。この情熱は、すべてが暴露され明瞭となることを求めるが、それは、真の、暴露不可能な秘密に、純粋に気づくためなのであり、〔そのようにしてこの秘密を、〕わざと秘密をこしらえて煙幕によって通俗な経験的実際性が暴露されるのを防止しようとする自我欲から、区別するためなのである。この情熱は、不明瞭であっても完全に確信を有しており、たしかに不安を持ってはいるが、この不安は、運命の必然性における無限な不安なのであって、この運命のなかでは、この情熱は忠実を破り、絶対的な秘密がこの情熱を不明瞭なまま死の中へと駆るのである。
 そのようにして、この情熱は自分自身を摑み取ることによって、自らの存在を無のなかで確信し、浄福であって不浄であるままに、自らが裏切りかつ破壊するものを現存在における自らの死をもって償うのである。この情熱は、自らが死を欲する場合にのみ、自らが同時に真理であることを知っており、この情熱がこの情熱自身の超越者の中へと引き裂くことはなかった者にとって、真理であり続けるのである。
 2.一層具体的な記述の試み。— 夜への情熱の現象を一層具体的に記述することは、挫折するものである。なぜなら、あらゆる規定的に言表されたことは、昼の明るさの中へと移行し、そのことによって昼に属するようになり、昼の法則に服するようになるからである。熟慮というものにおいては、昼が優越している。不明瞭性を明瞭性にすることは、不明瞭性自身の根源である不明瞭性を、止揚することであろう。したがって、夜への情熱のあらゆる具体的な現象は、描写されると、わざとらしくて凡庸なものとなり、弁明であり得るものの領域の中に引き入れられて、見かけ上は解消されるのである。というのも、昼は、かの夜の世界を承認したくはないからである。昼は夜の世界を欲することは出来ず、一度たりとも、可能なものとして許容することは出来ないのである。その限りにおいて、夜の世界は強制的洞察可能性から隔てられているので、昼は、(105頁)夜にとって超越的実体であるところのものを、全く無価値で無意味であり非真理なものであると言明することができるのである。
 夜から私は自分に来たのである。大地との結びつき、母性、血縁、人種、これらは、私を取り囲む暗闇の根拠であって、この根拠を昼の明るさは変質させるのである。これらは、母の愛と母への愛として、故郷愛と家族感と自分の民族への愛として、昼の歴史的意識の中へと受け入れられる。しかし、このような根拠そのものは、ひとつの暗黒の力のままなのである。このような謂わば黄泉の国の近親存在の誇りと反抗は、互いに出会った実存たちの相互扶助としての友情における精神的な課題に対して、謀反を起こし得るのである。この黄泉の国の力は、自らが相対化されることを許容せず、結局は自分自身を強要しようとするのである。そして私は、この力に基づきながら遂行される昼の実存的交わりにおいて真理を摑み取るのではなくて、私を産んだところのものの中に私自身を撤回すべきだ、とするのである。
 性愛は、それ自体においては理解不可能な枷(かせ)である。昼の法則は、性愛の現実を、実存的な身近さの表現にし、この身近さの感性的な象徴にするが、そのことによって性愛の現実を相対的なものにもするのである。だが、この〔夜への〕情熱への消耗性の帰依は、一切を裏切りつつ、自らのみを欲している。暗黒のエロスは、絶対的なものとして承認されるならば、現存在そのものになど、何の顧慮も払わないのである。エロスは、盲目的な性生活ではない。この盲目的性生活はむしろ一夫多妻的な衝動生活であり、情熱に欠け、したがって実存的な力は無い。エロスは、そのようなものではなく、実存的交わりを欠いたまま貫徹される、現在がすべてであるような性的本質への合一なのであり、この本質が唯一一回的である場合に、この本質そのものの本来的存在となるようなものなのである。あたかも超越者においてのみ忽(たちま)ちの出逢いがあるかのように、現実と実存とは飛び越えられるのであり、この出逢いにおいては自己存在は自ら解消するのである。了解行為の路を欠いたままであるにしても、この情熱はやはり無制約的なのである。互いに出逢った者たちの理性的存在者としての開明を欠いたままなので、この者たちの一方あるいは両方が、彼らを破滅させる超越者の中に崩れ落ちることになる。実現すべき諸課題を伴っての〔相互〕開顕行為としての交わりの過程は、彼らにとって、非真実で、自らを制限してしまう、ひとつの絶対化にほかならないものとなってしまうのである。自分自身の沈没こそは、罪[Schuld]として経験されるものではあっても、より深い真理なのである。
 性愛的な情熱が、生活と忠実とへ実存的に結びつけられることによって、昼の中に受け入れられると、この情熱のほうでは逆に、愛する者たちの上に暴力を及ぼすことによって自分〔情熱〕自身を欲することがあるのである。この場合、愛する者たちは、自分たちの愛を、昼の愛としては、〔すなわち〕忠実としては、つまり本来的自己としての自分自身を、裏切って死へと渡すことになるのである。この愛する者たちは、理由も行先も知らぬまま、ひとつの情熱的に摑み取られた永遠を意識しており、この永遠が、この(106頁)世においては、為された裏切りのために即座に死を要求するのである。実存が — 裏切りを為してしまっているのに — 死を見いださない場合、その現存在はこの世においては、もはや拒絶されており、見捨てられているのである。
 心中[Liebestod]においては、二つの可能性の間でひとつの選択が遂行されているであろう。すなわち、〔互いに自他を〕開顕し合うことによる自己生成の過程としての愛と、暗黒な無現象における完成としての愛との間での選択が。裏切りをさせるような情熱の可能性の前に立ったということは、他のすべてを疑問視したということであって、このような情熱のための裏切りは、この場合、倫理的な過誤として現象するのではなく、ひとつのそれ自体永遠な裏切りとして現象するのである。しかしこのような裏切りを前にしては、この裏切りが現実のものであると見える処では、沈黙する狼狽だけが生じるのではなく、理解不可能なものを前にしたのと同様な敬意が生じるのである。なぜなら、このような裏切りそれ自体が、自らの超越者を持っているように見えるからであり、このような超越者の可能性は、世界の内で幸運にも自らを完成させるあらゆる愛の独善を、排斥するものなのである。
 というのも、昼の法則が、差し当たって、交わりにおいて、また、諸理念を通しての生において、課題や理念や現実化において、無比な幸福の意識を与えるとするならば、このような明晰な世界の終極に臨んでは、真の明瞭さでもって、追い遣られていた魔物たち[Dämonen]が呼びかけるからなのである。
 私が目を見開いて服従していた夜は、無ではなく、単にこれだけのものとしての悪でもない。善と悪は、まだ決断がある処では通用するにしても、この善と悪との彼岸においては、夜は昼にとってのみ悪であるにすぎず、この昼のほうでも、昼がすべてではないことを感じているのである。私が昼に信頼しつつ夜から身を引くことによって、私は咎無き真理の絶対的意識を有しているのではなく、私が、要求をしていたひとつの訴え掛けを回避したということを、私は知っているのである。昼が、そして忠実が、摑み取られたとき、ひとつの超越者に聞き従うということが為されなかったのである。
 昼においては、過程としての公明な交わりがあり、夜においては、共同的な破滅における瞬間的な合一としての交わりがある。この共同破滅においては、暗黒が自らを剝(む)き出しにし、そして自らの翼を打ち鳴らして、自らの内に引きずり込むのである。〔ここで〕起こったことは、夜の中に包み込まれたままであり、夜はこの起きたものを呑み込んでしまったのである。愛人たちが存し、彼らがこのような可能性のなかで向かい合い、しかも魔物に聞き従わなかった場合 — 彼らはこの起こったことを知ったということにはならないだろう、なぜなら、存在したのであるものが語り出されていないのであるから。この愛人たちは、昼の法則と彼ら自身とに聞き従ったのである。だからといって、彼らの世界において今や意識の動揺が止む、というのではない。正しい路〔を歩んでいるの〕だという確信の最たるものでも、自らを語り表わそうとするならば、物怖じを感じてしまうのである。あたかも、何かが秩序の中に収拾されていないかのようなのであり、この何かはけっして秩序の中には入り得ないものなのである。善そのものが、もうひとつの別の世界に反するという罪[Schuld]を通して獲得されたにすぎないようなものであった、ということである。
(107頁)
 夜からの諸々の要請は、決して充分に根拠づけられないままに昼の中に採用せよというものだが、そのような諸要請は遍く拡がっているものなのである。祖国のために嘘をつくこと、ひとりの女性を得るために虚偽の宣誓をすること、これらはまだ、道徳と権利との個別的諸秩序への違反として概観できる行為である。しかし、ゲーテがフリーデリケにたいしてしたような、自分の創造的生の広がりのために、結婚の絆を解消するという行為は、彼自身にとって決して明瞭にも正当化されるものにもなってはいないのである。同様にクロムウェルは、彼の国家の力のために、非人間的であることを引き受けた。だが彼は、まったき安らぎを全然見いださない良心と共にあったのである。そのような諸情況においては、歴史的実現そのものが、つまり昼そのものが、自らの諸秩序の毀損の上に成っているものなのである。この、政治的に行為する人間たちの意志において明らかとなることは、失敗した場合の政治的人間たちが自分たち自身の滅亡を摑み取るときに、夜の訴え掛けはどのような空間を占めるのかということである。すなわち、これら政治的人間は、ひじょうに沢山、現実の歴史的現存在を敢行し、この現存在のためにひじょうに沢山、人間の生を犠牲にするので、その結果、彼らがその中でその為(ため)に行為したところのものに拘束されて、彼らの現存在は彼ら自身にとって失われる羽目になるように現象するのである。
 3.取り違えの諸々。— 衝動や快、新しいもの好き、陶酔、といったものは、たとえ夜の現象の諸形式であり得るにしても、夜の深さなのではない。反抗に基づく自己破壊欲求も、準備ができていないので他者に対して自己を閉ざすことも、一般的なものや全体に対して自らを単独化させる我意も、〔単に〕破壊的な評価を〔他に〕為して無内実なまま自らに重みを与えたがる虚無主義(ニヒリズム)も、夜の深さではない。これらの逸脱〔の諸様態〕は、実体の無い否定的なものであり、現存在において掃いて溜める程あることによって、真の夜の世界を覆ってしまうのである。あるいは、これらの逸脱は、真の夜の世界を、単に悪しきものとして、水泡のように消え去るもの、特殊で束の間の情熱、単なる恣意として、放っておくのである。しかし、実体的なものとしての夜は、深淵のなかで消滅するような路であり、このような深淵は単に無ではないのである。死は、このような夜の法則であり、この法則は昼の世界が無へと瓦解するに任せるのである。原理において根元的に昼の法則を夜のために毀損するような者は、もはや本来的に、即ち、建設的に幸運の可能性において生きることは、出来ないのである。そのような者は、自ら為した裏切りで永久に砕かれており、もっと生きようと欲したところで、もはやいかなる無制約的なことを為す力も無いのである。真の〔夜への〕情熱は、あらゆる種類の秩序と内密な関係にあるものであり、これらの秩序をこの情熱は壊そうとするのである。したがって、この情熱が直接に死の中へと赴かない場合には、この情熱は、死の、ひとつの生きられた比喩となって、生あるかぎりは続くけれども、生を選択しながらも忠実をはるかに凌駕して倒壊してしまうようなものとなるのである。この情熱は自らについて知らないけれども、〔この情熱に憑かれた者を〕愛する隣人は、この情熱に関して知ることがあるのである。この情熱は(108頁)夜への忠実であって、この忠実は、応答無しに留まる問いかけの過程の中で内的に無反省のまま苦しむ実存なのである。このような情熱は、反転する実存のように見えるのであるが、そのようなものであるとしても、それは、快楽や陶酔に我を忘れることとは、遠く隔たっているのである。恣意や反抗、あるいは、従順な帰依。これらは、そのような反転する実存の一時的な媒体であることはあるが、あの、不壊の中核を伴っており、この中核は、砕かれそうになる限界に臨んでは、自らを慎むのである。—
 夜の世界は、人間が死の中へ赴くにせよ、あるいは、人間が、死と類似したものにおいて、あの、どんな現実においても非現実な実存として生きるにせよ、無時間的である。一方、昼の世界は、歴史的に建設して自らを産出してゆくものである故に、時間的である。そうすると、単なる、夜に対する逆襲は、夜を否定せんがために抗うものであり、〔そのことによって〕夜そのものと同様に無時間的となってしまう場合には、夜自身の法則のものとなるという結果を示すことになり、歴史的な実存たち〔の集う〕昼へと到来することは無くなってしまうのである。そのようなものであるのが禁欲[Askese]であり、禁欲は、あらゆる紐帯から、両親、大地、所有から、解いてしまうものであり、すべての生の歓喜と性愛を悪魔のものであると見做し、精神的であると云えばただ、何ものにも縛られていないという意味においてのみであり、昼の世界ではないという意味においてのみである。禁欲は、実存の精神的現存在の建設である歴史性を破壊する。何故なら禁欲は、夜のなかにあるこの現存在自身の根拠を根絶しようとするからであり、ただ、すべてを抽象化した上での「あれか-これか」を知っているだけか、もしくは何も知らないからである。禁欲の精神性は、大地を欠いており、それなのに世界の内で真なる存在を全的かつ即座に、一般的で正当なものとして実現しようとするのである。歴史性とは、ひとつの貫通できない素材において自由に基づいて牢固とした生成をすることである。一方、禁欲は、歴史性をその根拠から切断し、真なるものを無時間的に現在において持とうとするのである。かくの如くして、問題となっている逆襲は、単なる破壊となるしかなく、自分が闘おうとしていた夜の中へ落ちるしかないのである。この逆襲が、現存在を破滅させることによって、自らにとって生じ得ることは、この逆襲が闘おうと対峙していた根拠に、この逆襲は突然の転換によって再び盲目的に仕えるようになる、ということである。この場合、この逆襲は、全く大地に囚われてしまって、最も紛糾した自己欺瞞となってしまうのである。—
 別の水準にあるのが、配慮無き生命的な現存在意志である。この意志の視界は、狭くはあるが、世界の内で力と通用性と享受とをもたらすものが何かを、端的にはっきりと視るものである — この現存在意志はただ自分のみを欲している。この意志は、自らにとって道理ある筋道[Weg]へと通じるものを、暴力的に押し退ける。この意志は、自らの目標を達したなら、解釈を変更する。野蛮であったもの、この意志の現存在を基礎づけていたものは、沈黙をもって取り扱われ、忘却されるようになる。自らの子供たちのための母親の盲目的な衝動、夫たちの、互いのための〔同様に〕盲目的な衝動、人間の、自らの赤裸々な現存在のための、自らの性愛的な満足のための、このような衝動は、透明さの無い野蛮さにおいて、其処であらゆる(109頁)交わり〔への〕意志[Kommunikationswille]が砕け散るところの硬直した障壁であり得るのであり、激怒的な暴力、超越者を欠いている故にいかなる夜でもないような、何ものにも傾聴しようとしない暴力であり得るのである。
 (新年につづく)
 〔この〕盲目的な現存在意志に対立するのが、自らの世界の内で自分自身が透徹したものになるような人間の、明るい空間である。このような人間には、〔夜への〕情熱においても尚、明瞭さと、周囲への配慮[Umblick]とが、自分に固有なものなのである。このような人間からは、ひとつの「私」が語っており、この「私」があるかぎり、交わりの可能性は決して無くなることはない。このような人間の内には、信頼性というものがあって、この信頼性とは、彼は、私が常に出会っていたような彼自身に再びなるだろう、ということを意味するものである。彼は、没落と上昇とが持つリスクから常に逃れようとする緊張〔を生きているの〕であるが、彼の内には、しっかり据えられたひとつの自己意識の安静な明朗さもまたあるのである。彼が問いと議論とを中止する場合でも、問いと議論との媒体のなかに、ひとつの無制約的な法則を承認したままなのである。たとえ、この法則がどんな最終的で内容的な公式化からも身をかわすとしても。彼は断じて折れないように見えながらも、無限に柔軟に見える。彼の内に存するのは、いかなる不可触な点でもなく、控えることをしない準備なのである。彼に開明されるのは、昼の法則であり、そして彼は、他者の、夜における真理の可能性を〔も〕理解しているのである。
 4.昼の疑わしい根本前提の諸々。 昼における生の根本前提は、つぎのようなものに見える。すなわち、限界無き開顕化の途上で、誠実な意志にたいして、超越者〔から〕の充実と、この意志の存在〔から〕の純粋に立ち現われる真理とが、生成する、と。しかし、この前提は、夜の世界がしかと視られた場合には、疑わしくなる。
 善なる意志は、昼においては、現存在の最終目的である。他のすべては、この最終目的たる善意志への関係においてのみ価値があるのである。とはいうものの、善意志は、傷つけること無しには行為することが出来ない。善意志は、避けられない咎[Schuld]という限界状況に引き渡されているのである。常に問われていることは、善意志が具体的な歴史的状況において何を欲しているか、ということである。善意志は一般的な形式としてあるのではなく、自らの充実を伴ってのみあるのであり、この充実において善意志は、自らをより深く了解する場合には、別の〔夜の〕世界に触れているのである。善意志が自らを自分自身だけで完成させようとするならば、善意志は自らの限界を感得するようになる。善意志が、この限界に臨んで超越しながら、自分自身を疑問視するならば、善意志は、ただ自らの現存在の現象においてのみ絶対的であるような、昼の法則として留まり続けはするが、この法則は夜に境を接しているもの〔であることが明らか〕なのである。昼の本質として私は、正しいことを為そうとする善き良心を有している。だが、この良心を夜へ拘束する咎[Schuld]に躓いて、この良心は挫折するのである。
 昼において私は現存在を美しい世界の豊かさとして見、生の享受を知る。この生の享受は、私の現存在の像において、世界の建設において、古典的な完成と悲劇的な破滅との偉大さにおいて、形成された現象の充溢において、自らを反映している。しかし(110頁)自然と人間たちがこれらの素晴らしさを有するのは、私がそれらの鏡である場合においてのみなのである。それは美しい外観であって、眺めながら自らの祝祭を祝う人間の観点にたいして、いわば上演されるような外観なのである。世界というものは、ただそのように眺められるだけなら、浮遊するひとつの夢想である。そのような世界に完全かつ究極的に帰依することは、形像を形成するために実存の現実から逃れることであり、突然の変転があれば観想者自身を夜の絶望へ引き渡すものである。この夜の絶望は観想者の背後に伏しているように見えていたものなのである。
 昼は夜に結びつけられている。何故なら昼そのものが、終極において真実に挫折する場合においてのみ、存在するからである。たしかに、昼の前提は、歴史的生成において肯定的に建設する、という理念であって、この生成においては、存立するものが相対的に持続するものとして欲せられるのである。だが、夜の教えることは、「生成するあらゆるものは破滅させられなければならない」、ということである。何ものも存立したままでいることはできないことは、単に時間における世界の成り行きであるだけではなく、まるでひとつの意志が、いかなる本来的なものも存立するものとして生き永らえるべきではない、としているかのようなのである。挫折とは、先取されることはできないが、遂行されざるをえない経験であって、完成されたものは消滅するものでもある、という経験なのである。真正に挫折するために現実に生成することが、時間現存在にとって最後の可能性なのである。時間現存在は、自らが基礎づけられていた夜の中に沈み込むのである。
 昼が自己充足しているならば、挫折しないことは、ますます無内実となることであり、その無内実性は、昼にたいして終極的に挫折が外から疎遠なものとしてやって来るまで、増大するのである。なるほど、昼は挫折を欲することは出来ない。だが、昼そのものが自らを充実させるのは、ただ、昼が、自分では欲さないもの〔挫折〕を、内的な必然性においては知っているものとして、自らの内に受け入れる場合のみなのである。
 私が昼の限界を夜に臨んで捉えている場合、私は、法則性を有する単なる秩序や形式的な忠実において、歴史的な実存の内実を実現し得るのでもなければ、夜の世界の中に倒壊し得るのでもない。夜の世界という限界に立つことは、超越者を経験する条件なのであるけれども。なるほど、夜の謎を前にしての希望の無さこそが初めて終極的な超越者を魂の中にもたらすのではないか、という問いは、そのまま存続する。ここにおいて決断するのは、いかなる思想でもない。そして、決断するのは単独者であっても、けっして単独者一般ではなく、また、けっして、他の人々のために決断するのでもない。一方、昼の実存は、深い躊躇(ためら)いのなかに立っている。この昼の実存は、誇らしげな自己確信や、自分の幸運の自慢を、避けて控えるのである。この実存は、どんなに開明してもその朧(おぼろ)さが深まるだけの、現存在の絶対的な苦痛のことを知っている。この現存在の苦痛は、理解し難いものを無言で遂行しているのである。
 5.あり得る罪[Schuld]。— 実存は自らの可能性を守り保ちたいと思う。〔自己の〕実現に先立っての実存の自己抑制は、根源的な強固さなのであって、この強固さとしては、この自己抑制は、適正な瞬間のために当座は自己を守り保つことを(111頁)意味している。自己抑制は〔逆に〕、機を摑み取ることを敢行しないならば、弱さなのである。そのため、青春期においてのみ私は真実に、純粋な可能性のなかで生きるのである。実存は自らを任意なものの中に浪費することを欲さず、自らの現存在を本来的なもののために消費することを欲する。決断が成熟する時期になり、歴史的に機を摑んで自分を実現し得るはずの時期になっても尚、私が自分を、今や疑わしいものとなっている私の一般的な可能性に、不安げに貼り付けにするような場合に初めて、この、私の昼の運命の中に歩み入ることの拒否によって、私は私から逸脱するのである。職業、結婚、契約といったあらゆる縛りを前にしての躊躇、あらゆる撤回不能な結びつけを前にしての躊躇は、私が現実的に生成することを妨げ、その結果、私は終いには、私のなかで根源であり得たであろうものを、単に可能なだけの実存として、空虚の中に流れ去らせてしまうのである。そのようにして時が空費されるならば、私は夜の深淵の中にも崩れ落ちることにはならない。私が自分を躊躇するならば、私は自分を昼にたいしても夜にたいしても拒むことになるのであり、私は生にも死にも至ることはないのである。
 ただ思い違いをしてのみ私は、実現化以前の、限界を欠いた可能性のなかで生きるのであり、〔その際、〕幅広く、〔いわば〕人間的で自由に、あらゆる狭さにたいして優越感を抱きながら、だが実際には空虚に、要求だけは多く、遊び半分の観察のなかで生きるのである。〔これに反して〕実存は、現存在において限界づけ結びつけることへの意志である。この意志は、状況の中へと前進して押し迫ってゆき、この状況の中で決断が為されなければならないのである。すなわち、あらゆることが可能であるという状態から、唯一無比の狭いものが生まれるのである。このような押し迫りは、一義的に明瞭な能動性のものではない。私の諸々の可能性を制限しながら私を実現することは、ひとつの闘争であって、この闘争において私は自分の自己生成にたいし、依然この自己生成が私に敵対するものであるかのように、距離をとるのである。私は、自分が私の運命を〔いわば〕私から奪い取〔って自分のものにす〕るに任せるのである - 私が今や昼の中に歩み入ろうが、自分を夜に委ねようが。ところで罪[Schuld]とは、現実を避けることなのである。
 しかしこの場合、より深い罪は、その都度、他の可能性を拒絶することにある。〔夜への〕情熱に自らを任せる帰依においては、道は没落へ通じている。この道を行く者は、生を建設的に摑み取ろうとする愛にたいして、自らを拒んでいるのである。しかしこのような者が建設行為にある場合には、彼は死への帰依に、自らを拒んでいるのである。
 実存は、そのようなものとして、罪を意識している。昼の法則においては、罪は、ひとつの他のものが自らを明かすような限界に臨んで、あるのであり、この他のものは、拒絶された可能性として、〔昼を〕根本的に疑問視する行為に出るのである。〔夜への〕情熱においては、罪は、根源的にこの情熱に従属することとして、ある。この情熱は、自らの深みにおいて、言葉にすることも出来ない罪を、はっきりとさせられる行為にもならない贖罪行為を、知っているのである。
 〔この〕罪の開明は、〔夜への〕情熱や昼の、非真実な弁明のための方途なのではない — というのも、この情熱と昼の両者とも、すべての弁明の彼岸にある、無制約的なものにおける原理として、立っているのであるから — 。ましてや〔この罪の開明は〕、生き(112頁)かつ苦しむすべてのものを通用させようとする感傷性ではない。そうではなく、この罪の開明は、〔夜への〕情熱を前にしての戦慄から生じたのであり、この罪の可能性に関する知もまた、そのようにして生じたのである。この開明は、自らを限定して〔他を〕追い返す昼の世界の罪意識に的中しようとするものなのである。一方、夜〔の世界〕においては、哲学すること〔そのもの〕が為されないのである。
 6.実存をめぐって闘争する守護天使と魔物。— 魔物によって呪縛されて私は、夜に類縁的な愛に引っ張られる。〔一方、〕そのような愛に触れることを敢えてすることなく、私は、飛翔の明るさをもつ愛の熱烈さへと、守護天使によって導かれる。呪縛された愛は、自らが途方に暮れていることを知っており、あらゆる地上的な媒体を失って、全的に超越的になるのである。このような愛は破滅において充実を欲する。〔一方、〕守護天使の導きの明瞭さをもっている愛は、自らが路の途上にあることを知っており、交わりにおいて他者の理性的本質との信頼し得る一致を有しており、世界の内で生きることを欲するのである。
 魔物は、実存の現象が、実存自身の超越者のなかで溶けるに任せる。〔この場合〕実存は自らの運命を求めてはいなのである。既に子供は苦痛に満ちた魔法を知覚することが出来、この魔法を放射することさえ出来る。その場合この魔法は諸々の変化〔の現象〕を起こすにちがいないものであり、これらの変化を子供は自ら成熟した〔精神〕段階になっても、否定も肯定もしないで、理解できないながらも受け入れているのである。運命の成り行きは、魔物に従った実存が、〔運命の〕路の途上で、知っても欲してもいないような無慈悲で非情なものの中に陥るに任せる〔ことがある〕。実存は、容赦のない必然性を経験し、この必然性を実存は、蒙るのと同じ位、〔自ら〕作りもするのである。実存は、他の人々〈実存たち〉の愛しながらの護りと諸秩序の保持とのなかで、ひとつの現存在形態としての自らに達することが出来る。それにも拘らず、この諸秩序の外では実存が従わなければならない魔物は、相変わらず存しているのである。運命に先立つあの魔法は、子供には野生性と戯れのなかに隠されたままである。いつかは魔法は、守護天使が護って魔物にその限界を定める時、あの穏やかなものに変換されるが、この穏やかなものもやはり、洞察力に満ちた愛であるには、いかにこの愛に最大限近く思われる場合でも、遠く及ばないのである。
 これに対して、昼の公明な実存は、自らの守護天使の導きの下に、自らの現象において、自らの時間的現実の明晰な表現へと、自らの内面と外面の同一性へと、達するのである。この実存は、自らが何を言っているのかを思惟し、自らと一致している、なぜならこの実存は明瞭性への〔具体的な〕この路の途上において自らを愛しているからである。この実存は自らと争っている、なぜならこの実存は、すべてを尋問と批判に服さしめることで、すべてを疑わざるをえず、すべてに傾聴して自らをどんな他者の立場にも置いてみることができるからである。この実存は、妥当なもの、形態〔を有するもの〕、一般的な言表可能性を、人間としての人間に伝達できるために探求する。この実存は自らが自由であることを知っており、自らの運命を、理解が可能な途上にあるという理念を伴わせて能動的に摑み取るのである。この実存は(113頁)明晰さによって硬質であり、援助が必要なほど華奢である。この実存は闘争を求める、なぜなら闘争は、其処でこの実存が自分自身に到る媒体であるから。この実存は自分自身を通ってゆくのであり、このことにおいて自らが強い者であることを感じている。この実存は他者を介してゆくのであり、自らの守護天使を呼びもとめながら、自らの圏内に魔物が入って来る場合には、この魔物に面して怖がる自分を感じている。この実存は信頼できる存在であり、全的に特定のこの〔具体的な〕世界の内で生きる者として、他者の真の「運命の伴侶」となる者である。忠実が、この実存の本質であり、忠実を失えばこの実存は自分自身を失うのである。この実存が生きるのはただ、活動的に世界の内で諸々の課題を自分自身の本質的な課題として摑み取ることによってのみである。
 昼と夜の両極性が、たとえどんなに図式化される〔結果になる〕としても、この両極性が思惟されることによって、自らの超越者に関係させられている現存在の疑わしさは、考え得る限界にまで高められたものとなっている。私は、何が存在するのかを知らないのである。昼の存在者としての私は我が神に信頼を置いているけれども、私には捉え難い疎遠な諸力を前にして不安でもあるのである。夜へと頽(くずお)れて、私は深みへと帰依することになるが、この深みにおいて夜は、私を破滅させて呑み込みつつ〔同時に〕充実もさせるような真理へと、変化するのである。
 7.両方の世界の総合への問い。— この二つの世界は相互に関係し合っている。二つの世界を分離することは、ただ開明の一図式にすぎず、この図式そのものは、弁証法的な運動に陥るものである。昼にとって問題であるところの「一なるもの」が、一般的なものの明瞭性に反抗して立ち上がって自ら無法則性となる場合には、昼の法則であると見えていたものが夜の深淵へと逆転する。夜であると見えていたものが昼の根拠となるのは、夜への没頭がひとつの建設行為へと転換される場合であって、この建設行為は、自らの暗黒な根拠を知っているけれども、今や、〔その〕嘗ては自分自身の根源であったものを拒絶して、それと戦うのである。
 人は両方の世界の総合を思惟したく思う。しかしこの総合はどんな実存においても遂行されることはない。その都度歴史的な一回性において成るところのものは、単に客観的にいかなる完成でもないばかりか、主観的にも砕かれているのである。ひとつの総合という理念すら、不可能である。というのは、実存たちの現象としての現存在という意味での存在は、多様なものの世界のなかでは、単独者の規定性なのであって、この単独者の意味は窮極的には言表されることも模倣されることも出来ないからである。総合は、一般的に可能なものとして思惟されるかぎりでは、問いであって、課題ではないのである。ただ無制約的なものとしてのみ、〔これら〕二つの世界は、それら世界そのものなのである。これら二つの世界のどちらに私が専念しているかは、具体的な行為持続が、どちらかへの決断として解釈される限りにおいて、この行為持続によって私に示される。どちらかの行為持続を私は絶対的に優先していたのであり、そして、どちらかの行為持続を他の行為持続と比較してただ相対的にのみ許容しているのである。夜は、自分自身に触れさせることのないまま都合よく行く限りで、相対的な合目的性と秩序を耐えて遵守することが出来る。昼が許容するのは、(114頁)限界づけられて訓練された冒険と陶酔であり、無制約的な真摯さも、深淵を見遣ることも無く、〔単に〕無拘束にやってみるだけのものである。— 〔昼と夜の〕総合という見かけの幸運は、不足なしには無いか、裏切りなしには無いかの、どちらかである。深淵を前にして回避することによる不足は、昼の実存をして、どこか根拠を欠いたものにする。〔一方、〕昼の法則を、個別の人間を、現存在の建設を、あらゆる忠実を、裏切ることは、夜をして、公明でない罪を負った暗いものにするのである。これらに対して、誤ってすべてを実現すると思われているが、本当のところは無であるような、首尾一貫性が無く表面的で底の浅い考えが、いつでもあるだろう。実存の深さは、実存が自らの運命を知る場合にのみ、あるのである。こう言うとする: 私はいかなる事情通でもない、というのは私は死の門にも夜の法則にも触れたことはないのだから、と。あるいはこう言うとする: 私は生を損なった、というのは私は夜に従い昼の法則を破壊したのだから、と。同時に昼の生であり夜の深みであろうとすることは、ひとつの欺瞞である。窮極の真理というものは、他のものを前にして恥じ入る敬意なのであり、負い目[Schuld]の苦痛なのである。
 実存の危機においてのみ、決断が為される。危機においては、反対の方向にあるものが可能なのである。〔すなわち、〕昼を見捨てて、死への愛を、生と仕事への意志の代わりにするか、あるいは、夜から昼へ帰還して、其処で夜そのものを根拠とするか、の、あれかこれかが可能なのである。それにしても、いつ、どのようにして、それが可能なのか、どこで永遠な決断が既にあるのか、どこでなら引き返しがまだ可能なのか、こういうことが分かるのは、いかなる知でもなく、ただ、自らの歴史性の内にある個別的人間〈単独者〉のみなのであり、しかもそれを自らにたいしても窮極的に言うことは決して出来ないのである。というのも、私が知ることの出来た後でそのなかから私が選ぶ、というような、二つの路さえも無いのであるから。そんなものがあるとしたら、それは、開明の働きとしての論究から図式の対象的な固定化への没落であって、その没落によってそのような選択が出来るようになったところで、そのような選択はいかなる実存的な選択でももはやないだろう。〔昼と夜という〕二つの世界は、けっして明瞭にはならない両極性であり、一方の世界が他方の世界に触れて発火するのである。私はこの二つの世界を開明しながら対置させるが、思惟においてこれら世界の存在を認識することは出来ないのである。
 8.神話的な開明。— 神話的な開明もまた、二つの力を形像的に対象化することによって行われる。とはいっても、あの捉え難さを有する対象的な形態は、二つの力の両極性へと単純化されることに囚われてはおらず、むしろ差し当たりは、数多の神々へと迫ってゆき、その後、神性と反神性の力という二性[Zweiheit]へと凝集し、そして遂には、神性[Gottheit]そのものへと窮まって、神性の怒り[Zorn]としてこの神性は経験されるのである。
 多神教は、一者[das Eine]が背景に留まっている世界である。私が多くの神々に仕えることによって、私はあらゆる生の力に(115頁)その各々の権利を与えることがあり得る。すべてのことが、その各々の時宜に、その各々に適った場で、それらが両立し得るかどうかが問われることなく為されるということは、それらすべてに、その各々に属する神的厳粛さを与えることであり、あらゆる可能性の実現を承認することであるが、永遠な決断は知られてはいないのである。ここにおいて、夜への情熱は、限界づけられてはいるが肯定的な自らの実現を見いだすことが出来る。なるほど、昼の諸力との争いは、察知できるものとなることがあるが、この争いは、超越者における永遠な闘いであるようには、原理的になることはない。地上的な諸神性が天上的な神々と並んで立っているのである。限定された場所に結びつけられて、これら諸神性の諸深淵において暗黒なまま、これら諸神性においてその都度瞬間的に、大地が絶対的なものとなるのである。酩酊の神々が自己忘却を神聖化し、夜への奉仕が束の間、神秘的な法悦あるいは酒神的な野生性において実現される。踊りながら破壊するシヴァ神が存し、この神の礼拝には夜への情熱が真理の意識を与えているように見える。
 夜の肯定性は多神教において言わば素朴に受け入れられている。しかし「二つのもの」という対立が、超越する意識の形式になる場合、夜は反神性的な力となり、自ら神に、ただし非真実な神になる。超越者の二元論が、あらゆる思惟可能な諸対立から、各々の対立を一つずつ、否定的なものとして措定する。人間はこれら諸対立の闘争において、一つの側に立つ。〔すなわち〕神と共に反神に対して立ち、光と共に夜に対して、天国と共に大地に対して、善と共に悪に対して、活動的な建設と共に破壊に対して立つのである。夜が絶対的原理としてはもはや信仰されない処では、夜は悪魔として生き永らえるのである。
 にもかかわらず、二元論的思惟が経験するのは、自分は超越者においてはいかなる対立も確定することは出来ない、ということである。一方においては、諸々の対立は、判然と思惟されることによって、昼の世界の内でのように、善と悪といったような諸対立となり、他のものを新たな反定立を通して捉えるという課題が残り、この反定立は再び同じ仕方で自らの明瞭さのために昼へと舞い戻るのである。他方においては、諸々の対立は、自らの意義において相互に反転する(自己主張と自己への帰依、精神と魂、存在と無の存在)。夜を特徴づけるはずであったものが、昼となり、また、その反対となるのである。
 それゆえ、超越しつつ形像化する最後のあり方は、夜を神性それ自体の中に置くことである。この神性は「一なるもの〈神性〉」に留まるが、その測り知り得なさのままに、その意味の理解し難い諸々の御心を遂行し、我々の路では決してないような路を行くのである。ただ見かけ上は〔この〕『神の怒り』[Zorn Gottes]は報復として理解し得るようになることがある。この怒りは神性のひとつの暴発として見做され、この神性は恥ずべき事どもにたいする報いを子々孫々にわたって及ぼし、(116頁)自らの怒りを全諸民族と世界の破局において啓示するのである。人間は、「神の怒り」を静める諸々の方途を考え出そうとするが、その方途はまず魔術的な諸手段によるものであり、それから、反魔術的になって、罪なき生によるものとなる。そして人間が経験することになるのは、この「罪なき生」は実行不可能であるということであり、あるいは、この怒りは、人間がいかなる規定的な誤りも自覚しないのに、人間を襲う、ということである。このゆえに、神の怒りという感性化は消滅せざるをえない。神の怒りに暴君の機嫌は似つかわしくなく、目には目を、歯には歯を、を要求する裁判官の法律上の正義も同様に似つかわしくない。これらの諸像は、最も深い把握不可能性の単なる表徴へと色褪(あ)せる。この把握不可能性を、超越作用を有する意識は〔事実として〕確認することは出来たのであるが、「神は自らの怒りの『容器』を神みずから創り、予め設定する」、という思想〈考え〉によって開明することは出来なかったのである。私が夜の存在者としてそれであるところのもの、その私を神は神みずからの怒りにおいて創ったのである。私が夜への情熱に従う処では、神の怒りがそれを欲したのである。このような思想はそれ自体において崩れ落ち、ただ『神の怒り』という言葉の力のみが留まりつづけるのである。


〔「昼の法則と夜への情熱」ここまで〕
 

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 詳細目次(作成途上)
 
反抗と帰依 (71頁)
 1.憤怒 —(71頁) 2.知欲の中での決断の停止 —(72頁) 3.知欲における我々の人間存在は既に反抗である —(72頁) 4.反抗する真理意志は神性へ呼びかける —(73頁) 5.自己自身を欲することにおける割れ目 —(74頁) 6.帰依 —(75頁) 7.神義論 —(75頁) 8.神性の秘匿性のための時間現存在における緊張 —(79頁) 9.諸々の極を孤立化して高める過ぎることの破壊性 —(80頁) 10.諸々の極の孤立化における無意味な逸脱 —(80頁) 11.信頼の無い帰依、神を見捨てること、神無しでいること —(81頁) 12.最後には問い —(81頁) 
 
没落と上昇 (83頁)
 1.没落と上昇における私自身 —(83頁) 2.私が評価するように私は生成する —(84頁) 3.依存性における自己生成 —(87頁) 4.超越者のなかに保たれた過程の方向は、何処へ行くのか定まっていない —(88頁) 5.過程であり全体であるものとしての私自身 —(89頁) 6.守護天使と魔物 —(90頁) 7.不死 —(92頁) 8.私自身と世界全体 —(94頁) 9.世界過程 —(95頁) 10.歴史における没落と上昇 —(97頁) 11.全体というものにおいて完成される没落と上昇 ―(101頁)
 
昼の法則と夜への情熱 (102頁)
1.昼と夜との二律背反 —(102頁) 2.一層具体的な記述の試み —(104頁) 3.取り違えの諸々 —(107頁) 4.昼の疑わしい根本前提の諸々 —(109頁) 5.あり得る罪[Schuld] —(110頁) 6.実存をめぐって闘争する守護天使と魔物 —(112頁) 7.両方の世界の総合への問い —(113頁) 8.神話的な開明 —(114頁)
 
 
多なるものの豊かさと一なるもの (116頁)