「広島の姉妹」に続く3部作の3冊目。
8月6日以前の女学校入学から友達「お藤」との出会いからお藤の死、そして軍需工場の先輩吉村さんとのエピソード。
本の3分の1は「広島の姉妹」「広島の母たち」のダイジェストなのだが、軍需工場を休んだ詳しい経緯、縁故疎開後に次々に死ぬ人たち、終戦、朝鮮の出身だった吉村さん、親友を看取ったり。
9月には台風が来て、吉村さん一家を助ける。
この本も図書館から借りてきたのだが、とてもキレイで、前の2冊とは違いあまり読まれていないのかもしれない。
原爆投下時の表現があまりなく、その後の経過や友の死が中心だからなのか?
でも原爆投下時の凄惨な状況もだが、次々に原爆症で亡くなる状況も知っておくべきことだろう。
さっきまで元気そうに再会を喜び合っていた人々が数ページ先ではなくなっていたり。
本を読んでいる私でさえも、なんで死んでしまうの?と思うくらいなので、実際にその場にいた人たちは驚きと言うよりも、絶句だろう。
そんな状況に出会ったことが無い私は、自分を正気で保てるとは正直思えない。
私はこの年まで全然、原爆のことを積極的に知ろうとも思わず、ただ、漠然と原爆は要らないものと思っていた。
昔はテレビで原爆体験を語るお年寄りが出ていて、その体験を知ることができた。
私にとって身近な戦争体験は、祖父の戦争体験や抑留体験だった。
だから、時代に流されて目を向けていなかったのだ。
祖父が死んだ後、もう戦争体験を教えてくれる人がいないと思っていた。
いずれ最後の従軍者が亡くなってしまったら、日本人で戦争体験を語れる人が居なくなると漠然と思うだけだった。
被爆者も、最後の被爆者が亡くなったら漠然と被爆体験を語れる人が居なくなると思っていた。
それは違うのではないか、知ろうと思ったらいつでも知ることができる時代なのではないか、と改めて思うことになった。
何かを知りたいと言う知的好奇心だけは失ったらダメなんだ、と思う機会になった。
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