勉強後記

「勉強後記」は「勉強日記」、「続勉強日記」の続編です。学生時代とは異なる目線で書いていきます。

英語が嫌いな日本人

2022-08-28 22:23:23 | 日記
英語が嫌いな日本人
この原因をつくったのが前回紹介した偏差値教育である。実は英語ができないのではない。テストの点数とともにトラウマを植えつけられているだけである。私は大学時代に大学生の英語を支援する講座の運営に携わったことがある。しかし、最初はTOEICの点数が足りずスタッフになれなかった。点数でしか人を判断できない情況を変えてやりたいという気持ちになった。大学受験ではreadingとlisteningしか評価されない。しかし、ほかのspeakingやwritingが得意な子もいるはずである。私は4技能のうち1つが好きになってもらえればいいと思っている。そして、添削は最低限にだ。そして、外国人と話す機会を増やすことだ。会話をしながらだと一々文法を気にしている余裕はない。気を付けるべきは現在形か過去形ぐらいのものである。きれいな発音や文法でなくても-極端に言えば単語だけでも-会話は成立することを知るべきだ。そのひとの会話力は決して点数にできないのだから。

日本の偏差値教育の実態

2022-08-28 10:55:32 | 日記
日本の偏差値教育の実態
日本の学歴社会は偏差値教育に成り立っているといっても過言ではない。偏差値教育は不幸せな人間を量産し続けている。社会や学校などのコミュニティをランク付けされたのである。このランク付けは様々な差別観を生み出している。
高学歴であるほど、学生時代に高校の武勇伝を語る人は多い。悲しいことに彼らの成長は大学入学時で止まっているのだ。私が本人から話を聞いたのは大学院時代であるから、院生にもなって恥ずかしくはないのかと思った。勉強以外の価値観で人をみることができないのである。頭の偏差値は高いが心の偏差値は低いことを自ら証明した。
偏差値教育(勉強と数字)に依存しすぎた人間はその枠組みから離れることができず、自らの潜在的な可能性まで摘み取ってしまう。枠から外れた行動ができなくなるのだ。偏差値教育はその人から生きがいを奪う全く恐ろしい病気なのである。


校則改定

2022-08-27 19:00:53 | 日記
校則改定
最近では校則改定が注目されている。
制服を廃止すべきかどうかなどはディベートでは王道である。仮想ではなく現実にするかどうかでは話のレベルが違う。
私もサークルの規則の変更を巡って後輩と議論したことがある。当時私はすでに引退した身だったので、あらかじめ後輩の意見に賛成することを断った上で議論を始めた。私は後輩に託す前になぜこの規則はできたのかということについて説明した。何事も変更するには理由(制定側の事情)があることを知っておいてほしかったからだ。
縛りから解放されたいのは人間の本性である。規則は万能ではない。時とともに劣化するものである。教員は規則ができた経緯を、生徒は今時の価値観と合わないことを主張すべきである。最終的には生徒の意に合わせる形になるであろうが、お互いの妥協点をさぐるべきである。
これは成人か否かを問わず制定する側の心の問題であるように思える。政治家のように恣意的に規則を制定してはならない。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎し

2022-08-23 17:42:01 | 日記
坊主憎けりゃ袈裟まで憎し
いったんそのことが嫌いになるとその周辺のことまで嫌いになるという意味である。私は大学院で一人の同期とうまくいかなかった。同期は私含めて4人いたが、そのうちほかの同期とも距離をとるようになり、自分の大学ですら関わりを持ちたくないと思うようになった。自分の大学に良い印象が持てないのは悲劇である。幸い県外の大学に進学したため、今は実家に戻り大学のことを忘れることができた。おそらく同じ大学に進学することはないと思うが、いつかは過去と向き合えるようになりたい。今の私ではコミュニティ丸ごと切り捨てることぐらいしかできないが、今後は上手く立ち回れるようになりたいと思う。

フィールドワークの重要性

2022-08-12 09:40:36 | 日記
フィールドワークの重要性
私はフィールドワークの重要性に気づかされた。これまで研究に没頭するあまり、フィールドワークすることを忘れてしまっていた。
高校時代今以上に知識がなかった私が今以上に活力にあふれていたのはフィールドワークのおかげである。
これは専門家でも陥りやすいのだが、知識をため込みすぎるとフィールドワークを重視しなくなる傾向にある。
最近は知識の停滞が気になっていたが、回復する方法がわからないままでいた。理由は2つあった。1つはストレスである。2つは知識の吸収と発散のバランスがとれていないことだ。過度な知識の吸収は消化不良を招きやすい。あたまのなかで考えるほど負担の大きな作業はない。
知識は力である。学んだ知識は活用しなければならない。知識が使えないほどストレスになるものはない。『百聞は一見に如かず』である。あたまのなかだけで、考えるだけでなく、現地を体験して得るものも多い。