makoto's daily handmades

武蔵溝ノ口から登戸まで歩く その2緑化センター近くから登戸駅


昨日の線路脇にはこんな手作り案内板があった。宿河原の桃について。
死んだ祖父の友人は、宿河原で桃を作っていた。その方ももう亡くなったが、通称「桃のおじさん」。
この地区で最後まで桃づくりをしていたが、亡くなった後はどうなったかは知らない。


宿河原周辺の二ヶ領用水の案内板。この用水の終着地が紹介されていないが、DASH海岸だと知ったら驚くだろうなぁ

左岸と右岸の高さが違うので、橋の上が明らかに坂道。私が見てきた二ヶ領用水の橋では、この橋だけ。なぜここだけ?と驚く。


坂道になっている橋の銘板




橋の周辺には記念碑がある


橋が僅かにアーチ型


桜もこの辺りはソメイヨシノだけ


宿河原駅から1番近い橋。宿河原橋は、これで3つ目


橋の近くに、昔の欄干(石橋の名残)を発見。こちらの方が宿河原陸橋辺りの2つ 宿河原橋より古い橋なのかな?


宿河原橋から下流を望む


宿河原橋から上流を望む。今日一番咲いていた場所。じゃらんに紹介されるだけのことはあるなぁ。そぞろ歩きの人もちらほら。花見宴会している人たちもいた




この橋を最後に一旦多摩川方面に行く


南武線の踏切を渡る。この先の稲田中学校西交差点を登戸駅方面に進む


また二ヶ領用水に出てしまった。これが最後の二ヶ領用水。宿河原周辺はとても歩きやすくて、温かみがあって、今まで歩いたことがある中では随分雰囲気が違う。
用水を眺めるための工夫がされていて、人と用水と桜がとても近い存在だと感じた。
まさに「桜と水の回廊」という雰囲気で、楽しむことができた。


正面の高架が小田急線登戸駅。今日はこの先少し先が目的地


再び南武線の踏切を渡る


すぐ近くに石材店と案内板。登戸は津久井往還の宿場町で昔から職人の町と言われている


柏屋。津久井往還の有名な料理屋


案内板もある


丸山教の門前。春休みなので工事中。先ほどの石材店のトラックがあり、かまわず入っていく


案内板








今日の目的、登戸静修校の記念碑。
丸山教は新興宗教で、明治時代には信者が138万人もいたという富士信仰の宗教だった。
でもその後衰退はしたが、大正14年から約20年間、登戸静修校を運営していた。
卒業生は400人あまりという。
私の祖父は、この学校の卒業生でよく「丸山」と読んでいた。
祖父の遺品にはこの碑を前に、同級生と一緒に撮ったり、その後、柏屋で会食を為ている写真がある。
祖父の10代の頃の思い出の地なのだ。

当時、農家の長男に農業技術のほか、農村でのリーダーを育てるための教育があったそうだ。でも、その多くは第二次大戦に従軍することになったとも聞く。
今はその跡地に幼稚園ができていた。
宿河原の「桃のおじさん」と、祖父はこの登戸静修校の同級生。
山育ちと、川育ちでは体力が全く違い、祖父のような山育ちは多摩川での水泳は全くダメ。ところが毎日自転車で登戸まで通う山育ちは、秩父霊場や大山登山などの遠足では山を駆け上ることができたそうだ。

さてここから登戸駅までどうやって行くのだろう?
人の流れをみて適当に歩いてみた。

小田急線向ヶ丘遊園駅に着いてしまった。

小田急線沿いの道を歩いて、無事に登戸駅に到着。

今日は、二ヶ領用水も歩けたし、桜の植栽の違いのほか、水量の違いも分かって、地域ごとの役割の違いを感じることができた。

そして登戸静修校は、20年ほどしか存在しなかったからこそ、その存在は歴史に埋もれてしまう施設だろう。この学び舎に通った方々はもうご高齢で、殆どお亡くなりになっている。

今回は、宿河原橋の近くで足が痛くなって速度が上がらずにいたが、頑張って登戸静修校記念碑まで行って本当によかった。満足。
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