「追放された魂」の演劇
どうしたの?
うん、マルセルが、じぶんの演劇作品の特徴というより本質をそう呼んでいるんだよ。しかし「追放された魂」というのは現代世界における魂のあり方そのものじゃないか。だからそこにかれの演劇世界の普遍性もあるわけだけど、いっぽう、それだから、かれの演劇世界に満足できないのは当たり前なのだ。現代世界に満足できないのと同様にね。同じことだ。つまりぼくの不満は真理たどいうこと。満足できる魂のあり方、帰郷した魂を、生きるという支えが、高田博厚の世界なんだ。
つまり、ふたりの世界の両極性が必要なのね。
そうしないと、片輪になってしまうからね。
リルケについて書いたマルセルだから、孤独の意味と欲求は充分解っている。向こうではそれがなければ通用しない。
愛とは、孤独と孤独が出会うのよね。だれとでもではないのよ。
マルセルの戯曲でもそうだった。そして、相手なしではいられなくなる。メタフィジックの次元にまで突き抜けてね。