「歴史上の大哲学者たちは皆生きているんだ。われわれ(研究者・学者)が殺しているんだ」、と言った学者がいた。ぼくは、その学者も「殺して」いる一人だったと断罪しているが、この言葉じたいは共有すべきものである。だいたい、大哲学者がじぶんの理解力の手に負える存在だと思っている阿呆ぶりは、人間のどういう心理から生じているのか、心理学あるいは精神病理学の一大課題である。気違いというのは、すでにそこにあるではないか。一人間が大人間を判断できると思っている思い上がり。しかし翻ってそれは、日常、そう言っている人間自身が人間を判断できると思い上がっていることと同じなのである。この堂々巡りを突破できるのは、具体的人間の人柄にまで受肉した真剣さのみである。実存的真剣さと言ってもいい。そして、実存的であることは、無からは生じない。経験の我有化と魂の深みから生じる。これを「歴史性」とヤスパースは言ったのである。ヤスパースの言葉の口真似ではどうしようもない深みから。
ぼくがこれらの言葉を、過去を振り返りながら、どんな深い軽蔑心をもって語っているか、想像がつくだろうか。
〔ぼくは、他の欄で書いたものをここでも公表する。ここでは、零(そんなことはないと思うのだが)にたいする十も読まれているからである。〕