衆生(しゅじょう)にかけられた大悲は 無倦(むけん)である。 広瀬 杲(ひろせたかし)
無常迅速、今年ももう11月、余すところ2ヶ月となりました。深く考えるいとまも無く時だけが足早に駆けて行きます。
昨朝、T.Aさんが亡くなられたお知らせを受け、悄然。つい先だってのご法座にも聴聞に来られていたのに・・・・、思い巡らせながら11月のカレンダーをめくると、広瀬杲(ひろせたかし)先生のこのお言葉に遇いました。
お正信偈に親鸞聖人が恵心僧都(源信)のお言葉を引かれて 煩悩障眼雖不見(ぼんのうにまなこさえられて見えざるといえども)大悲無倦常照我(大悲はうむことなく我を照らしたもう)を深く味わわれて「(如来さまが)衆生にかけられた大悲は無倦である」と申して下さっています。私には持続力も、集中力も極めて僅少、皆無と云えます。如来さまの私を抱き思う大悲のはたらきは休むことも途絶えることもありません。私が若いときも年老いた今も、健康な時も病で失念の時も、生に躍動し慢心の時も、臨終の折も「無倦」のお心(大悲)の中にあることをお知らせ下さってあります。阿々、南無阿弥陀仏
この扁額は宗方の花条旧大内朝義さん宅の仏間にあげられていたもので、「無倦」と書かれています。揮毫は三原市本郷町寂静寺の豊水楽勝(号清漣)和上。多分昭和10年前後にご来講の折りに揮毫されたものと考えられます。現在は修理して万福寺の庫裏に掛けられています。