シャルトルーズ修道院に倣いて
ふと、日常でもこれはできると気づいた。沈黙の行である。普通の日常は言葉で成っている。節目毎に打ち上げをやる。これを滅却すると、言葉に拠らない世界にすっと入ることができる。外部に影響されない落ち着きの世界に。すこしの契機での自己抑制で、これほどの世界に入れるとは思わなかった。言葉を行使することは言葉に影響されることだ。これが普通の日常。しかし同じ日常でも言葉から離れた日常、修道院の日常がある。これはすぐに実践できる。もうぼくは沈黙の世界に入っている。言葉を離れているから、言葉によらない創造ができそうだ。
”シャルトルーズ修道院に倣いて”
全く同じ題名で去年書いていた。
初再呈示
2022年07月30日
愛の修道院の路
沈黙の行がいちばん大事なのだ。沈黙は最大の宝石である。
いま、世のなかのことを会話の話題にすることは、精神の破綻にしかならない。なにげない自然の事象をぽつりぽつりと語るにとどめること。(記しておきたいことは黙って記しておくだけにすればよい。)
習い性で人間は気を散らそうとする。そういう習い性を覚えたときは、シャルトルーズ修道院の沈黙の戒律を思いだすこと。
沈黙は愛である。