高田博厚の思想と芸術

芸術家の示してくれる哲学について書きます。

すべて愛によらないことは罪であることの、日常的実践に根差した理解が必要

2023-02-09 02:41:11 | 日記

ぼくが今どういうものに意識が向いているかというと、人々が日々の営みのなかで普通にやっているあさましいことに、ぼくは嫌悪の気持ちをいだいている。嫌われることを嬉々として、相手を征服できるかのようにやっている。人間はこれほど愚かなのだ、と。それを真理の実行としてやっている。真理は、科学と同じで、人間の役にも立てば、破壊の道具にもなる。そういうことを深く意識あるいは自覚すべきだと、ぼくは強く思っている。そうして、すべて愛のないものは罪である、ということを知るのだ。
 
「身も蓋も無い」とは、表現や言動が露骨すぎて、ふくみも情緒(情感)も無い、という意味だと、国語辞典の類には載っていて、とくに「ふくみと情緒」という言葉がだいたいどの辞典にも使われていることに、ぼくは感心している。まさにそのことをぼくは思っているからだ。これをぼくは、1+1は2であって0でも3でもない、というような言い方、否定判断に拡張する数学的な言い方の、倫理的過誤、と呼びたい。こういう、身も蓋も無いままなのが「悟性」の次元であり、人間が人間なのは、この単なる悟性を超えるものを有しているからだと思う。それが、「高邁の心」とか、「真の自己」と呼ばれるものであり、「ふくみと情緒」と日本的に表現してもよいものだ、と思う。こういう点、単なる知の者は愚か者であり、真の智に達していない、と言うことができる。でも、こうやって批判することも、じぶんの安らかさから逸脱し始めることなのだ。だから、ぼくもこのあたりで矛を収める。

すべて愛によらないことは罪であることの、日常的実践に根差した理解が必要である。







人間は信念などによって好かれるのではなく存在によって好かれる

2023-02-09 00:11:31 | 日記

人間は信念などによって好かれるのではなく存在によって好かれる


 
それが一生解らずに人に問いながら終える者がいる。好かれる人間になれと言っているのではない。それは矛盾したことであり、落ち着いて、真の意味で諦念せよ、と言っているのだ。何と、ほんとうは誰からも好かれないことに気づかない者が多いことか。誰も他に忠告できない。忠告する者は誰からも好かれていない。好かれ、かつ忠告できる者はそうとうな者である。そういう者は芸を知っている。「ふくみと情緒」を知っている。偽物・つくりごとではなく、それが自然な人柄であるようなそれを。
 
 
 




 
 
 

真理は自立のためのものであり 他と争う道具ではない デカルトの寛容の深い意味

2023-02-07 02:26:25 | 日記

真理は自立のためのものであり 他と争う道具ではない



 
真理はそれに拠って自分を立てるものであり、他と争うための道具ではない。1+1は2であって0でも3でもない云々と言うふうに、正しいことを争い・対立の手段とすることは造作も無いことである。どうしてそういうふうにするのか。悟って確信することが他への圧迫、他の否定であるふうに。余計な意識構えをしなさんな、君にはその自覚は無かったかもしれないが。いまぼくは、昔の君の悟ったような確信の裏にある人間的欠陥がよくわかる。その確信の雰囲気による威風の片輪さが。君は悟っていたとはいえないよ。あるいは、悟るとは、それだけならつまらないことだ。1+1は2だ、と悟るのはよい(道元のように)、そのあとどうして、0でも3でもない、と付け加えることをするのか。それは、確信に角をつけることだ。相手をたしなめるには、身も蓋もない否定をしてはならない。「ふくみと情緒」を身に着けなければならない。そうでなければ君は、君の真理によって恨みを買うよ。それをやってきたきみはほんとうに仕合わせではないはずだ、と、君の真理の威風を畏怖してきたぼくは、いま、言うことができる。
 ぼくもそうありたくはないものだ。
 
 
アランが、悟性を超えるえる自我意志と高邁の心を、デカルトの方法的懐疑の精神に見たことを知る意義は、ここにあると、いま われわれは理解しよう。 厳格な知性の王者であったデカルトは同時に寛容の士でもあったことを、いま 納得できるだろう。