時々フラッと訪れて、気の赴くままに知的好奇心を満たすにはとても楽しい文化施設です。
しかもタダ。
※厳密には税金で運営しているのだけれど。
今日は大掃除の一環で朝から食器の漂白をしていたら、だんだん頭が重くなってきました。
漂白は好きなのですが、臭いがね…。
さて気分転換に図書館で調べモノをしてみました。
トップ写真は資料検索をしたら印字できます。
図書館ではありませんが、私も資料室に勤務していたので記号さえ分かれば、見つけ出せます。
今回は「味の素株式会社」の社史を探しました。
この企業は1913(大正2)年から川崎市に工場があります。
前から気になっていた、大正13~14年の多摩川堤防工事、大正15年の多摩川水門における自家用専用河港について調べてみたかったのです。
今年10月の台風19号では、私が住む地域も被災地の1つになったのですが、大正時代の台風被害によるアミガサ事件や多摩川の有吉堤(ありよしつづみ)から「昔も多摩川は暴れ川」という話題にもなりました。
大正時代の堤防工事では、多摩川河口部にある味の素株式会社(当時は鈴木商店)も影響があっただろうと予想をしていました。
私は単にセットバックのために工場敷地を提供したかな?と思っていました。
しかし「味の素沿革史」(1951年刊、味の素沿革史編纂会/編)では、同社が総額51,200円(大正13~14年)を寄付しているとのこと。
当時の総理大臣の月給が1,000円の時代です。
でも、大正15年には川崎河港水門に自社用河港を作るのに施工費27,322円を支払っています。
味の素(グルタミン酸ソーダ)は、本当によく売れて、たくさん儲かったんだな、と思うわけです。
以前、パート勤務でご一緒していた方はこの水門近くにお住まいだったそうで、昭和40年代まではこの水門にサトウキビを山ほど積んだ船が入港していたのを見かけたそうです。
他に80年史、100年史も掻い摘まんで読んだのですが、これもなかなか面白かったです。
味の素株式会社は、関東大震災でも被災したし、川崎大空襲でも被災したりしたそうです。
太平洋戦争中から昭和25年くらいまではなかなか大変だったらしく、グルタミン酸ソーダが統制品になったので、仕方なく製塩や他の食品、アルミ鍋、化学薬品等も生産していたそうです。
しかも驚いたのは味の素株式会社印のDDTが作られていたそうです。
しかも当時の経営者はDDTを製造していなかったら戦後の経営は難しく、復興で大きな力になったと回想するくらいです。
また販路拡大もなかなか面白い要素で、元々東京で会社を興したので、東日本は自分たちの手で販路拡大をしますが、石川県までなのです。
これは北前船のルートに沿ったモノで、グルタミン酸ソーダがもつ「うま味」を知っている地域までは、自家販売という考え方だそうです。
それより西日本地域には自信がなかったのか、それとも販路拡大のリスク回避のためか、特約店や販売代理店方式をとります。
明治42年8月には大阪の松下商店(現伊藤忠商事)を鈴木商店(現味の素株式会社)の関西代理店に指定しています。
社史には説明書きが無かったので、私は松下商店は現パナソニックの松下電器かと思い「なんで電器屋が味の素?」とハテナだらけでした。
こういうところに自身の教養の無さを感じます。
さて西日本地域では、松下商店が絶大なる影響力、販売力があったそうで、味の素は西日本地域でも普及が加速したそうです。
ゆえに味の素株式会社が、大阪支店を持つのですが大阪支店傘下に各地の事業所を置くことになります。
さて私が生まれ育った場所は、同じ市内でももっと牧歌的な田舎風景の場所です。
実家から味の素川崎工場がある場所も電車の路線を何度か乗り換えないと着かないので、同級生の親御さんも味の素勤務の方はいなかったように思います。
でも川崎市の産業を支える企業の1つであり、幾多の困難を乗り越えてきたのだな、と知ることが出来ました。
今回、この調べモノのきっかけとなったのは、ブログの読者登録をしている「あなた知ってる?~広島~」(ブログ主:裕さん)の「味の素(樹木)寄贈・碑」です。
私のご近所図書館に味の素の社史が置いてあるのを知っているのに、読んだことが無かったことに気が付いたからです。
今年の「私の図書館納め」にもなりましたし、何よりもやっぱり文化施設っていいな、と再確認できました。