落第級の善人の溜り場である日本 みずから悪を分有することは真理探求のためになかなか名誉なこと
ただの善人には、この世の悪の構造の観念をつくることは難しいのだろう。この意味で日本は善人の溜り場だ。頼りない善人の。 悪を見抜けるのは、みずからも悪を分有している人間だ。この意味で悪の分有も、真理の探求における徳なのである。このことを日本人の多くは なかなか思いつきそうにない。
ぼくは上の意味で悪を分有している人間だと、じぶんで認め得る。この悪は、発達した意識で必然的に懐胎され、隠微に活動に至るものであり、これ無くしては真の真理の探求もほんとうには出来ない、と思う。だから、優れた意識の者で同時にこの悪の分有者であることは、なかなか名誉なことなのだ。じぶんは、素朴なだけの善人ではないぞ、という自負が生じるのは必然で、善の探求にしても平凡な善人のもとは格がちがう、ということになる。じっさいそうなのである。 ぼくは傲慢であると言われてちっともかまわず、そんな見方は無意味でどうでもよいと思うくらい、本来のデカルトの子孫であり兄弟である。 倫理性や人間性にも、悪の分有が必要であることを、日本の倫理学は理解しているだろうか? 審判や評価の対象としてではなく、探求する主観の駆動力として。
情報のままに情緒的に反応する日本的善人は、普遍的善人のレベルに達していない、愛すべくも落第級の善人である。