高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

”平常心を保つには完璧な人間であろうとしないこと | 馬鹿の鑑定書の正体”

2023-02-24 13:41:00 | 日記

”平常心を保つには完璧な人間であろうとしないこと | 馬鹿の鑑定書の正体”



 2022年10月18日

 
完璧な人間になろうなどとしないほうがよい、誰でも間違えるし、取り違えをし、それによって感情につき動かされる。そういうものだと察してもらうしかない。それが普通の日常なのだ。 
 完璧な人間であろうとして罠に嵌まり、平常心を無くす。平常心とは、常にじぶんを許し、相手を解放すること。 
 
 
不完全でも自然で無作であれば、その不完全な自然さによって、最上の対処がなされているものだと思う。自然であることは完璧に神がかっていることではない。不完全なりに凌げていることである。 
 
 
ぼくのこの不完全さ、これが自然でありぼくらしさなのだ。ほかにどうしようもない。気張ったって一時しかもたない。それに、そういうところにぼくの本質が出るわけでもない。
 
ほんとうに仕事をやっているとき、ぼくは日常ではもっと不完全になっている。そうであるのに、ぼくが仕事がうまくゆかず手を休めているとき、他に気が散っているとき、そういうぼくを、馬鹿がみて、ぼくは他を気に掛ける分、精神が一段上がってきた、などと言うのだ。これが、馬鹿の鑑定書の正体である。
 
 
仕事に集中したいなら、他からの評価が落ちることへの覚悟が要る。反対に、評価が上がるとき、じぶんのレベルは下がっている、と思っておれ。 ほんとうに仕事するには、じぶんの世界に他を容れてはならない。
 
 
 
 
 

”「ほんとうに根源的」な判断ができるために哲学者は謙虚でなければならない”

2023-02-24 13:31:05 | 日記

”「ほんとうに根源的」な判断ができるために哲学者は謙虚でなければならない”



2020年03月31日
 
哲学は根源的な学であるのはよいが、それは基本的な学であるということでもある。根源的に反省することによってじぶんは他より秀でる者であるという高慢に、哲学徒は必ず引っ掛り、他への僭越な判断をあまりに容易く為す。根源的につまり基本的にいくら反省できているつもりでも、基本的な反省なので、それでは他者の実際的内容はほとんど理解できない。純粋理性批判を理解できても、ピアノ曲一つ弾けるようにはならないのである。それではほんとうに「根源的」な人間判断もできない。じぶんの精神的視界に現われない他者を感知してこそ、「ほんとうに根源的」な人間判断もできるようになるのである。「教養感覚」も まさにここに発揮されると云ってよい。 
 ぼくがどんなに深い(つまり根源的な)反省をできたとしても、その あまりの基本性のゆえに、裕美ちゃんが実際に生きている根性と美感覚の高い生活内容の入り口にさえ、ぼくは入っていないのである。わずかでも入り口に入ってみることで、相手に一つの判断でもすることが、じぶんにどれだけの労働を要求することかが、解る。哲学者のぼくが裕美ちゃんを尊敬するのは、まさに人間として「ほんとうに根源的」な感知と感情からである。哲学する者は、内実ある創造に生きるひとを尊敬する者でなければならない。哲学者は、哲学者であるゆえに、哲学者であるかぎりは、謙虚でなければならない。人間としては、哲学ではない実践を試み、人間の努力というものを実地で少しでも経験することを試みるべきである。 
 
 
 
 


「追放された魂」の演劇

2023-02-14 21:42:45 | 日記

「追放された魂」の演劇



 
どうしたの?
 
うん、マルセルが、じぶんの演劇作品の特徴というより本質をそう呼んでいるんだよ。しかし「追放された魂」というのは現代世界における魂のあり方そのものじゃないか。だからそこにかれの演劇世界の普遍性もあるわけだけど、いっぽう、それだから、かれの演劇世界に満足できないのは当たり前なのだ。現代世界に満足できないのと同様にね。同じことだ。つまりぼくの不満は真理たどいうこと。満足できる魂のあり方、帰郷した魂を、生きるという支えが、高田博厚の世界なんだ。
 
つまり、ふたりの世界の両極性が必要なのね。
 
そうしないと、片輪になってしまうからね。
 
 
リルケについて書いたマルセルだから、孤独の意味と欲求は充分解っている。向こうではそれがなければ通用しない。
 
 
 
愛とは、孤独と孤独が出会うのよね。だれとでもではないのよ。
 
マルセルの戯曲でもそうだった。そして、相手なしではいられなくなる。メタフィジックの次元にまで突き抜けてね。