makoto's daily handmades

二ヶ領用水支流っぽい細長い土地を探検する

今日、アルバイトの面接に行ってきた。3日後までに電話があれば合格、なければ落選とのこと。

じつばこのバイトの面接会場が、新婚時代に2年ちょっと住んでいた場所からそう遠くないところだった。

だからこそ「ヤバい、あの近くは全然分からん!」と焦りまくりだった。

普通、ご近所ならなんとなく分かるものだろう。ところがこの場所というのが全く区画整理が追いつかないうちに都市化されたという土地なのだ。

実家のご近所は私が生まれた頃に区画整理をして比較的まっすぐだったり、見通しのよい道が多い。これは東急電鉄の田園都市計画のおかげでもあるのだけれど、おかげで道路が整然としていない場所には、若い頃は不安を覚えていた。

だから私は「見通せる道がない」「道の太さが一定でない」「いつの間にか公道ではない」「すぐそこに見えている道に辿りつけない」の「4ない道路」地区と呼んで、住んでいた頃はこの辺りの土地があまり好きになれなかった。

当時は、駅と大家さん宅に行けることさえできればいいと思っていたので、街探検をしてみたいとも思っていなかった。だって家に帰り着くことができるとは思えないくらい道が複雑で、長く住む街でもないと思っていたからだ。

面接会場の地図をGoogleマップで確認すると、なんだか細長いよく分からない土地があった。

私が住んでいた頃に迷い込んでしまったところによく似ているけれど、その辺りなのだろうか?面接帰りにちょっと探検してみることにした。

※写真が多くて長い文章なので、お暇な人だけご覧ください。

若い頃なら絶対に入らなかった小道。最近は私道だろうが躊躇なく進むようになってしまった。ここは府中街道(国道409号線)沿いの葬儀場の裏手にある二ヶ領用水の脇にある。

これが地図で見かけたおかしな形の土地。駐車場かと思ったら、駐車場でもないし、一定の幅があって、でも個人の土地という感じでもない。

おそらく二ヶ領用水のすぐ脇を流れていた支流跡ではないか?と思う。

先ほどのよく分からない長細い土地を渡ってまた私道のような道。最初の細い道といい、昔のあぜ道ではないか?と想像してみた。なお、この道の右側は、私が住んでいたときは枝豆が栽培されていた土地だったように思うのだけれど自信はない。盛土がしてある(土地が高い)のでおそらく元畑であるのは間違いなさそうだ。

 

地図をみてもう一つ気になった土地はこの公園。以前住んでいたときは、一度も訪れたことのなければ、ここに公園があったことさえ知らない。

 

公園なんだけれど、ものすごく長細い土地。これも昔は水路だったのか?と思わせる。奥の方に宝くじ財団から贈られた遊具があったり広場があるから、ため池だったのだろうか?

公園の反対側の出入り口。やっぱり細長いことと、わずかに段差があって公園広場の方が低いし、側溝の蓋があるので元水路なのではないか?と想像してみる。

公園の出入り口と公道の接点。上部の土地(土の部分)は40センチくらい盛土がしてある。この辺りは比較的フラットな土地なので水害対策かとも思うが、それでも二ヶ領用水と、先ほどみかけた支流跡っぽい土地が低いので、大洪水にはならないと思うのだけれど…。

やっぱりこの公園が水路あとなのではないか…と想像してみる。

さて、先ほどの支流跡っぽいところを追いかけてみよう。

この地域のランドマークである富士通川崎工場の社屋。これが見えないと、地図を持たない街歩きでは不安が伴う。

雑草だらけだけれど、おそらく元畑ではないだろうか?手前と奥で土地の高さが違うが、元田んぼを畑作にしたような感じだ。ただ、畑作をしていなくて1年は経っていないように見えるから、春~夏に耕耘機でうなってそのまま放置…と思える。そう何年も放置した放棄地にはみえない。

奥の単管パイプで作った柵の向こうは、先ほど見かけた「よく分からない長細い土地」の続きだ。

ふと気がついたら、富士通川崎工場の北門前に出た。あれ?もうこんなに歩いたの?という感覚だ。

よく分からない長細い土地がここで一旦ストップする。中原土木事務所は、川崎市の施設なのでやはりここは二ヶ領用水の支流を暗渠にしたところのようだ。

二ヶ領用水本流の上家内橋から支流方面を望む。床屋さんと駐車場の白い車の間の緑が先ほどの「中原土木事務所」のフェンスがあったところ。ここで二ヶ領用水本流と合流しているのだろう…と橋の袂を見ても合流する水が流れ込む水路がない。あれ?ここで合流しない?

それならあの水路は何処へつながっているのだ?と辺りを探し回る。

 

先ほどのフェンスから道路を渡った所に小さな路地を発見!左側の舗装のされ方の雑さから、これだろう…とアタリをつける。

 

やっぱり舗装の仕方がおかしいので、ここで合っているだろう。

 

やっぱりこれで合っているみたい。ここも舗装が雑だもの。

 

ここで水路は左、舗装道路は右へと分岐。見事な別れ具合だ。

 

先とみると「本当に私はここを進む気なのだろうか?」と不安になるくらい鬱蒼としてきた。

 

暫くあるいたらヤブ蚊が凄いので、一旦小さなブロック塀をまたいでよく分からない土地に入ってしまう。私道ならまだしも、誰かの土地ではないか?と不安になっていたら、水路の脇にフェンスがあって水路の上は雑草だらけ。不安を解消するため、そそくさとこの土地を走り抜ける。

白い板の下や雑草が生い茂っている所の下が水路。もう、本当に「ここどこだよ??まずいのかもしれないし、どうしよう行き止まりだったら…」と走り抜ける。

やっとまともに歩ける水路の上を発見。ほっとする。

 

ごうぢ保育園前。この辺りは車で通過したこともないし、何よりもどの辺りかもほぼ分からない。だが、水路は必ず低い土地にたどり着く…というセオリーだけを頼りに歩く。はっきり言って、不安でたまらない。

 

左側に市営団地っぽい建物が見える。この辺りに団地っぽいものがあったこと自体知らなかったので驚く。同時にこの辺りでさえもこのくねくねの見通せない道。まだ道路は一定の太さなのでいいが、私が昔住んでいた辺りもこのくねくねの見通せない道で、不安が募っていたっけ。

 

ここで公道とはお別れ。見事に公道は直角に左へ進む道になっている。でも水路はまっすぐ進める。

 

トトロが出てきそうな小道。この道は夜通るには怖すぎるくらい街灯が見当たらない。不安だ。

 

突如のお墓ビュー。昼間でもこの道で他人とすれ違うのは少し怖いと思ってしまい、思わず後ろを振り返った。誰もいなかったけれど。

 

突如十字路。そして飛び出しの注意表記。そこそこ衝突事故があるということだろうか?

 

しばらく歩くと、イヌマキの垣根があった。ご近所ではイヌマキの垣根って滅多に見ないので驚き。今年3月に岩国市に行ったときに街路樹がイヌマキで驚いたっけ。

 

この先はもしかして、中原街道ではないか?なんとなく流れ着く先を想像しやすくなってきた。

 

ええ??ここなの??と驚いた。目の前の道路は中原街道。もともとこの道が東海道だった。江戸時代に東海道が整備されたとき、川崎宿(今の京急川崎駅の近く)はまだ東海道として整備が追いつかなくて、こちらが東海道として使われたのだ。だから徳川家康が趣味の鷹狩りをするために通過したのはこの中原街道。

閑話休題。この場所は、左奥にブックオフがある。正面の道路に暗渠っぽい側溝の蓋が見えないが方角的にはやはりブックオフ脇の道だろうとあたりを付けてみた。

 

ブックオフ脇の道を進むと、側溝の蓋が復活した。たぶんここだろう。

 

その先に進むともはや車が通れるのか?というくらいの道。電気関係の工事をしていたが、たぶん街灯関係のお仕事。いつか日本ファンタジーノベル大賞を受賞した銀林みのるさんの「鉄塔 武蔵野線」のようにひたすら鉄塔と電線を追ってみたいという願望があるものの、未だ実現しない。

 

そろそろ南武沿線道路に出るはずなんだが、その先を追えるかな?と不安になりつつ、今日の最終目的地にたどりつけるのか心配に

なってきた。

 

もうすぐ南武沿線道路に出るというところで、どう見ても細長い水路跡みたいな土地を見つける。しかもフェンスで囲って入れないとか…。気になって仕方がない。方角的に考えても、フェンスの奥から手前にむけて水が流れて来ていると思える。そうなると、今まで追ってきた支流は南武沿線道路を渡って下小田中や井田方面に流れ込んでいるだろう。でもここから先、下流だと思われる方角に側溝の蓋が見えない。不安だ。

ものすごいジレンマの結果、新しく見つけた水路の上流が何処なのかを探すことにした。が、一旦南武沿線道路に出ないと、このよく分からない細長い土地の上流に行けそうもない。

右側は南武沿線道路。その上の高架橋はJR南武線。一旦川崎方面に進む。バス停は「上小田中」。え?こんな所まで歩いていたの?と驚く私。

南武沿線道路沿いにまたよく分からない細長い土地を発見!でもこれはさすがに隣地との境界のためにあけた土地かと思い、さすがにここは通らない。

 

あれ?先月このワークマンにMIFさんとやってきたぞ。そうそう、そのときに、店の左の道路が低くなっていたから、水路跡かなぁ…と思っていたっけ。とりあえず入れなかった水路のフェンスを探すため、この左の道に入っていく。

フェンス発見!いま歩いてきた道と直角に交わっている。そのため、上流と思われる方向(右)へ進む。

 

恐ろしいくらい真っ直ぐなのと、ひとけが無い。街灯もない。不安。

わかりにくいが、フェンスの向こう側が駐車場になっていて、40センチくらい高い。だからここが水路であったことは間違いないだろう。

 

この水路は行き止まり。この先にはサントリー商品開発センター(旧・多摩川工場)。昔の水路だと直角に曲がることはほぼないので、おそらくこのサントリーの土地の下で暗渠になっているのかなぁ?と想像してみる。あくまで想像。

 

この白い建物のしたあたりを流れていると思うのだけれどなぁ…。でも企業の建物の下は通さないよなぁ…と不安になってくる。

 

サントリーの敷地の先は道路があって、その先には大きなマンションがある。ああ、やっぱり埋め立てられて、他のルートに接続されたかなぁ、追えないかなぁ…と不安が募る。

 

先ほどのマンションの敷地に公開空地がある事を発見!ついこの前まで「こうかいあきち」と読んでいたが、本当は「こうかいくうち」と読むことを知った。

公開空地のすぐ近くにこんな表記を見つけた。もしかして、私が追っている支流を利用してこんな風にできているのだろうか?と思うもののその証拠がないのでよく分からない。それにしても公開空地でこんな地下施設があるものなのだろうか?と驚いてしまった。

 

公開空地。武蔵小杉周辺には本当に公開空地が多くて、住民ではない私は公開空地の恩恵にあずかれてとても嬉しい。

この先でやはり水路は完全に分からなくなってしまっている。とりあえず、二ヶ領用水本流を目指すか…と気持ちを切り替える。

正面がJR南武線の高架。

近くには住宅展示場がある。この下辺りも暗渠で水路跡があってもおかしくないけれど…諦め始める。

なんとなく左側は水路の暗渠を利用した歩道かな?と思うがマンホールもないので分からない。

ふと右側を見ると、JR南武線の高架とともに水路っぽい側溝の蓋が…。でもこの先は南武沿線道路を渡って下小田中だもんなぁ…。もう水路を追う気力が無くなってきた。

ふと左側を見ると、今井神社があった!そういえば、今井神社の鳥居の前に水路があったはず!見てみよう!(少し元気でた!)

 

鳥居前の左側を望む。あれ?その先ってモロにマンションの下ではないか?

 

鳥居の右側を望む。おお、こちらは水路っぽい形跡があるぞ!

 

塀沿いの白い倉庫の裏手で水路がすっぱりない。鳥居の左側がこの辺りなんだけれど、やはり水路は追えない。

 

前の写真と同じ立ち位置で反対側を見ると、側溝の蓋があるけれど、水路…という雰囲気ではないんだよなぁ。社殿保護のための溝切りという雰囲気で。何しろこの今井神社、神代(かみしろ)らしからぬ思いっきり平地にある。わずかでも盛土がしてあるのならまだしも、そうではない。しいて言えば、二ヶ領用水のすぐ脇に神社があるので、用水路から引き込んだ水の一番の上流だから社殿がある(ついでに昔の今井村の一番上流)だからなのかなぁ…。

二ヶ領用水本流右岸から今井神社鳥居前の水路方面を望む。

ちなみに今井神社の狛犬は、腕毛がステキ。

 

気がつけば雨も降ってきたし、小杉御殿町交差点(国道409号線と南武沿線道路の交差点)に着いていた。

 

十月桜。花しか見ていなかったが、葉っぱは小ぶりなことに気がついた。

桜は花ばかり観賞していて、緑の葉っぱの鑑賞ってしないモノだなぁ…と感じた。あと何ヶ月かすれば、落葉の時期だ。

 

このブログで何度も登場している水門。ここから元住吉駅方面に流れる渋川が分岐する。二ヶ領用水は多摩川水系なのだけれど、ここを起点とする渋川は鶴見川水系になる。なぜなら渋川が流れ着く先は鶴見川だから。

分岐点。ここが運命の分かれ道…そんなことを彷彿させてくれる。

 

この水門の手前お墓ビュー。

 

水門を越えてもお墓ビュー。この辺りはお寺さんが多いので、お墓も多い。

私は意外とお墓ビューが好き。不謹慎だけれど、静かだから。

 

二ヶ領用水本流沿いを下流に向かって歩く。左側は元中原消防署の土地。今後川崎市医師会館ができるという。

 

これね、違法なんだって。よく町で見かけるこの地図看板、ほとんどの場合、屋外広告物に当たるのにその申請をしていなかったり、設置許可を受けずに勝手に町に掲げているんだって。地図看板をつくる業者は、広告料を支払ってくれたお店だけを書いて制作して勝手に町に掲げるんだと。前職で公序良俗に反するのではないかって問題になって、結局前職場では地図看板への広告は一切決裁が下りなくなったんだ。

じつは今日、最後に訪れたかったお店があったのだけれど、どうやら廃業していたのか看板もなければ、お店も閉まっていた。

それは法政通り商店街と呼ばれる場所にあった「工都」という屋号が残るお店だった。

「工都・川崎」という呼び名をご存じだろうか?ちなみに私は社会人になって暫くするまでその呼び名を知らなかった。

京浜工業地帯の川崎市は、工業都市という立場で工業が産業の中核だった。従って「工都」が代名詞だった。

私は生まれも育ちも今の住まいも川崎市なのだが、なにしろ住んでいたのはド田舎の農村地帯。工都と言われてもピンッと来ないし、川崎の代名詞でもある「川崎ぜんそく」もピンッと来ない。なぜなら、私の小学校の同級生は喘息持ちがいたが親御さんは「空気がいいからここに住んでいる」と言っているくらいだし、そもそも昔から療養施設・保養施設がいくつかあったくらい。

そんな私が社会人になって驚いたことの1つに、終戦を挟んだ14年間だけ東急東横線の駅で「工業都市駅」という駅があったこと。現在は廃駅。

今の武蔵小杉駅に吸収合併されてしまった。

先日地図を見ていて「工都」の名前を残す商店が法政通り商店街にあることを知って、ビックリ。おそらく工業都市駅の名残となっているのは、この商店の名前くらいだったからだ。

これはぜひ写真に収めたい…と思っていたが、それはもう難しいことだったようだ。非常に残念だ。

昔の工業都市駅があった場所と思われるところを写真に収めてきた。

この高架下あたりらしい。当時は1両編成の車両だったそうだ。場所は、国道409号線の前とのこと。

 

現在は、東横線小杉駅バス停。昔は工業都市駅バス停。

私の父は若い頃にこの辺りの学校に通っていたので、工業都市駅の名残はあったらしい。でも「コート駅跡」と言っていたから、その頃はよく分からなかったし、東急が経営していたテニスコートがあったのでテニスコートを略してコート駅と言っているのだと思っていた。

知らない間にその土地の歴史は忘れ去れてしまうことがある。

たぶん私が今日追った二ヶ領用水の支流と思われる細長い土地なんて保全事業でも無い限り将来失われる可能性だってある。

誰かの記憶に止められていない状態、それは書物や画像、映像で残らない限り歴史には残らない。

だから私は忘れられる前に誰かが記録して、次の世代に送り届けて欲しいと思っている。

私も今日追った土地に実際に水が流れている様子は一度も見ることがなかった。それは残念なことだったが、遺構として残ってくれればいいなと思っている。

一方で人口減少が進む日本。将来に向けてこの細長い土地が何も活用されずに埋もれて行くのもそれは日本が進む道の1つの選択であるかもしれないと思う部分もある。

 

 

 

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