
正宗寺にある子規の遺髪塚
野菜がお供えしてありました。
10/3(月)所用により松山の市駅辺りまで行きました。渋滞の道でフト見ますと「正宗寺 子規堂」の案内看板が目につきました。子規堂はここだったのか・・・、所用を済ませて寄ってみました。
正宗寺は臨済宗の寺院で松山藩主の寺とのことです。明治の頃のご住職に正岡子規と親交があって当寺の墓地に遺髪塚がそして境内に子規堂が設けられています。子規堂内部は遺品類の展示室になっています。入室拝観料50円には驚きました。
今NHKのドラマ作品で司馬遼太郎原作の「坂の上の雲」が放映されていますが、その中の正岡子規を香川照之が正しく迫真の演技で子規の実像はさもあらんと思わせるものがあります。
よく云われ、耳にする人物評論ですが、「夏目漱石を語る上に子規を置いては語れない。子規は子規として語られる」と、子規の才能は天賦のものと云えますが、36才で早世したその心は少年の心、その心が夏目漱石をして東京から四国の松山に向かわしめる精神的世界をかもしていたのではないかと思います。日本の近代文学の一つの濫觴となったサロンが子規の住む松山に展開されていたのです。
司馬遼太郎さんが「坂の上」に浮かぶ途方もない手の届かないような世界「雲」と云う希望の未来について口角泡を飛ばして語り合う少年たち、そのキラキラ輝き続ける少年の眼を正岡子規、そして秋山兄弟に見られたのであろうと思います。
それにしても「野球」(ベースボール)の呼び名は子規の幼名「昇」(のぼる)をもじったものであるとは茶目っ気たっぷりです。子規は当時のみんなから「のぼさん、のぼさん」と呼ばれていました。
野(の)+ぼる(ボール=球)で野球(のぼーる)。これを音読で「やきゅう」となったのだとのことです。

子規堂内の遺影壇
亡くなる13時間前に認めた絶句3句が額装で掛けてあります。
糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな
痰一斗糸瓜の水も間にあわず
をとゝひのへちまの水も取らざりき
子規の最後は明治35年9月19日、十七夜の月が煌々照りわたる夜であったとのことです。

子規ありし日の文机