しんまるこ…ちびまる子ではない。新丸子駅。
この駅前カルディコーヒーファームで、フラフマシュマロクリームを見つけ、さい先いい。
近くにある小鳥屋でセキセイインコをみたら、生後33日くらいのヒナがいた。
ヒナちゃん、かわいい~と目を細めてしまった。
さて目的の商店街、イダイモールは日本医科大学武蔵小杉病院の門前町。
今日はお休みの店が多く、ガラガラ。目的の店もお休み。
今日は等々力競技場で、サッカーの試合があるのだろう。
フロンターレのサポーターが競技場方面に歩いていた。
目的の店が休店日だったので、このまま帰るのもつまらないと思い丸子山王日枝神社に行ってみることにした。
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神社は鎮守の森と言われるだけあって、正確な場所を知らずに歩いていても、空に映える青葉で場所が分かった。
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学生時代、確か「吾妻鏡」でこの神社が出てきたんだよなぁ…と思い出す。
当時は中世に全然興味がなかったので、ふーん、で終わらした自分が憎い。
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厳かな雰囲気が心地いい。
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手水場も清潔で清々しい。
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なんだろう?と見たら、たぶん大正天皇のご即位に際して軍人会が建立した記念碑。砲弾形と言ったところだろう。
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日枝神社の神使は猿なので作られたようだが、制作は平成。平成になってもこう言った奉納があるので信仰の厚い氏子さんたちに守られた神社なのだろう。
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個性的な狛犬ばかりみていたせいか、王道で安心する狛犬。かわいいなぁ、と思ってしまった。
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社殿脇には稲荷神社、大鷲神社。
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お狐さんたくさん。
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こちらもお狐さんたくさん。
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ご神木。すでに切り株。
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中原街道に架かっていた八百八橋の遺構だとか。
「ほしか屋」の野村文左衛門がかけた橋と言うが、ほしか=干鰯(肥料、金肥の一種)なので、屋号は別にあったのでは?
ほしかは、丸子の渡しで多摩川を渡ったり、海運から多摩川を遡上してきたものなのだから、交通史を伝える逸話なので後世に伝わってほしいな、と思う。
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知らなかった…中原の民謡の記念碑なんだとか。
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村々にあったお稲荷さんや庚申塔を都市化、道路拡張で行き場がなくなって、ここに合祀した…という感じ。
こういった信仰は忘れられてしまうのかもしれない。
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この地域の神社ではたいてい見かける力石。私の実家は同じ市内だけど、こういった力石は見たことがない。
すぐ裏には多摩川が流れているが、住宅街のなかの鎮守で静かで、この場所だけ異世界という気分にさせてくれる。
ちょっといただけないなぁ、と思ったのは、ご近所の人だろうか?境内をもの凄い勢いで自転車で走り抜ける若いママさんがいた。
お社の正面を横切る姿に、この人には鎮守さまとか、神様に対する思いとか、信仰とか、全然関係ないのだろうなぁと思ってしまった。
まぁ、川崎市だからなぁ…と地域性もあるのだが。
最近はあまり街歩きができなかった。
じつは3月に浜松市へ行ったとき、右足の付け根を痛めてしまい椅子から立ち上がるとき、段差を歩くときに痛みが走るようになってしまった。
やっと今週末くらいからその痛みがなくなった。
歩くこと、歩けることが大切なのだけれど、思ったようにできないと思うと情けなくて気持ちが沈みがちだ。
少し外歩きを控えていたが、また歩けることが分かったので嬉しくて仕方がない。
☆☆☆ 20160505追記 ☆☆☆
干鰯についてちょっと調べてみようと思いたつ。
多摩川の丸子の渡しは、たしか干鰯の水運が多かった…という学生時代のうろ覚えの内容を思い出したからだ。
まず引っ張り出してきたのは、川崎史資料叢書第一巻「村況史料集 上」(川崎市市民ミュージアム発行 1989年)掲載の上丸子村「数目調書」(明治6年2月)。
石橋25ヶ所、木橋1ヶ所、土橋3ヶ所…橋がやたらとあるなぁ…という印象だ。
しかも石橋が多いので、物流が盛んだったことの裏返しだろう。
当地は中原街道(中原往還)が通過している。
この街道は東海道の脇往還で、平塚市から内陸部を通る商人のための物流道であった。
また、船は14艘あるうち、渡船2艘、肥船10艘、川舟(20石積)2艘。圧倒的に肥船が多い。
村内は106戸で、うち専業商はなく、農兼商が5戸で、その中に肥料を扱う家はない。
下流に隣接する中丸子村「数目調書」(明治6年2月)の船は、茶船(80石積)1艘、農間肥取船13艘、舟帯船(20石積)1艘。
上流に隣接する宮内村「数目調書」(明治6年5月)には船の記載はないものの、「漁打網」が2張あるので船はあったが川漁のための船で渡船には使わなかったのだろうか?
さて「ほしか屋」は小杉にあったという。
隣接する小杉村の史料は「反別高人員総計其外取調書上」(明治7年3月)で、村内の地目面積、戸数、人数等で職業についての記載はほとんどない。
そこで「川崎市史通史編2近世」(川崎市発行 1993年)を引っ張り出してみた。
川崎市は多摩川を挟んで江戸地回り経済圏に取り込まれていた。
農間余業といって、例えば菰や筵などを農業が暇な時期(主に冬)に作って、江戸に出荷し賃金を得ていた。
その貴重な現金収入で、金肥(お金を払って購入した肥料)を購入し、効率が良い農業をしていたのだ。
おお、八百八橋やほしか屋の野村文左衛門の記載があった。
野村文左衛門さん、干鰯屋での儲けで、中原街道(往還)の補修工事をしたという。都内から海老名市まで。この距離は30キロくらいあるんじゃないかな?
石橋もたくさん設置して、これで物流が盛んになって、商人がどんどん通過できるのであれば、さらに丸子の渡しや中原街道の通行量が増え隣接する小杉の宿場としてもり立てていたわけだ。
しかも当時新田開発をしてた川崎の浜(川崎大師付近。江戸時代はこの浜で漁業は禁止されていて、貝を採ることと海苔の養殖しかできなかった)でとれた貝を仕入れて、身は売って、貝殻は肥料として内陸の八王子に出荷していたらしい。
文左衛門、やり手だなぁ…と感心してしまう。
金肥を購入するために、周辺の村では、そうめんや紙すきが発達する。これ、じつは二ヶ領用水の水路が関係している。
二ヶ領用水は、農業用水や工業用水という見方をしていたが、交通史にもクロスして関わっているのかと思うと、やっぱり歴史って面白いなぁ!