ヤスパース『哲学』第二巻「実存開明」「第三章 交わり」
古川正樹 訳
第三章
交わり
根源としての交わり
なぜ交わりがあるのか? なぜ私は私独りではないのか? という問いにたいしては、自己存在への問いにたいしてと同様、核心が言い当てられるべきだとすれば、納得のゆく答えは殆ど不可能である。「私は他者との交わりにおいてのみ存在する」という命題の意味は、たしかに、客観的にも主観的にも、了解行為と行動とにおいて互いに結合している現存在のこととして受け取られ得るものである。そしてその場合、この命題の意味はひとつの規定的なものであって、相互の関係によって存在している[Miteinandersein]という事実によって表示され得るようなものなのである。しかし、この命題意味は、実存的に思念される場合には、言表上では逆説的となるような、自己存在の根源を言い当てるものなのである。この自己存在は、自分自身からして本来的であるものであるにもかかわらず、自分からでは、そして自分のみでは、本来的であるものではないのである。このような実存的な交わりは、(51頁)かの現存在的交わりを自らの肉体として有することになるのであろう。この肉体において実存的交わりは現象し得るのである。
1.現存在の交わり。— 交わり[Kommunikation]とは、すなわち、他者たちと共に生きることであり、このような生は、現存在において多様な仕方で遂行されるものであるが、諸々の共同体的関係において現に存している。これら共同体的関係は、観察され、それらの諸々の特殊性において区別され、それらの諸々の動機と効果とに関して見通しが利くようにできるものである。共同体のあらゆるあり方は、現存在にとって不可欠であるゆえに、現存在における可能的実存にとって〔も〕不可欠なものであるが、しかし、そのあり方そのものは、決して既に、私が可能的実存として本来的に欲するところのあり方なのではない。むしろ、この共同体のあり方はすべて、観察されるものである交わりの限界に臨んで尋問されなければならないものである。心理学的で社会学的には現実のものである諸関係は、研究の対象である。〔これにたいし、〕真の交わりは、そこにおいて私が本来的に初めて私の存在を知るところのものであり、私はこの私の存在を他者と共に生み出すのである。このような真の交わりは、経験的に手許にあるようなものではない。この真の交わりを開明することは、哲学的な課題なのである。
a) 共同体における人間の純朴で疑いを懐かない現存在は、自らの単独的な意識を、自らを取り囲む人間たちの一般的な意識を以て埋もれさせてしまうものである。彼は自らの存在について問わない。そういう問いを発することはそれだけで既に不和分裂を突発させるものだろう。たとえ人間が衝動力と本能の確かさとに拠って自らの利益を見いだすことを知っているかもしれないにしても、それでもやはり、人間を拘束し人間が知っているところのあらゆるものは、共同のものなのであって、この共同のものに、人間自身の現存在意識は基づけられているのである。共同体的生の実体、彼がその一員であるところの人間集団の世界と思惟は、個別的人間の特殊な自己意識に対峙したひとつの他のものとして、尋問と吟味が可能なものとして、あるのではない。純朴な現存在としては私は、皆が為すことを為し、皆が信じることを信じ、皆が思惟するように思惟するのである。諸々の意見、目標、気掛かり、喜び、といったものが、一人の者から他の者へと、本人がそのことに気づくこと無しに伝播する。何故なら、皆の根源的で無疑問な同一化が起こるからである。各人の意識は晴朗であるが、各々の自己意識はひとつの帳(とばり)の下に覆われているのである1。〈1. このような原始的状態は、相対化された背景としては常に現実に存続しているものであり、全体としてひとつの可能性であり続けているが、斯くの如き原初的状態の心理学的-社会学的な探究調査は、様々な観点の下で、タルデ、ル・ボン、レヴィ-ブリュール、プロイス等によって為されている。〉 — 自己は、このような共同体を媒介として生きている限りでは、まだ交わりの中に立ってはいない。何故なら、自己はまだ自己自身として自らを意識してはいないからである。私が交わりを欲するのであれば、私はこのような無意識性の中に再び潜り込もうとは思わない。
b) 自我[das Ich]が自らを意識するものとして他者たちと自らの世界とに自分を対峙させることが出来る場合、そこにはひとつの飛躍があるのである。自我は自らを区別し、(52頁)このことによって、ひとつの根源的な独立性を摑み取るのである。この飛躍は、明晰で強制的な、普遍妥的な論理的思惟を発展させることと結びついており、この思惟においては、最初は夢想のように思える世界が、様々な対象と合規則性とへ結晶化されるのである。これら対象と合規則性とは、規定されて固持されるべきものであり、繰り返し認識され得るものなのである 1。〈1. 自我意識と論理的思惟との事実的な発生と展開という問題は、ひとつの有史以前的な問題であり、月並みな事柄を越え出るあらゆる点においては、実証的な伝承が欠けているので様々な仮定が頼りであるような問題である。〉
自我が独立したものとして解き放された後の問いは、どのようにして自我と自我とが相互に了解し合い、互いに交際するのか、という問いである。かの、原初的現存在において最も明瞭で無疑問なものである共同体が、消滅したと、我々が考えるならば、存在するのは、現存在する自我原子としての人間たちと、悟性から悟性へ、現存在から現存在への関係としての彼らの関係とであることになる。すなわち:
第一に、ひとつの思惟内容としての、ひとつの客観的事象を、共同で了解することを通して、自我から自我へのひとつの了解行為が存在する。この了解行為においては、ひとつの適切性がそのものとして理解され承認されるのである。あるいは、そこにおいてひとつの目的がその目的に従属する諸手段とともに共同で摑み取られるところの、行為が存在するのである。このような諸々の共同体は非個人的なものであり、そのような共同体においては、あらゆる自我は、その形式的な自立性にも拘らず、別の自我と原理的に代替可能であり、すべての自我は点の如き存在として相互に交換可能なのである。
第二に、分離された自我が、あらゆる他の自我を事象として取り扱うという可能性が存在する。諸々の事象内容を共同で了解すること、並びに、他者の諸々の動機を心理学的に了解することが、人が自分のために保持する何か或る目的に基づいて、他者をそのために所有しようと欲するところのものへと、他者を持って行くための手段としてのみ、使用されるのである。他者は、自分自身の意志の伝達を通して、平等な位階を持つひとつの現存在として承認される、ということはなく、この他者にたいしては、支配されるべき自然客体にたいするのと同様な影響行使が、その最後の意味を他者は理解していないところの、諸々の手はずを講じることによって、また、その諸目的を他者は知らないところの、他者の処遇と彼との付き合いによって、為されるのである。ここでも、いかなる個人的な関係も生じることはない。しかし、人が、たとえ全的に或る事象へと向けられて、他者をただ事象においてのみ観じている場合でも、この事象を共同で了解することにおいては他者を固有の自我として非個人的には通用させているのに、ここでは他者自身が事象となり、あらゆる伝達と関係は、ただ、事象を支配する場合と同様に、他者を支配する手段としかならないのである。このような関係が相互的なものである場合、ひとつの闘争が生じる。この闘争は、両者のうちの誰が、秘匿と見せかけの交わりという手段によって、統制される事象となるか、という、そのための闘争なのである。
(53頁)
c) このような交わりにおいては、私は意識一般である悟性として思惟されているだけである。しかし、このような普遍的な合理性の可能性は、そこにおいて私が更に実存として可能でありつづけているところの、単なる媒体なのである。「合理」[ratio]によっては、私は確かに私自身ではないが、「合理」が無ければ、私は私自身となることは出来ない。私が交わりを摑み取るのは、誰にとっても同一であるような諸事象においてなのであるが、私は、事象を純粋に把握することによって、既に諸事象を越え出て〔交わりを〕摑み取るのである。
というのも、人間は、決してひとつの単に形式的な悟性自我ではないからであり、決して単に生命力としての現存在ではないからである。人間は〔そういうものではなく〕、ひとつの内実[Gehalt]の担い手であり、この内実は、原初的な共同体状態の暗闇のなかに保たれるか、あるいは、精神的な、意識的となるも決して充分には知られない全体性を通して、実現されるかするものなのである。理念としてのこの全体性は、悟性には明瞭な規定性と合目的性とを共同的なものとして包み越えるものであるが、陰に籠ってはっきりせず衝動に憑かれている個別者の自己中心的な利害関心とは、本質的に異なったものなのである。この、理念としての全体性は、規定的で根拠づけ可能な諸目的によって導くのではなく、ひとつの意味の中へと嵌め込むことによって導く。この意味の中では、個別者は自らが世界へと拡張されているのを見いだすのであり、この世界に貢献〈帰依〉することが彼を充実させるのである。
統括する理念は、それ自体、いかなる対象的な事象でもないが、それでも、理念の全体性によって一般的であり、それゆえ、理念の非個人性のために、諸々の主観の内での実現に結びついている。これら主観は、理念を、高揚した非対象的な意味において、自分たちの『事象』と呼ぶのである。外側から見れば原初的共同体のような観を呈するものが、理念の肢体となり得るのであるけれども、そうなるのは、自我一般という意識的な独立的自己が媒介部分となることによってのみなのである。この自己は、その際、その原初性と無疑問性を、徹底的に変容させる。一つの全体 — 特定のこの国家、この社会、この家族、この大学、この職業 — という理念における共同体は、私を初めて、ひとつの内実に満ちた交わりの中へともたらすのである。
とはいうものの、私の私との同一化〈私の自己同一性の確認〉は、この〈そのような〉交わりにおいても、まだ脱落している〈未だ生じていない〉のである。たしかに、世界現存在の客観性のなかでの私の生は、内実を伴う諸々の理念への参与を通してのみ、充実可能なものである。だが、個別的な個人[der Einzelne]は、ひとつの独自な自立性[eine Eigenständigkeit]を保持しているのであって、この自立性は、この客観性を突破することがあるのである。ゆえに、この自立性は、この個人が経験的な個体としては全くこの客観性に吸収されようとも、この客観性に尚も対峙しているのである。理念とその実現〔の場〕における、実存を通しての交わりは、たしかに人間を、悟性や目的や原初的共同体よりも大きな、他者への接近の中に入らせはする。しかし、『私自身』と他の自己との絶対的な接近、この接近においては(54頁)端的にいかなる代替可能性ももはやあり得なくなり、この接近は理念の立場からは、もしかしたら個人的な接近として低く評価されるかも知れないところの、この絶対的な接近は、そのようにして〈いままでのような仕方で〉可能になるのではない。——
社会学的な諸関係は、その、諸主観に錨留めされた諸側面に従って、つぎの三つの、互いに基礎づけ合う諸方向において、追究される。すなわち、原初的な共同体性の方向において、即事象的な合目的性と合理性の方向において、〔そして〕内実が理念によって規定されている精神性の方向において、である 1。〈1 諸理念の分析は、史実を様々に解釈することによって為されている。これら解釈は、いろいろな時代、文化、民族、制度の『精神』あるいは『諸原理』を把握しようとするものである。これら解釈が、モンテスキュー、ヘーゲル、ランケのように、相互にどれほど遠く隔たっているかもしれないにしても、そうなのである。科学としての社会学が本来的に成果をあげるのは、既述の三つの方向において、事実的に歴史のなかで出現するすべての諸力の、知られたのでも欲せられたのでもない諸結果を指摘することによってである。そういう成果のある場合というのは、社会学が、それら諸結果を規定的に捉えることに成功する場合であって、〔そういうことは〕普遍妥当的に決定的なものとしては第二のグループ〔即事象的な有用性と合理性〕でのみ成功することなのである。〉 にもかかわらず、社会学的関係のどのような特殊な諸現実が考察の対象になろうとも、〔研究者において〕満足が生じるのは常に、何かを、純粋に大衆心理学的に原初的共同体からして解釈したり、純粋に合理的かつ目的に規定されたものとして解釈したり、純粋に理念的にひとつの全体性からして解釈したりするような、境界的〈極限的〉な場合においてのみであろう。問題であるものが、諸々の共同的な労働目標(職業連帯、仕事仲間)であろうと、教師と生徒、医師と患者、上司と部下、売り手と買い手、窓口係と顧客、の間の関係であろうと、契約の際の交渉相手、裁判の前での担当部局と敵対者であろうと、議会での討論やそれと類似の討論の秩序であろうと、祝祭での社交や催しであろうと、友情、仲間意識であろうと、闘争での仲間意識や連帯であろうと、すべての場合において、ひとつの心理学的な現実が基礎[Grundlage]であり、合目的性と悟性が、通用性を有する媒体[Medium]であり、全体性の理念および越え包むものへ帰属性が、多かれ少なかれ意識的な、秩序を形成する絆[Bindung]なのである。この絆は、否認するに到るまで希薄になることがあるかも知れないが、少なくとも、可能なものではあり続けるのである。——
とはいえ、〔これら〕三つの、客観的となる交わり様態を現前させることにおいて、諸々の限界が感得可能となったのである。これらの限界において、実存的交わりへの方向がはっきりと現われるのであるが、この交わり自体は未だ遭遇されないのである。素朴-実体的な共同体の場合は、限界は、自分自身に拠って立つ自我であった。この自我と他の自我との交わりの場合は、〔この種の自我は〕代替可能な点のようなものであるから、更なる限界は、諸々の全体性の包越的な理念であった。これらの全体性の内で、これらの自我は活動的に作用し、これら全体性を通してこれら自我は、因果的にではなく理念的に結びついているのである。諸理念の許に立つ交わりの限界(55頁)は、今や終極的なものであり、この限界こそ実存である。先行する諸々の交わりのあらゆる段階に結びつけられて、このように現象しながらも、実存はこれらの交わりのいかなるものの中にも終結していない。自ら根源的である実存は、唯一実存にとってこそ必要な諸々の交わりの中に立っているのである。これらの交わりは、実存そのものにおいてのみ、可視的ではなくとも経験可能であるがゆえにこそ、客観的な諸々の交わりと対峙しているのである。私は実存においてこそ私の全本質を投入して存在するのであって、私の現存在を投入して既に存在するのでも、一般性に変換可能な諸形式を通して存在するのでもないのである。
2.実存的とならない交わりへの不満。— 私があらゆる交わりにおいて特殊な満足を経験するにしても、どんな交わりにおいても絶対的な満足というものはない。というのは、私が自分の交わりの個別性を意識して、それによってこの交わりの限界にぶち当たる時、私をひとつの不満が襲うからである。私はただ、ひとつの規定された方向に在っただけであり、単なる現存在として、自我一般として、ひとつの理念的な全体の機能として、特定の性格として、組み込まれてはいたが、私自身として在ったのではなかったのである。
それゆえ、交わりにおける不満は、実存への突破のための、ひとつの根源なのであり、この突破を開明することを求める哲学的思惟〈哲学すること〉にとっての根源なのである。あらゆる哲学することが驚きをもって始まり、世界知が懐疑をもって始まるように、実存開明は交わりの不満の経験をもって始まるのである。
不満は哲学的反省にとっての出発点であり、この反省は、「私が私自身として存在するのはただ、その時々でかけがえのない他者を通してのみである」という思想を了解しようと欲するのである。
a)意識一般の交わりと現存在の伝承とにおける不満。— 意識一般として私は既に他の意識と共にある用意ができている。意識が対象無しには無いように、自己意識は他の自己意識無しには無い。ただ一つの孤立した意識などというものがあるとすれば、それは、伝達を欠いているものであり、問いも応答も欠いているものである。したがって、〔そもそも〕自己意識を欠いているものなのである。この自己意識は、そのような伝達や問いと応答によって、言葉として既に自分自身を他者から際立たせることにおいてのみ、存在するのである。自己意識は他の自我において自らを再認識しなければならないが、この再認識は、自己との交わり[Selbstkommunikation]において自らを自我として自分自身に対峙させて、普遍妥当的なものを捉えるためなのである。— しかしこの交わりは、まだ任意に代替可能なものであり、単に媒体であって、自己の存在ではない。この交わりにおいて私は誰ででもあるのであって、つまり普遍的な自我一般なのである。私はこの自我一般であることを確かに欲しはするが、私は私自身であることをも欲するのであり、単に誰ででもあることを欲するのではない。
というのも、既に経験的現存在として私は、相互に作用し合う他の現存在を通してのみ、存在するのである。ひとりの人間は、出産と(56頁)遺伝のみによって存在するのではなく、彼に彼自身の世界をもたらす伝承を通して初めて、現実の人間なのである。孤立した人間存在というものは限界表象としてのみ在るのであって、事実的なものではない。この孤立人間存在は、発育不良だったのだと考えられるかもしれない。すなわち、以前は聾啞者は精神薄弱〔と見做されていたの〕で、本当の白痴から区別されていなかった。聾啞者が手話を習得し、そのことによって彼らにも伝承が伝わるようになって以来、彼らは全き人間となった、と。— だが、このような伝統がただそれだけのものならば、私は、人間存在の歴史的内実とどんなに交わっても、それを通して私が私自身となるような本来的な交わりの内にはいないのである。客観的な伝統の中に諸々の個人は存在するのであり、これらの個人はこの伝統を私にもたらしてくれるが、このような伝統の中では、私自身は代替可能なものであって、客観性それ自体の中で何かが変えられることもない。しかし人間は単に容器であるより以上のものである。人間がただ、伝承されるものを受け入れるだけならば、人間はそこで窒息してしまうしかないだろう。自分で摑み取ることで初めて、人間は自分自身となるのである。
b)私独りだけであることへの不満。— 私が交わりの蹉跌に対峙して私自身を摑み取り、私独りで自立しようと試みるならば、不満は — 今や飛躍的に — 強まる。不満は絶対的で窮極的なものとなるのである。私が、あたかも既に私のためには真なるものを知ることが出来るかのように、「生の意味」を『私独り〔のもの〕』として捉えようと試み、そして私が、なるほどよく他者たちを世話し、私には彼らのために正しいと見えることを彼らに為すけれども、しかしその仕方が、あたかも彼らが私とは最も内面的なものにおいて本来関係がないかのような仕方である場合、私は紛糾してしまうのである。私は〔その場合〕真なるものを見いだすことが出来ない。というのも、真であるのは、ただ私にとってのみ真であるのではないものであるからである。私は、他者を愛することを通してでなければ、私〔自身〕を愛することは出来ない。私がただ私であるのみならば、私は荒廃してしまわざるをえない。
たしかに、ひとつの根源的に真なる衝動というものが私の内にはあって、それは、私独りに拠って立とうという衝動である。私にとって交わりが破砕した場合、私はそれでも私自身として不可侵に生きることが出来るのでありたいのである。しかし、私が、事実的にであれ、準備の不足によってであれ、あり得た交わりを裏切り、〔そして〕不満がもはや交わりへの意志へと転換されなかった場合には、私は無の中へと入り込んだのである。この場合、不満は、あたかも私は存在の外部へ落ちたかのような意識となる。この不満の意識は、不気味となった現存在と共に自分独りであることを前にして、恐怖する。私は、絶望して決意した自己存在の自己充足を哲学することで、自分を助けようと努める。そして私は、そのようにして、私が知らずに私の否定する自由によって私に招いたものを、ただ、ひとつの憶測上不可避なものとして、肯定するのである。現存在は私にとって暗いものとなる。
それは、私独りのみに拠って立つことの可能性を巡っての、ひとつの内的な闘いなのである。〔そして結局、〕私は、生の意味に、私(57頁)独りだけから到達することを、断念するはずである。闘いは、交わりにおいて、交わりに結合していることを通して、その都度、私の自己存在の決断へと至るのである。交わりは、私の可能的な自己存在の深みからのものであるが、この交わりにおいて、他者における同じ可能性によって語り掛けられて、要求されているのである、「私であるところのものに私は成れ、その都度唯一な他者と共に」、と。
c)他者への不満。— 他者が彼自身であろうと欲しないならば、私は私自身となることは出来ない。他者が自由ではないならば、私は自由でいることが出来ず、私が他者をも確信しているのでないならば、私は自分を確信していることが出来ない。交わりにおいては、私は自分が私にたいしてのみならず、他者にたいしても責任があると感じている。あたかも彼が私であり、私が彼であるかのように。他者が、〔私が彼と出会うのと〕同様に私と出会う場合に、私は初めて、交わりが始動するのを感じる。というのも、交わりの意味にも私は、私自身の行為のみによって到達するのではないからであり、他者の行為が迎え出なければならないからである。他者が、私を出迎える者である代わりに、彼自身を私にとって客観とするような場合においては、私は、永遠に不満な苦しい関係の中に入らねばならない。他者が自らの行為において自立的に彼自身とならないならば、私も、そうならないのである。他者を私に服従させて配下に置くことは、私を私〔自身〕へともたらすものではなく、他者が私を支配することもまた、同様な結果となる。相互に承認し合うことにおいて初めて、我々は両方とも我々自身として育つのである。我々は共にのみ、誰もが到達しようと欲しているところのものに、到達することが出来るのである。
d)交わりへの衝動。— 交わりが機能しないことは、私にとって本質的に私の咎となる。たしかに、交わりが明らかに到達されるのは、合目的的な悟性の善意志のみに拠るのではないが、それでも、自己存在を投入することを以てなのである。というのも、私は交わりにおいてのみ、自ら私へと到来するのであるから。私が自分を控えており、相対的で個別的な交わりを既に窮極的な可能性として扱うならば、交わりは決して成功することはない。自らが自分にとっても他者にとっても決定的な要因である、という意識は、交わりへの最高の準備へと駆るのである。
ひとりの人間へのあらゆる関係は、その各々の関係の、規定的である故に限界づけられた実在性を越え出て、我々〔自身〕に関係してくることがあり得るものである。可能的実存相互の出会いにおいては、世界の内でのすべての理解可能性を踏み越えるような本質的に重要な意義の意識、実存相互の触れ合いあるいは擦れ違いの意義の意識が、しばしば我々がこの意識を正しく了解しなくとも、〔我々に〕押し迫ってくる。我々から差し出された手が本来的にではなく単に共同体的なものとして摑み取られた故の、喪失したかのような無駄遣い〔の感情〕。我々がひとつの交わりを(58頁)破砕せざるを得ない、あるいはこの交わりの破砕を忍ばねばならない、という意識。あらゆる敵対存在の重圧 — 現存在の損害の可能性とは全く無関係であるけれども。あらゆる不機嫌と不和を、我慢可能な場合には、死亡事件のように解消しようとする傾向。憎んでいる者に、その者が死んでしまった後になっても、何かをしてやりたいと思う心根を前にしての恐怖。こういった諸々の感情は、ひとつの実存的な意識を指し示すものであって、この意識にとっては、交わり〔こそ〕は本来的な存在であり、単に時間的な結びつきではないのである。交わりにおけるあらゆる喪失と不発は、本来の存在喪失と同様である。存在とは、互いに共在することであり、この共在は単に現存在の共在ではなく、実存の共在である。だがこの共在は、時間の内では、存続するものとしてではなく、過程であり、危うい冒険であるものとしてあるのである。交わりにおいて私にとって生成したり不発だったりするものは、したがって、そのようにして、窮極の心根に触れるような内面的で物静かな仕方で、起こるのである。したがってまた、既に現実のものとなっている現存在的な交わりへの不満は、一層深くて実存的である交わりへと私を覚醒させるところの、棘なのである。
e) 実存的交わり。— 交わりを通して私は私自身が出会われるのを知るのであるが、この交わりにおいて他者は専ら特定のこの他者である。すなわち、唯一性が、この〔特定の他者の〕存在の実体性の現象なのである。実存的な交わりは、模範として示される〈予め制作される〉ものでもなければ、真似られる〈爾後的に制作される〉ものでもなく、端的に、その都度の一回性においてあるのである。実存的交わりは二つの自己の間のものであり、この二つの自己は、ただ特定のこの自己たちであるのみであって、代表者たちではなく、ゆえに、代替可能な者たちではない。自己は自らの確信を、絶対的に歴史的な、外部からは承認不可能なものとしての特定のこの交わりにおいて、持つのである。このような交わりにおいてのみ、相互的な創造における自己にとっての自己が在る。歴史的な決断において、この自己は、交わりへの結びつきを通して、自らの自己存在を、孤立した自我存在としては止揚したのであり、交わりにおける自己存在を摑み取ろうとするのである。
「他者が彼自身であり、彼自身であることを欲し、そして私が彼と共にあり、彼と共にあることを欲する場合に、初めて、私は私の自由において私自身である」、という命題の意味は、可能性としての自由からのみ、摑み取られるものである。意識一般および伝統における諸々の交わりは、認識可能な現存在的必然性の諸々であり、これらが無ければ、無意識的なものの中へ沈み込むことは避けられないことになろう。一方、実存的交わりの必然性は、自由の必然性でのみあり、それゆえ、客観的には理解し得ないものである。本来的な交わりから逃れようとすることは、私の自己存在を放棄することを意味する。私がこの交わりから私を引き離すならば、私は他者もろとも私自身を裏切るのである。
3.実存的交わりの諸限界。— 実存的交わりの実現は、ひとつの(59頁)無理強いされないものに結びついており、この無理強いされないものは、起こらないことがあり得るのである。〔そしてまた〕実存的交わりの実現は、この実現の現象のひとつの客観的な狭さと結びついている。
a) 交わりが起こらないこと。— 「私は他者と共にのみ私自身となり得る」という確信が、私の存在意識の根源に存する場合でも、この確信は、〔同時に、〕あたかも、交わり無き人々にたいする一種の有罪判決としては退けられねばならないものであるかのように、傾聴されるのでなければならない。友を見いだすようにと、どんな人々にも通達されているということであってはならない。人は常に〔友を〕求めたが、一度も得られなかった〔ということもある〕。すべての人間が幻滅させたのであり、他の人は運が良かったから友と出会ったのである。人自身は確かに〔出会いへの〕準備をしているのだが、誰も来てくれない〔ということもある〕。
そのような考え方では、交わりは、外的な事件のように人に当たったり当たらなかったりし得るところの、ひとつの客観的な出来事にされるのである。あたかも人に友が出来るのは物質的な富のようであるかのように。あたかも受け入れる準備は当たり前なことであるかのように、そして、友がいないことはひとつの事象が欠けているようなものであるかのように。けれども、友を見いだすことは、単に受動的な出来事ではなく、それ自体、可能的実存のなかに根拠づけられているのである。友を見いだすことは、現象の次元では、交わりを敢えて行なうことによっても、先走ることを躊躇することによっても、共通の楽しみや関心による集まりの中での単に社交的な触れ合いを、交わりと混同しないという誠実さによっても、同じ様に準備されるのである。友を見いだすことは、孤独を〔人生の〕初期に苦痛に充ちながらも耐えること、自らを守り、待つことが出来ること、によっても、準備される。これらすべての逆は、真の交わりの根源を妨げるのである。真の交わりは、客観的に固定された諸理想を手にして近づき合うことによっては、不可能となるのである。自由な実存との交わりは、いっさいの窮極的な基準を避けることを求める。あらゆる検査は副次的なものに留まり、ただ交わりの媒体となるのみであって、交わりの条件とはならない。「他の人々は神や聖者のようであるべきである」という、本能的な欲求は、いっさいの交わりを妨害するものである。広い視野の現実性と、絶対的な真剣さの可能性とが、内的に緊張している場合にのみ、友は与えられているものである。
だが、私が自己満足的に、友と交わりを私の功績として、私に帰するならば、私は、もっと深い非真理の中に沈み、本来的にはこの二つを失うだろう。窮極的に私のみに拠るのではないものを、私は私に帰してはならない。確かに、無制約的な実存の一層大きな力が存在し得るのは、幸運が欠けていた場合こそである。
此処、根源においては、咎についても功績についても語られるべきではない。此処では、欠乏についてのいかなる弁明も存しない — というのも常に私にも欠けているものがあったから — また、(60頁)想像されただけの充実による改善状態のいかなる正当化も存しない — というのも私に帰せられないものが常に付け加わらなければならなかったから。あらゆる実存的なものは、私が目的性をもって欲したり欲さなかったりし得るような諸々の客観性の、外部にあるのである。交わりの歴史的に一回的なものは、ひとつの全体であるが、この全体は、私自身が既に存在して、今や何か或るものを更に得ようとすることによって生じるものではなく、私自身がこの全体のなかで初めて本来的に生成するような全体なのである。しかし、非客観的な全体としては、この交わりは無根拠[grundlos]である。交わりは実存の根源〔そのものであるから〕である。交わりにおいて私の自由が大切である程、交わりにおける功績や咎が存在する。私は、育っている萌芽を軽率に放棄したり、その萌芽の傍らを通り過ぎたりすることがある。あるいは私は、この萌芽が直ちに枯死してしまうように生きることがある。頓挫して発展しなかった交わりに臨んで、諸々の咎の感情に苛まれる場合もあれば、交わりが実現したのに、理解出来なくなった贈り物のようで、自分の功績ではないという意識が私を一杯にする場合もあり、また、〔交わりが〕実現されなくなって再び孤独の意識が私を充たす場合もある。しかしこの孤独は窮極的なものでは全くないのであって、私は孤独を真実に突破しようと努めたが故に、この孤独のなかで私は自分にひとりの友を、超越者そのものにおいて創造することになるのである。
b) 交わりの歴史的な狭さ。— それはあたかも、万人が万人にたいして要求を持っているかのようである。ひとつの交わり意志にたいして自らを拒むことが私の咎であるように、現実的な交わりの中へ踏み入ることは、他の諸可能性を排除することを結果として有する。私はすべての人間を得ることはできないのである。
だが、私は、最大限可能な多数の人々と交わりを求めることによって、既に交わりを壊しているのである。私が万人に、すなわち、私に出会うすべての者に、公平になろうと欲するならば、私は自分の現存在を諸々の表面的なもので充たし、空想的な普遍的可能性のために、制限されている故に各々唯一の歴史的可能性であるものにたいして、私自身を拒むことになるのである。
交わり的な存在意識の根源には、この存在意識の現象の客観的な狭さが、不可避的な咎として結びついているのである。しかしこの〔現象上の〕狭さにおいて、真正な広さもまた初めて生じるのである。
実存的交わりの開明
自己充足への傾向に抗して、意識一般の知で満足することに抗して、個人の我意に抗して、自らを自らの内に閉ざそうとする生の衝動に抗して、哲学することは自由を開明しようと欲する。この自由は、常に〔自由を〕脅かすものである(61頁)現存在の独我論あるいは普遍主義を前にしながら、交わりを通して根源的に存在を摑み取ろうと欲するのである。この哲学することは、私自身からして自分に呼びかける、私を開いたままに保ち、そうすることで、実現された交わり的な結合を無制約的に把持せよ、と。哲学することは、可能性を守ることに努めるものである。この可能性は、意識一般の独我論や普遍主義においては、慰め無きままに否認されるものなのである。
1. 孤独 — 統合。— 私が私自身に到る場合、この交わりには二つのものが存する。すなわち、「私であること」と「他者と共にあること」である。私が自立した者として独立的に私自身でもあるのでないならば、私は他者の中で完全に私を失うのである。〔この場合〕交わりは私自身もろとも同時に廃棄されてしまう。逆に、私が自分を孤立させ始めるならば、交わりは次第に貧弱で空虚になり、交わりが完全に打ち砕かれるという極限的な場合には、私は自分であることを止めてしまう。私は点のように空虚になって〔言わば〕気化してしまっているからである。
孤独は社会学的な孤立と同じではない。ほぼ原初的な状態で、自立的な自己意識も無く、自らの共同体からはじき出される者は、依然として内面的にはこの共同体の内で生きるか、非存在の暗い絶望意識を持つかである。彼は、護られながら孤独であるのでもなければ、締め出されて孤独であるのでもない。何故なら彼は、「自分自身にとっての自分」ではないからである。
発達した状態のはっきりした意識において初めて、「私自身であること」は「孤独であること」を意味すると言ってよいようになる。だがそう言ってよいのは、私は孤独においては未だ私自身ではない、というあり方においてである。というのも、孤独は可能的実存の準備意識であって、この可能的実存は交わりにおいてのみ現実的〔実存〕となるからである。
交わりは、その時々に、二人の間で生じるのであり、二人は結びつき合うが、依然として二人であるに留まらざるをえない — この二人は孤独から互いのほうへ来るのであるが、それでも、孤独を知っているのは、ただ、二人が交わりの中に立っている故にのみなのである。私は、交わりの中に歩み入ること無しには、自分となることは出来ず、孤独であること無しには、交わりの中に歩み入ることは出来ない。交わりによる孤独のあらゆる止揚の内で、ひとつの新たな孤独が成長するのであり、この孤独は、私自身が交わりの条件であることを止めること無しには、消えることはあり得ないのである。私が、自分自身の根源から私であることを敢行し、それゆえ最も深い交わりの中へ歩み入ることを敢行するのならば、私は孤独を欲せざるを得ない。たしかに、私は自分を放棄して、距離感無く、他者のなかで〔言わば〕液化することがあり得る。だが、自己がもはや自己存在と距離を置くこととの硬さ[die Härte des Sslbstseins und Distanzierens]を欲さないならば、そういう自己は、せき止められずに浅い流れのなかで力無く流れ去ってしまう水と同様なのである。
現存在においては、自分自身を熱情的に捧げることと、厳しく孤独のなかで自分を保つこととの、両極性は、実存的に(62頁)止揚され得ないものである。可能的実存は、現存在においては、ただ、二つの極の間の運動としてのみあるのであり、この運動は、その根源と目標が暗いままのひとつの行路のなかのものなのである。私が孤独を、常に新たに克服するために、敢えて受け入れようと欲さないならば、私が選ぶのは、混沌とした溶解であるか、自己無き形式と路線での固定化であるかである。私が敢えて帰依することを欲さないならば、私は硬直して空虚な自我として打ち砕かれるのである。
したがって、自己の現存在においては、不安静も留まりつづけるのであって、この不安静はただ諸々の瞬間においてのみ解消され、じきに新たな形態で生じてくるのである。だからといって、このような運動は、希望無く駆り立てられているような、いかなる無際限な反復でもない。この運動において可能的実存は方向と上昇を摑み取り、この方向と上昇との目標と根拠は、いかなる洞察にも存続しているものではないけれども、超越行為にある実存にとっては開明可能なものとなるのである。
孤独のこのような交わりに反対して、この交わりとは根源的に疎遠なひとつの根本態度が、対立する。すなわち〔この態度は〕、「そのような交わりは単に、孤独な者たちの共同体という、希望無き試みである。そこでは単に、我意が強情な自己存在があるのみであり、この自己存在は、真正な共同体の内に存するところの真理にたいして、自らを閉ざす。罪ある孤独者は、ひとつの哲学的営為を、孤独の仲間を持つという自らの妄想として、自分のために作り出すのである」、と〔言おうとするのである〕。だが、それでは真正な共同体とはどのようなものなのか、という問いにたいしては、これが答えとなる:「すべての人間たちを結びつけ得るもの」、と。これこそが、啓示された真理であり、信者たちの共同体においては、この真理に従順に従わねばならないのである。あるいは、それは、正当な世界整備の理念であり、すべての力を唯一の意志に導かれた権力へと排他的かつ国家国民的に統合するという理念、万人の幸福としての制圧的な世界形成の理念、等々である。人間は自分自身から撤退しなければならない。私が全体に奉仕するならば、私は真の共同体の内にいるのである。自己存在は自己喪失であることを意味する。〔そう、この態度は言うであろう。〕
両者、交わりへの哲学的態度およびこの敵対者たちは、「真理は、共同体を創設するものである」という命題を確信している。宗教と哲学は、次のことに関しても〔見解が〕一致している、すなわち、単に了解可能なものは、ただ、見せかけの共同体を、客観的に知られるものにおいて建てるだけである、ということに関して。了解可能なものは、本来、理解不可能なものの内における共同体にとって、媒体なのであって、この理解不可能なものを了解可能なものは、明瞭化の無限な過程へと引き入れるのである。だが、知られたものとしての単に了解可能なものは、自己存在から離されているゆえに、無拘束となる。この知られた了解可能なものが主要事となると、共同体をゆるがせにする。すべてを明澄な水のように合理化するならば、共同体としての交わりは消え去っているであろう。
(63頁)
共同体を創るところの理解不可能なものの、場と根源に関して、分離が始まる。この理解不可能なものが存するのは、ひとつの哲学する現存在にとっては、事実的に相互に出会う人間たちの自己存在の現実においてであり、ひとつの従順な現存在にとっては、客観として固定化された神の啓示においてか、マルクス主義のような世界像の権威的な正当性においてかである。私にとって価値があるのは、生身の人間たちへの私の交わりの歴史的現実のほうであることがあろう。その場合、私が自分であるのは、私が客観的真理として聴取し得るもののおかげであるより以上に、その人間たちの自己存在のおかげなのである。あるいは、私は人間たちへの私の可能的な交わりを、ひとつの一般的な「万人への隣人愛」の中に沈み込ませることがあろう。その場合、この万人への隣人愛は、自らの支えを、神性への私の無世界的な愛において持つか、あるいは人類の使命という、ひとつの合理的であるにもかかわらず理解不可能なほど暗い意識において持つかなのである。私は、自己存在を交わりにおいて獲得するために、常に新たに孤独を敢行するか、あるいは私は、自分をひとつの別の存在において究極的に止揚しているかなのである。
この分離は、「万人の共同体」という可能性への態度のなかで深化させられる。経験的な考察において、たしかに、繰り返し、つぎの命題、すなわち、「より多くの人間たちが何か或るものを了解する程、そのものは内実を持つことが益々少なくなる」、という命題は真理であることが、思い知らされる。しかし、哲学的な真理は、すべての人間を、彼らとの交わりが要求され続けるところの、可能性ある他者たちとして見るのであるから、この哲学的真理にとっては、つぎの要請は止揚することの出来ないものなのである、すなわち、「最も深い真理は、すべての人間が了解することが出来るであろうようなものであり、その結果として、ひとつの唯一の共同体となるであろうような真理である」、という要請がそれである。このようなディレンマにおいて、つぎの根本心術が、他の心術と分離するのである。すなわち、「暴力的に統一を強要しようと欲し、全く表面的な理解をもって、それどころか理解無き服従をもって、自己満足する」ところの心術が、「真理のために何ごとをも欺瞞的に先取しようと欲せず、それゆえ、事実的であってただ真正な交わりの内でのみ、俯瞰し得ない過程において克服されるべきものを、承認する」ところの他の心術と、分離するのである。なるほど、自らの秩序の内で現存在の可能性を気遣う共同体は、万人を了解するという目的を持っていなければならない。だが、この共同体は、正に其処で私が本来的存在の意識を獲得するような共同体ではなく、人間世界の秩序〔と言うべきもの〕であって、其処では、理解されるようにならないものが相互に敬意を払い合いもし、また、拡大してゆく交わりの内でますます接近し合ってゆくという課題がいつまでも存しているのである。
孤独と交わりとの緊張における実存の可能性は、選択であって、この選択は、(64頁)誰にとっても普遍妥当的なものとして思念されているのではなく、自己存在にとって無制約的なものとして思念されているのであり、人間にとって接近可能な存在を人間において摑み取ることとして思念されているのである。
2.開顕化 — 現実化。— 交わりにおいて私は私にとって他者と共に開顕する。
この開顕化は、しかしながら同時に初めて、自己としての「私」の現実化なのである。およそ私が、開顕化は生まれつきの性格のひとつの開明であると考えるならば、私はそのような考えによって、実存の可能性を見捨てるのである。この実存の可能性は、開顕過程において自らにとって明澄になることによって自らを更に創造するものなのであるが。対象的な思惟にとっては、当然のことながら、前以て存在しているもののみが開顕化することが出来る。だが、生成をもって同時に存在をもたらすような開顕化は、無から現出するかのようなものであり、それゆえ、単なる現存在の意味におけるものではない。「私は生まれつきそうなのだ」という観方に私が立つならば、私の素質を私は人生において認識するかもしれない。だが、私は私であるところのものに留まり続けるのである。そのようにして私は心理学的な考察によって自分に関わり〈態度をとり〉、「完全な経験的知というものは既に早くから私に関して、私が何であるかを私に言うことが出来るだろう」ということを前提するのである。このことは、諸々の素質や特性については適切なことであり、これら素質や特性を知ることは、私の状況における「方向定位〈定位・方向づけ〉」(Orientierung)に属することなのである。だが、可能的実存の決断する意識は、この所与性を摑み取るのである。この所与性に関して明晰さを探求することは、ただ、実存的開顕化の前提であるのみであって、この開顕化によって、世界の内で、私が経験的現存在としてそれであるところのものが明瞭になるのみならず、私自身であるところのものが明瞭になるのである。このような開顕化にとって、与えられたものの状況における実在的な諸限界を承認することは、つぎのことを意味する、すなわち、「私は与えられたものにおいて、やはりただ、ひとつの別の実現の〔ための〕素材を得るのみなのだ」、ということ、「したがって、与えられたもののそのような承認は、いかなる知も究極的ではないからといっても、しかし同時に、経験的な眼差しにとってはありそうもない、あらゆる限界を踏み越える可能性を、含み持つのだ」、ということを。— 実存的な「開顕性への意志」は、見かけ上は対立し合うものを、自らの内に含んでいる。すなわち、「経験的なものについての仮借なき明晰性」と、「これを通して、私が永遠にそれであるところのものに生成する、という可能性」。また、「経験的に現実的なものの不可避なるものによる縛りつけ」と、「この不可避なるものを、摑み取ることにおいて、〔別のものに〕変えるという自由」。そして、「既在を承認すること」と、「あらゆる固定化された既在を否認すること」〔、このような、見かけは対立し合うものを含んでいるのである〕。
このような「開顕性への意志」は、交わりにおいて自らを全的に敢行するのであり、この交わりにおいてのみ、自らを実現し得るのである。つまり、この意志は、あらゆる既在を差し出すことを敢行するのであるが、その理由は、そうすることにおいて自分自身の実存が初めて自らに到来することを知っているからである。これに対して、「閉鎖性への意志」(覆面への、諸々の防御手段による未然防止への〔意志〕)は、ただ見かけ上交わりへ歩み入るのであるが、(65頁)〔交わりへの意志として〕自らを敢行するのではない。何故ならこの意志は自らの既在を自らの永久な存在と混同しており、既在を保全することを欲しているからである。閉鎖性への意志にとって開顕化は破壊であろうが、自己存在にとっては開顕化は、可能的実存のために単に経験的に現実的なものを摑み取り克服することなのである。というのも、開顕化において私は自分を(存立する経験的現存在としては)失うのであるが、それは自分を(可能的実存として)獲得するためなのであるから。閉鎖性において私は(経験的存立としての)自分を守るのであるが、(可能的実存としての)自分を失わざるをえない。開顕性と実存的現実性とは、「相互に無から生じるように見えながら自分たち自身を支え合う」という関係にあるのである。
開顕化としての現実化の、この過程は、孤立した実存においてではなく、ただ他者と共にのみ遂行される。私は個別者としては私にとって開顕的でも現実的でもない。交わりにおける開顕化の過程は、かの唯一無双の闘争であり、これは闘争ではあるが同時に愛であるような闘争なのである。
3.愛しながらの闘争。— 愛として、この交わりは、どのような対象にでもお構いなしに当たってゆく盲目な愛ではない。そうではなく、この交わりは、見透す力のある、闘争しながらの愛なのである。この愛は問いただし、難しくさせ、要求し、可能的実存に基づいて他の可能的実存を摑み取るのである。
闘争として、この交わりは、実存を巡っての単独者の闘争である。この闘争は、自分と他者との実存を同時に[in einem]巡る闘争なのである。現存在闘争においては、あらゆる武器の利用が通用し、策略と欺きが不可避となるが、これは敵としての他者に対抗する態度なのである — このような他者は、ただ端的に他者なのであり、対立的に作用する自然に等しい —。一方、実存を巡る闘争において問題なのは、これとは無限に異なったものである。すなわち、余すところ無き開放性が問題なのであり、すべての権力と優越性とを締め出すことが、自分自身の自己存在と同然に他者の自己存在が、問題なのである。このような闘争において、この両方の自己存在は、〔相手に〕率直に自らを示して問いたださせるということを敢えてする。実存が可能である場合には、実存は、(部分的には客観的となりつつ、現存在の動機からは理解不可能なままな)闘争しながらの自己献身を通して、(けっして客観的とはならない)このような自己獲得として現象するであろう。
交わりの闘争においては、ひとつの無比な連帯性がある。この連帯性が初めて、かの法外な問いただしを可能にするのである。なぜなら、この連帯性が、敢行を支え、共同の敢行にし、成果を共同的に保証するからである。この連帯性は闘争を実存的交わり〔の次元〕に限定するのであるが、このような交わりは常に、その都度の二人の者の秘密なのである。このようにして、公然性のために身近な友人たちが存在し得ることになり、この友人たちは最も決定的に(66頁)実存を巡って互いに格闘するのであるが、この闘争においては収穫と喪失とは共同のものなのである。
開顕性を巡るこの闘争のために、諸々の規則が立てられ得るだろう。すなわち、けっして優越性と勝利を欲さないこと。これらが入って来た時には、これらは阻害と咎として感得され、これらとも戦わねばならないこと。手の内をすべて見せること。そしていかなる計算ずくの遠慮も全く為さないこと。相互の透明さは、単に、その都度の事象的な諸内容において求められるだけではなく、問うことと闘うこととの諸手段においても求められる。どの者も、他者と共に、自分自身を穿つのである。これは二つの実存の互いに対する闘争ではなくて、自分自身と他者とに対する共同の闘争なのである。そしてこの闘争はただ真理を巡る闘争であるのみなのである。このような闘いは、完全に同等な水準の上でのみ生じることが出来る。両者は技術上の闘争手段に差異があっても(知識、知力、記憶力、疲れ易さ)、水準の同等性を、あらゆる力を相互に提供し合うことによって、達成するのである。だが、このような平等化は、すべての者がこれらのことを自分自身にも他者にも実存的には可能なかぎり難しいものとするよう要求する。騎士道精神とあらゆる負担軽減は、ここではただ、限定された諸時間の間、我々の現存在の現象において生じるところの諸々の苦境のなかで、一時的な安寧保証として — 両者の同意によって — 通用するだけである。一時的な安寧保証がだらだらとしたものになるなら、交わりは破棄されているのである。しかし、〔平等化を〕難しいものとすることは、諸々の決意の内実のなかで決断するという、最も本来的な諸根拠と関係していてのみ、通用するのである。心的な道具の力が優るほうが勝ち、それどころか詭弁が可能となる処では、交わりは止むのである。実存的に闘争する交わりにおいては、各人は一切を他者が自由に使えるようにしておくのである。
意味のあるものとして感じられる何ものも、交わりにおいて応答されないままであってはならない。実存しつつ私は、聴かれた言い回しをそれ固有のニュアンスにおいて真剣にとり、その言い回しに反応する。他者が間接的にであっても意識的に問い、応答を欲しているのであるにせよ、他者が本当に本能的に秘匿を欲し、まったくいかなる応答をも求めなかったが、いまとなっては〔彼は私の応答を〕聴かねばならないのであるにせよ。私が自ら言うところのものは、問うこととして思われているのである。私は応答を聴こうと欲するのであり、けっして単に〔自説を〕吹き込んだり押しつけたりすることを欲しているのではない。限界の無い談話と応答をすることは、真正な交わりに属することである。応答がその瞬間に即座に為されない場合には、応答は課題であり続けるのであり、課題として忘れられはしないのである。
この闘争は同等な水準で行なわれるのであるから、闘争そのものにおいて既に承認が存するのであり、問いただしにおいて既に肯定が存するのである。したがって、実存的交わりにおいては、(67頁)まさに最も激しい闘争においてこそ、連帯性が明らかとなるのである。このような闘争は、切断するものではばく、実存たちを真実に結合する路なのである。したがって、このような連帯性の規則は、「これらの人間たちは互いに絶対的に信頼し合う」、ということであり、そして、「彼らの闘争は、諸々の党派を創るかもしれないところの、他の者たちにとって可視的で客観的であるような闘争では全くない」、ということである。この闘争は実存の真理を巡る闘争であり、普遍妥当的なものを巡るものではない。
闘争しながらの交わりにおける真実性が遂に獲得されて、実存から実存への自由が確保されることは、「自己」を自己中心化して孤立化するところの、かの諸々の精神的な自己法則性と心理学的な衝動との現実性を、同時に承認すること無しにはないのである。これら諸力は、交わりの自由な能動性を妨げて束縛し、阻害して、この交わりに諸々の限界を置いたり、この交わりを諸々の条件の下に置いたりしたいのである。かような諸力を知ってその覆いを取ること無しには、人間はそれら諸力を支配することは出来ない。なるほど人間は、自らの実存の高揚した時点の間は、それら諸力から自由であるかもしれないが、〔元の状態に〕再び沈み込んでしまうものであり、〔そうなると、〕自分がどうしてしまったのか分からなくなるものなのである。
4.交わりと内容。— あらゆる外面的なものを貫いて、人間が彼自身として他の自己へと歩み行き、諸々の欺瞞が崩れ落ち、本来的なものが開顕されるとき、魂が魂と、世界現存在の外面性において全然結びつかなくとも、覆い無く一つに打ち鳴るということが、目標として可能となるかもしれない。
とはいうものの、世界の内では、実存は実存と、直接的にではなく、諸々の内容[Inhalte]を媒介してのみ当面し合うのである。魂どうしが打ち鳴り合うには、行為と表現との現実が必要なのである。というのも、交わりは、時間も空間も無い浄福な存在が抵抗無く存立している明るさとして現実的であるのではなく、現実という素材において自己存在が運動することだからである。なるほど、〔その時その時の〕諸瞬間においては、あたかも接触が直接的であるかのようであり、この接触はいっさいの世界現存在を超越して自らを充実させることがある。しかしその場合でも、客観的となって今や超越された内容の広さと明晰さは、本来的交わりの瞬間の決然性にとって、基準なのである。この交わりは自らの飛翔を、世界の内における諸々の理念への、諸々の課題と目的への参与を通して、獲得するのである。
接触の直接性をもって既に真正な交わりであると見做す傾向は、単なる共感や反感において人間たちを接近させるものであるが、この共感や反感については、いかなる透徹した説明も人は与えることが出来ない。生命的な相互共生から性愛的な諸緊張にいたるまで、また、人間の外貌を通して語り掛けられること〈経験〉から、内面的な相互共属の可能性が光り閃くという限界にいたるまで、未だ一語も聴取したというわけでもないままに、この直接性は、ほとんど俯瞰し難いほどの領域に及ぶものなのである。あらゆる場合においてこの直接性は、何か非個人的で範型的なものを持っている。この非個人的なものは、まだ、本来的な自己の運動において、いかなる相互性でもない。直接性は既に、生命的な運動において完成されており、この運動と一緒に消えるものであるか、あるいはただ可能性であり、そういう可能性はさらに明らかにされ確証されなければならない。内容が無ければ、あらゆる直接的な接触は空虚なままなのである。単に生命的な青少年共同体、世界内での活動の無い単なる寄り集まり、目標や理念の無い仲間関係、遊びやスポーツで共にする現存在的歓喜、これらは体験の瞬間には特殊な満足を与える。しかしこういった満足は、生を決断として摑み取る自己にとっては充分なものではなく、必然的な不満を後に残すのである。
あらゆる外面的なものを超越する二人の人間の愛は、自らの高揚した諸瞬間を持っていたわけであるが、最も決定的な自己存在が摑み取られていたからといっても、やはり再び、愛しながらの交わりそのものを新しい直接性においてその純粋な内面性へと立ち戻らせ、そのような〔新しい〕内面性として育成する、という傾向が生じ得るのである。その場合、愛は疲れているのである。愛は、時間経過のなかでは、有意味な世界現存在の媒介の無い直接的な交わりにおいて実存的であり続けるということは出来ない。試みてみることは、貫通できない現存在の固さを破壊しようとして手を出すことであるか、または、単なる可能性に固執して自分自身を廃棄することであるか、である。最も基礎づけられた愛は、したがって、自らについて語ることが最も稀であるだろう。
接触の直接性は、すべての真正な交わりの、根源であると同様に成果である。規定的な行為と分節化された思惟との世界において自己存在の明晰性へ至ろうとする諸衝動が、この接触の直接性の暗闇から出て来るのである。獲得された交わりは、その獲得された形態において、現存在のあらゆる客観性の雰囲気として、また、新たな実現への準備として、残り続けるのである。私は事柄を通して他者の魂へ到るのであるか、あるいは、他者の魂を通して初めて事柄は、彼を従事させている故に私の関心を得るのであるか、というような区別的二者択一は、誤ったものなのである。後者の場合においては、ひとつの貧困化が進むことになるが、その理由は、諸々の事柄は単に諸々の付随性であろうからである。これに対して、前者の場合においては、魂が、ひとつの非個人的な主観へと沈み込んでしまうことになるであろう。そしてこの非個人的主観にとってこそ諸々の事柄は価値を有するのである。魂と事柄〈事象〉、自己存在と世界は、相関者どうしであるので、「可能的実存としての生は、(69頁)ひとつの相互的な魂どうしの了解行為に吸収され得るものであろう」、と解するのは誤解なのである。同様に、「この生は、諸々の業績と成果の相互的な承認として存立するものであろう」、と解するのも誤解なのである。諸々の世界内容が無ければ、実存的交わりは、自らの現象のいかなる媒体も持たない。交わりが無ければ、世界内容は無意味で空虚となる。諸々の世界内実が真摯に引き受けられることが、可能的実存に初めて現存在を付与するのであり、また、可能的実存の存在が問題〈重要〉であることが、交わりにおいて諸々の世界内実から初めて、そうでなければ無常性と無関心性から生じる世界内実の荒廃を、除去するのである。
5.過程としての交わりの現存在。— 交わりは、闘争しながらの交わりであることを、けっしてやめない。ただ個別的にのみ、闘争は終結することがあるが、全体においては決して終結しない。これは、実存の無限性のためであって、実存は現象においては決して自らを完成せず、どのような彼方へ達しようとも、生成することをやめないのである。
闘争しながらの探求の連帯性において存するのは、常にただ、単独的な者たちの間で増大する「近さ」と「遠さ」のみである。というのも、絶対的な〈完全な〉交わりなるものは、時間の内では、ただ瞬間の確信としてのみ在るからである。完全な交わりは、固持された客観的な成果としては非真理となるものであり、成果から現れ出る忠実として真でありつづけるのである。本来的で真となるものは、存立する存在を有することが最も少ないものであり、現象としてはただ、生成と消滅においてのみ在るものなのである。
人間たちの間においては、まさに本質的なものに関してこそ、言わば一打ちで真なるものを捉えることは不可能なのである。人間と彼の世界は、一瞬で成熟するものではなく、諸状況の連鎖を通して自らを獲得するものである。人間は、間に合わせで半端な、不完全な諸立場を通ってゆかねばならないが、それは、その諸立場が相互に補完し合うためなのである。極端にまで高められた諸立場を通ってゆくのも、それらの立場が相互転換し合うためなのである。単に適切に行為し語るだけにしようとする者は、全然行為しない者である。そういう者は過程の中に入ってゆかないのであって、自分が非現実である故に、非真実となるのである。真であろうと欲する者は、自ら錯誤して不適切さの中に入り込むことを敢えてしなければならず、物事を極端にまで押し進めたり、きわどい処にまで持っていったりしなければならないが、それは、事物が真実に、現実的に決定されるためなのである。
それゆえに、何ぴとも、他者あるいは自分にたいして、時間の内で完全であるよう要求することは出来ないのだから、実存的連帯性は、相互性に目を向けようとするのである。それは、断罪しつつ拒絶するためではなく、意のままにならず紛糾している状態においても、手を携えているためなのである。この連帯性は、ほったらかしておくのではなく、仮借なく要求し合うのであるが、自らが要求において思い違いをする可能性をも意識しているのである。交わりにおいては、要求は、硬直した(70頁)法則のように〔相手を〕否定するものではない。交わりにとっては、本来的な自己存在は、この自己存在が殆ど喪失されたように見えるかもしれない場合でも、この自己存在の可能性において通用するのであり、この可能性に基づいて初めて要求は為されるのである。あらゆる経験的な可視性を貫いて、このような諸可能性は出会われるのであり、これら可能性は、現象の過程において自らの本来的な存在を確信しようと欲するのである。自己となることは、過程の中へ入り込むことを求めるのであり、この過程において一人の者は他の者にとって開顕されるのである。それは、共同して、絶対的な結合状態という飛翔のために突き放し合うことにもなる。そして罪は、自らを閉じる自己存在の驕った孤立化であり、このような自己存在は過程というものを欠いているので、生きた肉体を携えたままの死のようなものであろう。
終極目標が交わりにおいて知られることはない。成果[Erfolg]への問いには二重の意味があるだろう。すなわち、成果は、世界の内での共同体を通しての、目的に関した実在化として思われているのか、あるいは成果は、決断されていることによって永遠な現実性へもたらされているものの意味において思われているのか、ということである。可視的な現存在における物質的な諸成果は、受け入れられて実存的成果の肉体であり得るものである。だが、この物質的諸成果はすべて、無際限で過ぎ行くものの反意味性のなかで現われては消えるものである。しかし、実存的な成果は、いかなる客観的な試金石〈判定基準〉も持たないのであり、ただ可能的実存の良心のみが、この成果を、交わりの結合性において感知〈知覚〉するのである。現存在において、実存は「自己と共にある自己」として自らを実現〈現実化〉したのであり、この現実性がいかなる知にとっても存立しなくとも、そうなのである。
6.交わりと愛。— したがって、自己存在が交わりにおいて初めて生成するかぎりでは、私も他者も、交わりに先行するような固定した存在実体ではない。むしろ、本来的な交わりが止むように見えるのは、まさに、私が自分と他者とをそのような固定した存在存立であると受け取る場合なのである。その場合、交わりはただ、独我論的存在者たちを根本とした、自己存在にとって本質的なものに関しては結果を欠いた接触のようなものなのである。
交わりにおける自己生成は、そのため、無からの創造のように現れたわけなのである。それはあたかも、孤独と結合、開顕化と現実化、といった諸々の両極性において、連帯的な闘争が、自ずから自己存在が生じるに任せようとして、認識可能な根源無しに可能となるかのようである。事実、閉じられた単一体〈モナド〉として自らにとって存立する単独的個人の、あらゆる固定化する主張にたいして、生成の弁証法が対峙させられるべきであって、この生成においては、その構成者たちは、ただ、自分たちが自らの自己存在として共に生み出すところのものなのである。しかし、無からの実存的生成という言表は、ただ消極的にのみ妥当する言表であり、(71頁)ひとつの前提された現存在に拠る客観的説明の試みとの対峙において妥当するのである。〔この言表は、〕自己存在がひとつの根源において自らが積極的に見いだされることを知ることがあるかもしれない、と言っている言表ではないのである。むしろ問われるべきなのは、どのような意味において、実存の存在に先行するものが、捉えられるべきであるか、ということである。この先行するものは、交わりのなかで自己存在として明るみに出るものなのである。
可能性は、消耗させる不満の形態で先行している。この不満は、友のための準備を意味するものであり、あらゆる欺瞞的な先取を確認しつつ、自分が友を見いだすことが出来るようにするものである。先行する現存在現実は、偶然としての、時間の内での事実的な遭遇である。しかし、先行する実体は、個別的個人への根拠無き愛なのである。客観的な考察にとっては、無が自己存在の存在根源であるが、実存的意識にとっては、超越者が、特定のこの歴史的形態のなかで、自己存在の存在根源なのである。そのような歴史的形態は、先行する不満であったり、現実性を可能にする偶然であったり、自己存在を動かす愛であったりするのである。
根源としての交わり (50頁)
1. 現存在の交わり —(51頁) 2.実存的とならない交わりへの不満 —(55頁) 3.実存的交わりの諸限界 —(58頁)
実存的交わりの開明 (60頁)
1. 孤独 — 統合 —(61頁) 2.開顕化 — 現実化 —(64頁) 3.愛しながらの闘争 —(65頁) 4.交わりと内容 —(67頁) 5.過程としての交わりの現存在 —(69頁) 6.交わりと愛 —(70頁)
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