〈G7の一員〉を強調する日本は時代錯誤
ロシアに対峙するG7の一員を強調する日本は恥ずかしいもいいところである。G7とは過去の植民地主義列強諸国のことであり、それを過去の日本は明治以来、文化国・文明国として後追いしてきたのである。ところが日本の手本となった諸強国は、植民地主義をいまだに克服していないどころか、過去と同じ根性であることを、これまでの対ロシア政策で、明晰判明に証明した。列強なるものは、本性的必然的に、互い同士でも最強をめざして決闘するものだ。いまはアメリカであり、それに他列強が服従して、暴利の戦争をロシアにふっかけているのが現状であることを認識しないのが、コロナワクチンの正体も認識できなかった八割の人類なのである。世界の公的メディアが現アメリカの奴隷であるのを認識できない八割なのである。これが認識できれば、G7の正体も、文化文明国の裏の旧態依然たる「ならず者国家」性、つまり力による覇権で競争し合い戦争し合っているだけであり、毫も精神的動機は無いことも、解るはずだ。そういう侵略的列強と、ロシアはイワン四世(雷帝)以来、対峙してきた。いま、その決着を、双方は展開しているということを、基本的な認識としていなければ、われわれはならないのである。国連で、ロシア提起だというだけで、恒例のファシズム否定も決議拒否した、「遅れて来た帝国」(ポール・クローデル)日本は、これで再び新たに「ならず者国家」群に迎え入れられた。今度は嘗て対立戦争した英米のお墨付きで、過去の三国同盟とともにである。筋の通った自国防衛を貫いているのはロシアだけであり、他はひたすら、操縦付きの侵略組である。こんな正邪が明白な狂った世界は出現したことがない。〈G7の一員〉を唱えることがどんなに時代錯誤の恥ずかしいことか、ぼくはもうまともに論じる気にもならないのである。 みんなもしっかりしてくれよ。
ぼくが今どういうものに意識が向いているかというと、人々が日々の営みのなかで普通にやっているあさましいことに、ぼくは嫌悪の気持ちをいだいている。嫌われることを嬉々として、相手を征服できるかのようにやっている。人間はこれほど愚かなのだ、と。それを真理の実行としてやっている。真理は、科学と同じで、人間の役にも立てば、破壊の道具にもなる。そういうことを深く意識あるいは自覚すべきだと、ぼくは強く思っている。そうして、すべて愛のないものは罪である、ということを知るのだ。
「身も蓋も無い」とは、表現や言動が露骨すぎて、ふくみも情緒(情感)も無い、という意味だと、国語辞典の類には載っていて、とくに「ふくみと情緒」という言葉がだいたいどの辞典にも使われていることに、ぼくは感心している。まさにそのことをぼくは思っているからだ。これをぼくは、1+1は2であって0でも3でもない、というような言い方、否定判断に拡張する数学的な言い方の、倫理的過誤、と呼びたい。こういう、身も蓋も無いままなのが「悟性」の次元であり、人間が人間なのは、この単なる悟性を超えるものを有しているからだと思う。それが、「高邁の心」とか、「真の自己」と呼ばれるものであり、「ふくみと情緒」と日本的に表現してもよいものだ、と思う。こういう点、単なる知の者は愚か者であり、真の智に達していない、と言うことができる。でも、こうやって批判することも、じぶんの安らかさから逸脱し始めることなのだ。だから、ぼくもこのあたりで矛を収める。
すべて愛によらないことは罪であることの、日常的実践に根差した理解が必要である。
人間は信念などによって好かれるのではなく存在によって好かれる
それが一生解らずに人に問いながら終える者がいる。好かれる人間になれと言っているのではない。それは矛盾したことであり、落ち着いて、真の意味で諦念せよ、と言っているのだ。何と、ほんとうは誰からも好かれないことに気づかない者が多いことか。誰も他に忠告できない。忠告する者は誰からも好かれていない。好かれ、かつ忠告できる者はそうとうな者である。そういう者は芸を知っている。「ふくみと情緒」を知っている。偽物・つくりごとではなく、それが自然な人柄であるようなそれを。