(149頁)
(つづき)保存という観念は、ある一定の関係の許ではひとつの集合体であるところのものしか、保存され得ない程度に応じて、「場」を含意している。記憶は、要素の諸々である限りにおいてでしか — すなわち、散逸させられることがあるものである限りにおいてでしか、保存され得ないのである。だが、このことは何を意味するのか? そこにおいては、記憶をひとつの要素として、あるいは解体され得るひとつの集合体として、扱い得るような、何らかの意味が、ほんとうに存するのか? 実際に、紛失や分散という空間的諸観念は、根底において何か精神的なものを含意している、ということを、承認しなければならないように思われる。ひとつの全体が分散する、と私は言う。この意味することは、この全体が、私の拠り処とする心理学的な能動性に、全体として与えられることをやめる、ということである… 失うということ、それは常に、そして本質そのものからして、忘れるということである。記憶に関する経験は、実際には、未発達〈退化〉の諸経験の根元にあるのであるが、この未発達〈退化〉の諸経験のほうに人は記憶に関する経験を還元しようとするのである。
人は言うだろう、絶対的な喪失、全体的な消滅というものが存し得る、と。だが明らかなことは、消滅というものは、生き永らえて想起する者たちにしか、自分たちの「今」を、想像あるいは記憶されている「当時」に対峙させる者たちにしか、存しないということ — とりわけ、ある一定の期間に見失って、自らの注意の範域外に逸させた、まさにそのものを、今や空しく取り戻そうと試みているような者たちにしか、存しないということである… しかしながら、警戒心に充ちて間断無いが、散逸してゆくものを取り戻すには無力な注意力というものを、人は理解することは出来ないだろうか? 瀕死の我が子を救えない母親のそれである。保護の実際的な力は、愛の基準だろうか? 我々が殆どそう考えることが出来ないのは、精神的で救済的な力と、この力がそれに立ち向かうところの散逸の力との間に、現実に存在する、根本的な異質性の故なのである — この異質性は、有限なるものの本性そのものに結びついているように思われる。精神的な力が我々に出現するのは — 是非はともかくとして — 精神的な不注意や散漫にだけは勝利し得るものとしてである。つまり、一般に我々はそう思っているのだが、このような間接的な仕方でのみ、精神的な力は物質的な散逸に、物質的な無秩序の力に、勝利することが出来るのである。精神的な力でも、(150頁)分解作用である物的諸力を征服すべくこの諸力に直接に当てられるような救済の意志は、技術的な意味では、奇蹟であり 1、再創造であろう。〈1. 一九二五年の覚書。— だが、我々自身の心底において、この分離に抗議する何かが存しないであろうか? この余りに厳格な、二種の散逸の分離に。まだ形成することのできない別の真理の予感が。〉
過去の保存の問題
そのなかでは、我々がひとつの出来事と呼んでいるものが、ひとつの永遠な真理(交差する諸判断のひとつの集まり)であるような、そういう意味が存する。そして、このような意味のなかでは、保存について話すことは不条理であろう。持続するものに関してしか、保存は存しない — 時間がそれを踏み越えるところのものに関してしか。過去は、過去自身よりも生き永らえて自らを変形する程度に応じてしか、自らを保存することは出来ないのではないか、と思われる(ひとつの楽曲において、最初の調べが後続の調べによって変形されるのと同様に。後続の調べは、最初の調べが自分自身によっては持ち得ないであろうような価値を、最初の調べに得させるのである)。ベルクソンの動かない記憶とは、全くの抽象である。このような記憶は持続することが出来ず、自らを保存することが出来ない。けれども、と人は言うだろう、保存された手紙は持続しているのではない、と。だが、その手紙は思惟のなかで、思惟によって、持続しているのである。この思惟がその手紙を保存し、その手紙に気を配っているのである。その手紙は、ある生きている者に合体し〈取り込まれ〉ている限りで、持続している。出来事に関しても事情は同様であり、出来事は、その出来事を呼び出して自らの前に措定するところの動く現在によって、想起され、脚色される限りにおいて、持続するのである。人はこうも言いたいと思うかもしれない、手紙は物質的に、擦り減ってゆくものとして、持続する — 書かれたものは消えてゆく、等と。しかし、すべてこういったことは、物として、集合体として見做された手紙、保存されない限りでの手紙の、時間的表現でしかないのである。
ただ、様々な難題が押し寄せる。保存作用の原理そのものも、持続するものであるように思えてくる。そして他方で、この持続は、自己保存を前提している、等。我々は神においてあらゆる保存の第一原理を見ることになろうが、そのこと自体によって、我々はこの原理をひとつの永遠な真理へ変換するよう追い込まれることにならないだろうか? しかし永遠な真理といっても保存作用の力は無いのである。つまり、こう言いたければ、救いの力は無いのである。
永遠なるもの、それは、あらゆる保存の下位の限界なのか? このものは、要素のみが永遠であるだろうという意味において、時間がそれを踏み越えないところのものなのか? 無規定的なもの、性質づけられないものなのか(というのは、あらゆる性質は、(151頁)他の諸々の性質のひとつの集まりに依拠しており、ゆえに、持続のなかに組み込まれているから)。明白なことは、この意味に解された永遠なるものは、下位の時間的なものであることであり、〔つまり、この〕永遠性は消極的〈否定的〉な価値でしかないことである。ところで、保存作用の高位の限界というものを人は理解できるだろうか? それこそが永遠性の本当の問題なのである。この問題は全くもって不明瞭である。というのも、もし人が、ひとつの持続を全体として、現在として把握するところの行為を、積極的〈肯定的〉に永遠なものだと解するならば — この行為そのものが、あるいは、ひとつの瞬間でなければならないのではないかと思われ、〔その場合〕この行為は多分卓越した位置にあるであろうが、それでも、この行為をはみ出すひとつの持続のなかに取り込まれていなければならないのではないかと思われるからである。あるいは、〔そうでなければ〕この行為はひとつの単純な真理、つまりひとつの抽象であらざるをえないのではないかと思われるからである。
私にとって、どんな場合にも明白だと思われることは、永遠なるものは、価値との関係が一切無い場合には、定義され得ない、ということである(さもなければ、私が「下位の時間的なもの」と呼んだものに、還元されてしまう)…
再び、保存と創造との間の神秘な関係のことを反省した。保存が存するのは、創造されたものの次元〈秩序〉においてでしかなく、この次元は、価値あるものの次元でもある(保存は、分散に対する能動的な闘いを含意している)。
我々は、我々にとって起こるところのものを、我々の前を通過はするが、何処へ行くのでもなく、何処から来るのでもないところの、諸映像のひとつの連続として見做す傾向がある。とはいえ、到来する或るものと、そのものが到来するところの「私」との間の、この関係は、理解不可能なものである。そこには、まだほとんど気づかれていないひとつの深淵が存すると、私は思う。
一九一八・十二・十一
予言[prédire]の可能性について(法外な場合Tに関して)。
どのような諸条件で、予言[prédiction]は可能なのか? 予言すること[prophétiser]、それは観ること[voir]である。ゆえに、到来するところのものは既に在らねばならない。だが、どのような意味で〔在るのか〕? それ〈到来する未来のもの〉が現に在るのは、私にとって程なく姿を現わすであろうところの、ひとつの隠されている客体が、そうである〈現に在る〉ような意味においてではあり得ない。「何処?」という問いは、ここでは意味を有しない(「それは何処に?」〔という問い〕)。在るであろうところのものが、既に在るのであるが、〔それは〕或る他者[un autre]にとってなのである。この他者自身 — 彼は予想〈予見〉するのであろうか? 多分。だがこの場合、我々が先へ進むのではない。問いは新たに、この他者にとって呈されるのである。故に、「観る意識」たちの、多分とても長いこうした一連続は、終りには、生成の首長的な一意識を有する必要があることになろう。〔そして〕この生成というのは、同時に現在であり未来であるような生成であることになろう。このことは、例を援用して明確にすることができる。私がひとつの物語を即興的に創作する場合、私は、何処に私が到達しようと欲するのかを知っている。私は、私の書くものが向かっているところの状況を、単に予見するだけなのではない。私は、そうなるであろうところのものを、私がそうなることを欲するが故に、知っているのである。私は企画するのである[Je projette]。あらゆる(152頁)予言は、ひとつの「企画する意識」の生への、多分まったく間接的な参与[participation]を含み持っているように、私には思われる。この意識は予想〈予見〉するのではなく、先立って創造するのである。だが、このことの適用は無数にある。まず第一に、存在することにはならないであろうものを、私が観るということが、あるかもしれない。というのも、生成の首長的な意識が、だからといって全能ではなく、自らの企画を実現する力量を有しない、ということが想像できるからである。ここから承認されなければならないであろうことは、予言が事実によって確認されなくとも、事実的な予見[vision]が存することはあり得た、ということである。他方では〈第二に〉、この〔首長的な〕意識は、即興的に創作する限りにおいては、自らの本来の目的を目指してではあるが、自らに外部から提供される経験的素材を使うようにさせられることがある。ここには、この〔首長的〕意識の企画に参与する存在たちの観点からは予見不可能なものが存するかもしれない。この意識自身にとって予見不可能なものが存する程、この意識〔自身〕がどうやって着手したものか分からない程、そう〈予見不可能なものが存する〉だろう。同様に、この意識にとっては不可能なものが、反対に、別の観点からは、別の関連体系の中で、予言の対象であり得るかもしれない。
私が理解していないこと甚だしいのは、この意識つまり上位意識の、私の意識あるいはあなたの意識への関係であることは、明らかである。この上位意識は、私には、〔私の意識よりも〕いっそう豊かであると同時にいっそう効力があるように思われる。要するに、この意識は、ひとつの上級の集中力を備えているであろう。だが、この意識は、正確に言って、ひとつの《別な》[une ≪autre≫]意識なのであろうか? 人は、我々はこの意識と有機的な関係にある、と言いたくなるだろう。しかし、このことは理解可能なことだろうか?
一九一八・十二・十二。
今朝、ひとつの根本的な筋道を見いだした。私が応答することの出来る問いというものは、専ら、私が与える可能性のある情報に関わる問いである(それが私自身に関わるものであっても。)例えば、アフガニスタンの首府は何処ですか? いんげん豆はお好きですか? 〔という問い。〕 しかし、私が全体としてそれであるところのものが問題となる程(そして私が有しているところのものが問題であるのではない程)、応答は、そして問いそのものが、すべての意味を失ってゆく。例えば、あなたは徳がありますか? 〔という問いや、〕あなたは勇敢ですか? 〔という問い〕さえも 1。〈1. 一九二五年の覚書。— このことは『神の人』の中心問題と繫がる。〉
ここに、どうして、「あなたは神を信じますか 2?」と問うことが、もし神への信仰が存在様態として把持されており、ひとつの人格の実存に関する意見として把持されてはいないならば、根本においていかなる意味も有しないのかの、理由が存する。〈2. 覚書 一九二四年。— 神への信仰が現実のものである程、この信仰は存在のひとつの仕方であり、ひとつの存在論的な変容である。〉不死への信仰も多分同様である。ここから次のことが帰結する:
(153頁)
1°) 他者の信仰は、私の側から知ることの出来るものではない(他者の信仰は質問事項のような対象ではあり得ない)。
2°) そして次のことが最重要なことである。すなわち、あらゆる反省あるいは私自身とのあらゆる対話が、他者との対話の内面化された再生である程、私の信仰は、私の存在以上にも、私にとっての対象となることは出来ない、ということ。つまり、私は実際には、私の信仰について自分に尋ねることは出来ないのである(ここに、『砂の宮殿』の最も深い意味が存する。私はこのこと〈この問題〉をあんなにはっきりと理解していたことは嘗て一度もなかった)。そうであるからには、神は、「主体である私」と「客体である私」という二者関係と比較されるような第三者では決してあり得ない。このことは、一九一八年七月二十三日の覚書〔本書一三五頁〕の意味のすべてを示すものである。
説明: 他者の信仰 — この意味するところを正確にする — は、私にとって、信仰対象でしかあり得ない。だが、私がこの他者の信仰を信じる瞬間から、私は彼と一緒に信じるのである。実際、不信仰者は、他者の信仰を信じない。こう言うことで私は、不信仰者が他者の信仰を不真面目だと判断していると言おうとしているのではなく(そういう場合がしばしばあるにしても)、不信仰者がこの〔他者の〕信仰を、間違った存在判断として解釈している、と言おうとしているのである。人が私に、「あなたは神を信じますか?」と言う場合、人は私に、「火星には人が住んでいるとあなたは信じますか?」という類の質問をしているつもりであるか、あるいは、「あなたは感受性の強い方ですか?」という形式の質問をしているつもりなのである。二つの場合とも、人は、信仰において本質的であるところのものの埒外に留まっているのである。すなわち、世界、つまり経験を、形而上学的に性格づける、個人的な仕方の、埒外に留まっているのである 1。〈1. 一九二五年の覚書。— この説明の仕方は、今では、私には、それほど明晰であるとも適切であるとも思えない。実際、問題となっているのは、主体によってそれが与えられるところの客体と比較すればそれ自体は偶発〈副次〉的なものである性格づけではなく、非人格的な形式でもなければ単なる経験的内容でもない実在する個人と、祈りにおいてこの個人がそれに密着しかつ自らがそれに密着していることを自覚しているところの実在との間の、独特な関係なのである。〉他方で、確かなのは、懐疑主義者の態度は大抵の場合、信仰を、ひとつの実在が多分それに呼応しているところのひとつの主観的な状態であると見做しているところに、本質が存することである。だが、この二元論は、間違いなく維持し得ないものである。というのも、神を思惟すること、それは、神を、神に関わる断定に結びついているものとして(そしておそらくは、この断定に関与しているものとして)思惟することだからである。神を実在するものとして思惟することは、私が神を信じていることが神にとって重要なことであると断定することである。これにたいして、テーブルを思惟するということは、私がテーブルを思惟しているという事実において、テーブルを全くどうでもよいものとして思惟することなのである。私の信仰がその関心を惹かないような神がいるなら、それは神ではなく、ひとつの単なる形而上学的な実体的存在[entité]であろう。懐疑主義者はこう言うだろう、「こうではありませんか? あなたは神を信じておられるけれども、あなたの信仰はあなた自身を性格づけるものでしかないか、あるいは、あなたの信仰がひとつの形而上学的価値を持つ場合には、あなたの信仰は実際に神にとって重要であるか、どちらかなのです」、と。(154頁)第一の選択肢が正確には何を意味するかを、私は探求しようと思う。
この第一の選択肢の本質は、資格上問いに変わらねばならないと見做される、(私は神を信じる〔という〕)ひとつの断言〈断定〉にたいし、(然り、だが神は存在しない〔という〕)この応答を対立させるところに存する。すなわち、実在(?)は、事情通の解釈者の口によって、否定的な応答をこの問いそのものに対立させる、ということを承認することが、この第一の選択肢の本質なのである。事情通の人物が、そのもの(le lui)は神ではないことを、あなたに宣言する、というわけである。だが、このことは、信仰者自身にとっては内面化され得ることであるから、明白なのは、我々は、先ほど定義された条件を完全に外れてしまうことになる、ということである。というのも、我々は、神は「彼」の、つまり、対話と比較した「第三者」のはたらきをなすことは出来ない、ということを明示していたのであるから 1。〈1. これらすべてのことは、以前私が検証不可能なものについて言ったことに繫がるということを、記しておくのは本質的に重要である。検証可能なのは、「彼」の次元に存するすべてのものであり、検証不可能な(すなわち、あらゆる検証を超越する)のは、二者相互間的(dyadique)な関係からしか成っていないものである(付言しなければならないであろうことは、検証行為は、数限りない代置の可能性を前提する、ということであり、逆に、私がひとりの「汝」の面前に居る場合には、代置というものは理解し得ないものだ、ということである。このことは最重要なことである)。〉 ここで我々は正に次のように言うのだと思われる(我々自身に、あるいは他者に。これは同じことなのであるが)、すなわち、《あなたは、神であるところのひとつの第三者が存する、と断定なさる。だがその第三者は神ではない。その第三者には神のものであるようなものは何も存しない》、と。さて、呈示されていなかったひとつの問いへの、この答えは、意味を欠いている(正に、主体と、「彼」自体と、神との間の、三つ組の関係の可能性は、除外されていたのだから)。このことに拠って、〔問題の〕第一の選択肢は意味が無いか、あるいはむしろ、最初に呈示されていたものの否定的確認でしかないことになるのである。
多分、これらの反省は、主語と述語との間の関係という大変な問題にたいして、何らかの光を投げかけるものである。じっさい、つぎのように言うことは出来ないのか? すなわち、主語が実際に存在する(私が存在するという意味において)ものである程、この主語は、私自身を含まないのと同様、問いと答えという途による規定をも含まないのである、と。「私とは何であるか?」という問いにたいしては、私は何と答えるかを知らない。「私は金髪か?」「私は食道楽か?」等の質問にたいしては、私は苦も無く答えることが出来るのに。私がひとつの「もの」を主語として思惟する(「もの」を考慮するこのような仕方は、或る場合には不適切であることがあると私は思う)瞬間から、私はこの「もの」を、包括的なひとつの問いにではなく、事細かな諸々の問いには答えることが出来るものとして思惟するのである 2。〈2. まさにこのために、実体は知ることの出来ないもの、すなわち、対話法〈弁証法〉をはみ出すものなのである。そしてまた、つぎのことが容易に理解される。すなわち、実体は、我々に答えるために、自らを事細かに述べるより他のことがどうして出来るだろうか、ということが。もし、実体が大雑把に自らを晒すならば、「彼」という契機と「汝」という契機は同一化する。我々は力動的なものの中に(すなわち、ひとつの第三の実在に関する知の外に)いることになるのである。〉 このことは、(155頁)ひとりの個人〈人格〉にとって、あるいは多分、神にとってすら、とても明瞭なことである。しかし、私がひとつの「もの」を、諸々の性格を有するものとして、そして、この「もの」が所有するこれらの性格の外では定義され得ないものとして、扱うのは、ひとつの混同と類推によってなのであるということは、あり得ることである。多分、「もの」(主語)という観念は、完全に除去されねばならないものなのであろう。そしてこのことを、私は信じようとする傾向にあるのである。この実体論は、私自身のことに関しても同様に正当化し得ないものだと、人は言うだろうか? だが、私が自分を「私」として思惟する限りでは(そして、すべての決意、すべての行動は、このことを前提している)、私は自分をひとつの全体として扱っているのである。私が愛し、愛される、等、したりされたりする程、同様に私は自分をそのように扱っているのである。こうして我々は、つぎの重要な命題に達する。すなわち、「ひとつの実在がひとつの全体として扱われる程、この実在は、問いと答えとによって行われるような思惟の最中にあって超越的なものなのである」、という命題である。意識とこの実在との間には、ひとつの二者相互間的(dyadique)な関係しか成り立ち得ないのである(〔この二者相互間的な関係は〕より正確には、反省にたいしてそのような関係として現われるところのものである。なぜなら、我々が二人でしかないならば、我々は或る意味で唯ひとつだからである。というのも、認識論者たちの偽-二元論は、実際のところ、ひとつの三元論であるのだから)。二者相互間的な関係、これは、私の以前の論究においては私が「参与」(participation)と呼んだものである。こうして、私の現在の反省と少し前の反省との間に、完全な一致が成立する。こうして、人は分かり始める、「神を信じることは、実在的なものと二者相互間的な関係を保つことであろう」、ということを。だが明らかなことは、この大変抽象的な公式は、明瞭化され特定化されなければならないということである。
神、それは、実在[la réalité]であり、しかも、三人称のもの[elle]として扱われることは絶対に出来ない限りでの実在である。このことは、私が、「神について可能な判断というものは存しない」、と主張していた時期に、私が言おうと欲していたことではないのか? だがこのことはもっと深掘りする必要がある。「汝」において〈の次元で〉は、判断は存しないのか? 私が誰かに、「きみは善いひとだ」[tu es bon]と言う場合に〔も〕。
だが、銘記すべきであると私に思われるのは、「汝」の次元でのあらゆる判断は傾聴されるように定められている、ということである。「彼」の次元ではひとつの目的性が存していて、この目的性は「汝」の次元での判断においては存在しないものである【訳者:ここでの最後の「汝」は原文では「il」となっており、前置詞「en」に伴われている。これは文法的にもありえないことであり、「toi」とすべきところを誤植した、と訳者は判断し、「汝」と記した】。人は、この後者の次元での判断は、情報教示のために充てられているものだ、と私に反論するだろう。しかし正にこのことが、「汝」の次元での判断には適用されないのであり、少なくとも第二義的にしか適用されないのである。「汝」の次元でのあらゆる判断は、私と対話者との間のひとつの関係を表現するものであり、ある向きは、この関係は同様に、「彼」の次元についても知られているはずだと言いたいだろう[ainsi que la volonté que ce rapport soit connu de lui]。(「きみは善いひとだ」=教示しているのは、「私はきみが善いひとだと思う」ということ)。要するに、信じる者と神との間には、個人的〈人格的〉な関係しか存しないだろう。そして、信仰の外に自らを置くことは、神を思惟することを自らに禁じることであろう。
(156頁)
とはいえ、このすべての理論は、信仰に関するひとつの反省であり、しかも、主体の客体への関係へと信仰を変換することはないことを前提するものである。よく見なければならない。
一九一八・十二・十四。
現実存在[existence]と述語づけ[prédication]。述語づけの対象[objet de prédication]であり得るものしか、〔つまり〕目印をつける[repérer]ことの出来るものしか、現実存在しない(ひとつの存在判断[jugement d’existence]を述べるためには、諸々の述語を使って目印づけをしなければならない)。ここから、「神が存在すると言うことには意味がないという事実」と、「神に諸々の性格を帰属させること、神を彼に変換することの、不可能性」との間の、ひじょうに明瞭な関係〔が生じる〕。
しかし、神を思惟するこのようなやり方は、神を全的に私に依存させることに帰着するものではないのか? というのも、私がそれによって対象を理解するところの行為から独立しているものとしての対象のみが、〔対象として〕捉えられているのであるから。ここから、つぎの、あきらかに馬鹿馬鹿しい問題が出てくるのであるが、かといってこの問題を呈示しないのは難しい。すなわち、「私が神のことを思わない限りでの神は、何であるか?」という問題である。ただし、(「神のことを思う」という言葉が大変な曖昧さを秘めているだけでなく)そのことを問うことは、再度神を第三者に変換することであるのは明らかである。(つづく)
つづきは《ガブリエル・マルセル 形而上的日記 第二部 翻訳2》を検索して御覧ください。
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