○○519の3『自然と人間の歴史・日本篇』東日本大震災とエネルギー源(化石燃料か原子力か)

2018-08-02 22:13:32 | Weblog

519の3『自然と人間の歴史・日本篇』東日本大震災とエネルギー源(化石燃料か原子力か)

 2011年の東日本大震災に、時を同じくして起こったのが福島の原子力発電所の事故であって、それまでは比較的希薄であったエネルギー供給源を何におくかの議論が沸騰中である。かくも長きに渡って議論に決着がつかないのには、長らく専門家任せであったこの種の議論に国民の多くが参加してきたことがあろう。
 ありていにいうと、専門家の中でも、原子力発電の安全性、有効性につき大きな意見の対立が見られるようになっている。例えば、アメリカの文化人類学者のジャレド・ダイヤモンド氏は、朝日新聞のインタビューで、原子力発電所の事故に関連して、次のような回答をしている。
・・・福島の原発事故について
 「けっして福島の悲劇を軽んじるつもりはありませんが、原発事故も『リスクが過大評価されがちな事故』の典型です。私たち米国人もスリーマイル島原発の事故の後、1人の死者も出なかったのに、新しい原発の建設をやめてしまいました。それはあやまちだったと思います。原子力のかかえる問題は、石油や石炭を使い続けることで起きる諸々の問題に比べれば、小さい、と考えるからです。」(朝日新聞、2012年1月3日付け)
・・・放射能で環境が汚染されるリスクがあっても、原発を使い続けた方がよいと、ということですか。
 「たとえ原子力の利用をやめたとしても、しばらくは化石燃料にたよらざるをえません。過去70年間、放射能で健康を損ねた人よりもはるかに多くの人が、化石燃料を燃やすことによる大気汚染の被害に苦しんできました。」
・・・放射能は人間の遺伝子を傷つけ、子どもへの影響が心配です。放射能廃棄物は10万年以上もの間、危険な放射線を出し続けます。
 「確かにその通りですが、放射能の危険性と同時に、化石燃料の危険性も考えるべきです。二酸化炭素による地球温暖化はすでに、大きな被害をもたらすサイクロンなどの熱帯低気圧を増やしています。放射性廃棄物は地下深くに封じ込められますが、放出された二酸化炭素は200年間は大気中にとどまるのです。」
 「いま一度、『現実的になろう』と言わせてください。原発事故や地震で、文明が続く可能性がそこなわれることはありませんが、二酸化炭素は現代文明の行く末を左右しかねない問題なのです。」
 こんなふうに回答をしてくれているジャレド・ダイヤモンド氏の論調としては、やみくもに「福島以後も」エネルギー供給も原子力発電に頼りづけようというものではあるまい。そうではなくて、化石燃料と原子力とを天秤にかけて、前者の方が相変わらず安全性や効率性などにすぐれているのではないか、というのだ。

(続く)

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○○172『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山文化(絵画)

2018-08-02 19:49:41 | Weblog

172『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山文化(絵画)   

 長谷川等伯(はせがわとうはく、1539年(天文8年)~1610年(慶長15年))といえば、狩野永徳(かのうえいとく、1543年~1590年)と並んで安土桃山時代を風靡した画家にほかならない。両者はまた、画壇の覇を求めて互いに競い合ったことでも知られる。永徳の画風は、屏風図の中にこそあるという。
 その一つ、「檜図屏風」(ひのきずびょうぶ)には、檜なのに根元から太い幹が激しくのたうち回っているように曲がり、枝もぐにゃぐにゃと尋常でない複雑さを見せている。8枚折りの屏風に仕立てられているこの絵は、パトロンの豊臣秀吉が八条宮智仁(としひと)親王のために建てた、御殿の襖(ふすま)を飾っていたとの伝承がある。
 二つ目の「花鳥図」(かちょうず)は京都大徳寺(臨済宗大徳寺派の総本山)聚光院の襖絵であって、座敷の三方を囲んで向かって右から左へと、水の流れに従って春、秋、冬の季節を巡る。夏が描かれていないのは、不思議だ。目にのたうつように写る松は若々しい、花と木の下には清流が流れる。水面にいるおしどりは、心もちか気分が楽しげに写る。ところで、この絵は、襖のある部屋から外側にい出て臨む庭と対をなしている。
 茶道に関わって、永徳と作品のコラボレーションをしたのは千利休であって、その彼が作庭(設計)したのだと伝わる。後年の二人は、豊臣秀吉にかわいがられた長谷川東伯との対抗関係が浮上するに及んで、不仲になってしまった。その意味においても、「花鳥図」は若き日の永徳の真骨頂が窺える作品だといえよう。
 働き過ぎが元で死んだとされる永徳亡き後に、等伯の時代が来るかに見えた。だが、父をも凌ぐ画才とも言われた長男の久蔵が早死してしまう。それからは、画風がからりと変わる。探幽に負けず劣らずの大胆な金碧障壁画から、水墨画を主体とすことへの変化があった。生活もまた、画家集団の長でもあったとはいえ、精神面では孤独に浸るような生活を送ったらしい。
 画風も、独創的であった。そんな等伯の代表作とされるのは、『楓図』(かえでず)、『松林図屏風』(しょうりんずびょうぶ)、そして『竹鶴図屏風(左隻)』の三つである。後の二つは水墨画であって、『松林図屏風』の方は、松がもやっとしたたたずまいをみせて立ち尽くしているといったところか。とにかく寒々、寂しい雰囲気をかもし出している。また『竹鶴図屏風(左隻)』の方は、雨上がりの霧の立ちこめる中、竹があるかなしかに背景としてあるすがら、ちょうどさしかかっているかに見える。淡い墨でつくられた奥行き感があることから彼の作であるのがわかるのだと言われる。
 これらのうち国宝の『松林図屏風』については、2000年であったか、上野の国宝展で観賞したことがある。その時は、ほとんどの客はこの大きな屏風絵の前に立ち留まることなく、早めの観賞で通り過ぎていた。うら寂しいような心地のする空間に立つ松の姿からは、寂寥感が漂っているように感じられた。
 その等伯が72歳の時、徳川家康から江戸に呼ばれる。後の長谷川派の命運をかけての旅路であったことだろう。途中で病に冒され、江戸到着後2日目に亡くなってしまう。長男の亡き後、等伯の後継者となるはずの二男・宗宅も等伯に同行していたのだと、その彼も等伯が没した翌年に亡くなった。

(続く)

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○○173『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山文化(茶陶)

2018-08-02 19:48:01 | Weblog

173『自然と人間の歴史・日本篇』安土桃山文化(茶陶)   

 千利休(せんのりきゅう)にしろ、古田織部(ふるたおりべ)にしろ、日本の茶の湯の道を切り開いた人物で知られる。二人とも、政治との関わりがあって、しかも彼らは最高権力者との抜き差しならぬ緊張した状況の中で死んだ。
 彼らの没後、茶の湯は特に利休の血脈において太く受け継がれ、現在に至っている。それは、心ある個人によって受け継がれていったというよりも、宗家(そうけ)と呼ばれる家によって代々受け継がれてきた。つまり茶の湯という一筋の道は、ヒエラルティッシュ(ピラミッド構造)な権威に守られつつ、ひたすら血統を維持していこうとする姿勢によって生きながらえてきたのではないか。このようなことは、元々、創始者たちが望んだものではないとも考えられるのだが、本当のところは果たしてどうなのだろうか。
 安土桃山時代においては、陶芸文化が幾重、幾層にも華開いた。この時代の茶陶といえば、ざっと、萩焼、有田焼、信楽焼(しがらきやき、現在の滋賀県甲賀市信楽が本拠)、備前焼、志野焼、織部焼(おりべやき)、唐津焼(からつやき)、伊賀焼といったところだろうか。それらは、多様な器形からいっても、大胆もしくは華麗な意匠(いしょう)からいっても、日本を代表する陶磁器文化を成していく。
 例えば、桃山時代に渡来した焼き物(陶磁器)に、萩焼と有田焼がある。この二つの系統の焼き物については、朝鮮から渡来してきた陶工ないし工人たちがその発展に尽くした話が伝わっており、それらを発掘し、顕彰することは後代の責務といって然るべきであろう。
 萩焼とは、「土の性質から堅く焼き閉められていないため、使うほどに貫入(かんにゅう)といって、釉薬(ゆうやく)の表面にある細かなひび割れ)に染みが入る」のが特徴的だ。色は柿が熟した時に似ているし、艶がある。これは、「萩の七化け」と呼ばれている。有田焼きの真骨頂は白磁(はくじ)にあるとされる。
 それから、朝鮮からやって来て(もしくは連れて来られて)諸国の焼物地を回り歩いていた中に、李参平という陶工がいた。彼を日本に連れて来たのは、佐賀の鍋島氏とも言われる。李参平は17世紀の初め、日本で初めて白磁(はくじ)を焼いたことで知られる。その決めてとなったのは、有田の泉山で磁器の原料となる陶石を見つけたことがある。
 さらに紹介すると、平安時代に始まった備前焼は、桃山時代に入って黄金期を迎える。こちらの特徴は釉薬を用いない。多くは大小の器であるが、茶の湯で使われる水差(みずさし、水指)や花入(はないれ)その代わりということにならないのだろうか、燃料の薪や稲藁(いなわら)が燃焼の際熔(と)けて器に付着する。その時にできる模様を、「胡麻」(ごま)や「緋襷」(ひだすき)などと呼び分けて珍重した。
 織部焼というのは、焼き物で群を抜いた面白さの典型であった。思うに、縄文の土器が非対称の妙味を出せたのは、当時の社会が後代に比べまだ秩序立っていないために本能の赴くこしらえためとすることもできるのではないか。これに対して織部焼のあのぐにゃっとした形と艶やかさは、やはり何らかの造形美を追求する心があって、それによって曲げられたり、緑色の釉薬をぶつかけられたりしているように感じられる。

(続く)

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