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『龍谷大学350年の歩み』1989年刊より
本年は宗祖親鸞聖人のご往生から750年、大遠忌法要が各ご本山で厳修されています。50年前の昭和36年の700回大遠忌法要の年に宗門立の龍谷大学に入学しました。700回大遠忌の記念事業の一つとして龍谷大学の拡充計画が立てられて経済学部が設立されて深草の元京都師団の練兵場跡地に置かれました。文学部の教養課程も深草学舎でと云うことで深草学舎に入学したのでした。大学の学舎と云ってもほとんどが兵舎が利用されていて今の様にカレッジカラーに統一されたキャンバスなど想像も出来ませんでした。現在は3キャンバスに7学部と云う総合大学に発展しています。画像の平山郁夫画伯の「祇園精舎」の巨大な陶板画は顕真館(講堂)の正面に見ることが出来ます。
画像の上に印刷されているのが龍谷大学の学歌なのですが、入学式の折、龍大の男声合唱団がこれを四部合唱で唱われ初めて聞きましたが、いい歌なので聞き入りました。山田耕筰の作曲なのです。耕筰はいろんな大学の学歌の作曲をしていますが龍大のは荘厳で力強さが感じられて好きになりました。この合唱団が歌う学歌を聞いて合唱団へ入部した人が多くいたように思い出します。
この学歌の歌詞のことなのですが、平成4年1月19日前住職が他界し、その春頃より約1年費やして父三智の遺稿集の編集と出版作業を行ったことがあります。その折り父の70年以上にわたる日記もザッーと読んで「日記抄」として少し収録したのでしたが、その時、昭和2年9月23日の記述に「・・・夜、龍大校歌を作って見た。1篇を作ったが当選の自信はない」として4番までの詩篇が記されているものが読み取れました。ザッと読んで見て現今の学歌とは随分違うので没になったものと思い遺稿集の「日記抄」には収録しませんでした。
最近、龍大の学歌の作詞者は誰であろうかと調べて見ますと、特定の人の作詞ではなく「学歌作制委員会」となっています。「あれっ?」と思い、再び父の昭和2年日記を取り出して照合して見ました。すると同じフレーズは全くありませんが、イメージについては明らかに父の詩篇と同じカ所が何句かあることに気付きました。昭和2年秋に学内から応募された学歌の詩篇は何篇あったのかは知る由もありませんが、恐らく何篇かの詩篇やイメージーをもとにして作制委員会(国文学者で詩人の土岐善麿先生や深浦正文先生などがおられたのではないかと思います)において纏められたもののようです。この現今の学歌の完成は昭和5、6年頃ではないかと考えられます。なぜなら父は私が龍大に入学して学生手帳の学歌を見せるまで知らなかったようです。完成は応募から数年も後のことであったようです。現今の学歌を初めて見た折りも昭和2年に学歌の詩篇を創作して応募したことについて話すことはありませんでした。
今ここに昭和2年に父が作詞を試みて応募した詩篇を紹介しておきます。父はキッと苦笑いをするに違いありません。それに本人も当時の日記にいい出来ではないと記しておりますし、私も余りまとまりのいいものとは言い難いし、大学の学歌としては不向きな面が多くあると思いますが龍谷大学学歌誕生の過程の何らかの資料とはなるのではないかと思い、敢えてアップしておきます。
1、瞑想の夜の帳は開け
明け行く空に比叡輝く
朝風静かに吹き過ぐれば
高鳴る胸の我等が庭に
巍々たる銀杏の梢は揺れて
幾三百の歴史を誇る
2、嗚呼学舎の門廷に立てば
我等の想ひ飛び行く彼方
ヒマラヤの峰は雪に輝き
ガンジスの水 流れは尽きず
聖の掲げし教えは高く
法燈永久に世道を照らす
3、全人の夢空しく消えず
白馬の跡はあまねくあたり
長安に咲きし花散り行きて
中華に栄えし香は失せしかど
大乗の光日土を恵み
聖の理想此処にお生きぬ
4、鎖国の睡夢一度醒めて
西欧の文華乱れ入りぬ
混濁の流れ逆巻くところ
今ぞ我等の立ち行く時ぞ
大乗の子等が血潮はおどり
進み行く方道はるかなり
(旧姓藤原三千丸作詞)
下記のアドレスをクリックすると龍谷大学学歌が聞けます。
http://www.ryukoku.ac.jp/about/outline/songs/collegesong.html