関東大震災から100年。
私が小学生の時は大震災60年周期説が流布していたので、近々に大震災…と都市伝説がありました。
震源地は相模湾なのですが、いまだ相模湾を震源地とする大地震は起きていません。
私が人生で悔やんでも悔やみきれないことの1つは、同居していた曽祖父から関東大震災の話を聞きそびれていること。
当時は川崎市ではなく、橘樹郡(たちばなぐん)という交通手段が徒歩くらいしかない丘陵地帯の寒村でした。
発生当時、曽祖父は27歳で、すでに3人の子どもがいましたから、何らかの思い出話をしてもらえたはずなのに。
ちなみに聞き伝えている限りでは、家屋の倒壊損壊、土砂崩れ、田畑の地割れなどは無かったものの、あまりの激しい揺れにみんな外に飛び出して逃げたそうです。
一方で私の高祖父が生まれて4か月の私の大叔母(高祖父にとっては孫)を抱きかかえて「これ、どうするんだ?これ、どうするんだ?」と叫びながら部屋の中で一歩も動けなかったそうです。
高祖父は、厳格な性格で村や組合でも責任ある立場だったそうです。
その高祖父がオロオロした姿は語り草になっているだけでも、大変な揺れだったことがうかがえるほどです。
その4か月だった赤ちゃんこと、私の大叔母は施設にいるものの今年100歳を迎えました。あの時、家が倒壊しなかったからこそ拾った生命です。
さて、川崎市あたりでは「朝鮮人が井戸に毒を入れる」というデマが流れていました。
亡くなった祖父は当時4歳でしたが、地震の記憶はないものの、村の自警団の結成式はかすかに覚えていたそうです。
私から言わせれば、交通手段が徒歩くらいしかないし金目のモノがない寒村にわざわざ毒を入れに来るのか?と。そのことに誰も疑問に思わなかったのでしょうかねぇ?
学生時代に日本史を学んだ私はあるときふと気がついて、周辺自治体の市史を読み比べていました。
いまだ朝鮮人が井戸に…のデマの発生源は確定していませんが、横浜市史では品川や川崎方面から、大田区史では横浜川崎方面から、川崎市史ではどこからとなく…という表現があって、地理と見比べると発生源は川崎市なのか?と思ったものです。
このデマに関しては、秦野市にある桜土手古墳公園内の資料館で読んだ当時の農村の方の日記が興味深かったりです。
秦野市は神奈川県西部にあって、震源地に近い地域です。
いまも震生湖(しんせいこ)という関東大震災でできた湖がある町です。
デマから朝鮮人を守るべく、東海道線経由で西日本へ逃がす算段をするさまが克明に書き残されていました。
私はこの日記をたまたま手にとって読んだのですが、MIFさんによると先日NHKでこの日記が取り上げられていたそう。
神奈川県西部にある忠魂碑はたいていツギハギだらけで、その理由が関東大震災で倒壊した忠魂碑を修復させたためだそうです。
忠魂碑は、かろうじて終戦を迎えることができた日露戦争の実情と乖離する国民感情を映している、とともに一番身近な平和教育資材(反面教師的存在)です。
そのうえ関東大震災の惨状も表現しているので、ぜひ後世にも伝えて欲しい石碑です。
ふだんの生活で100年前に思いを馳せることは難しいです。
でも視覚的に訴求する普遍なモノの大切さを感じています。