過去を振り返って、ぼくには殻すなわち限界があったと、痛切に感じる。あの限界がなければ、ぼくの状況は全く別のものになっていただろう、と思う。そう思うということは、現在のぼくは幾分かはその限界を超出しているということなのだろう。殻を破った、ということなのだろうか。こういう反省は、現在の自分の肯定に基づくものであるから、ある意味で用心すべきなのである。その殻の内部にあった自分が持っていた或る情熱や積極的なこだわり、執念を、いまのぼくは忘れているか、放棄・否定しているかもしれない。ほんとうにその頃の執念を実現して、いまのぼくは在るのか。ほんとうにその実現によって殻を破り、限界を超越したのか。現在だって、現在のぼくが意識しない限界がある、とかんがえられる。現在の時点から、過去のぼくの殻と思っているぼくの意識のありようは、俗物には持てないものだったろう。その殻のおかげで、ぼくはぼくらしい人生を歩んでこれたのではないか。自分の限界、ありていに未熟さと言ったっていいが、負の面や可能性の放棄を伴いながらも、そのおかげで、ともかくいまのぼくに辿り着いた。そのためには犠牲が必要だったのだ。いまの時点から、あれも受け入れていたら良かったのに、と〈反省〉することは、あさましい了見を動機とするものとして、恥じ入らなければならない。それだけ、いまのぼくが、俗性を受け入れているということにならないか。「自分とともに在るならば、一生孤独であってよい」、と高田さんは言った。この言葉の意味を、ぼくは厳密に解し、過去の自分の狭さと思えることも、ただ未熟さではなく、純粋さの激しさ深さとして、その未熟さともども、誇り高く認めるべきではないだろうか。いま、そう自分に言い聞かせてみている。こういう人間、なかなかいない、と。高田さんはたしかに人間関係にめぐまれていた。しかしそれは量ではなく質が本質のはずだ。量を比較すまい。質においては、ぼくがひとりの知己も残さなかったとしても、高田さんの本質に迫っているかもしれない。限界を、ぼく在らしめるものとして承認し、むしろこの限界を放棄するようなぼく(そういうことをぼくはしきらないが)を怖れよう。世間はやっきになってこの放棄を迫り、それができないのは弱さであり大人になろうとしないことだ、と、詭弁のかぎりをつくしてきたとしても(だからぼくはそういう者たちを否定してきたのだ)。
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