♦️62の1『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル、1497~1610)

2018-08-17 21:13:02 | Weblog

62の1『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル、1497~1610)

 1497年7月、ポルトガルのバスコ(ヴァスコ)・ダ・ガマ(1460頃~1524)が、インド航路開拓のため出航する。これは、ジョアン2世没後のマヌエル1世(在位は1495~1521年)の厳命であった。つごう4隻を編成しての船団は、カナリア諸島そしてベルデ岬諸島を経て南大西洋を航海し、喜望峰に出る。それからこの峰を回って東に向かい、翌年の3月にはアフリカ大陸の東岸モザンビークに到着する。現地の水先案内人の協力を得て、同年4月にはマリンディに着いた。
 1497年、セバスチャン・カボット(1474頃~1557、ヴェネツィアにうまれ、イギリスに帰化した航海者)が、北アメリカ沿岸(ニューファンドランド)を探検する。
 1498~1500年、コロンブスが3回目の航海で南アメリカ沿岸を探検する。1502~1504年、コロンブスがスペイン王の命により4回目の航海にして中央アメリカ沿岸の探検にでかける。
 1499年5月には、彼の率いる船団がインドのコジコーデ(カリカット、現在のカルカッタ)に到着する。そこで、ヨーロッパ人のアジア進出を恐れるイスラム商人と相まみえた。同月末に帰途につく。だが、暴風のため多くの乗組員を失い、9月に首都リスボンに帰港を果たした。ここに、ポルトガル人は海路で香辛料の原産地に到達するというヨーロッパ人の長年の夢を実現した。この航路の獲得により、ポルトガル、ことに首都リスボンには、未曾有の繁栄がもたらされることになった。
 かたやバスコ・ダ・ガマは、王命で1502年に再びインドに赴き、カリカット、コーチンの抵抗勢力を武力でもって従わせ、翌年にポルトガルに帰国する。
 探検家のアメリゴ・ヴェスプッチは、1499年スペインの遠征隊に参加して南米北岸を探検航海する。そして、その北にあるのが、未知の大陸であることを発見する。まごうことなき新大陸であるにつき、アメリゴ・ベスプッチの名をとって「アメリカ」と命名される。
 1501年には、彼の率いる船団はポルトガルの要請で南米東岸をブラジルから南下、そのほとんどを探検航海する。1511年には、ポルトガルの船団がインドから東に向かう。そして東南アジアのマラッカに到達し、占領するにいたる。ここには海峡があり、交通の要衝を抑えたことになる。
 1513年、バルボアが、パナマ地峡を横断し太平洋に至る。1519~1521年、スペインのコルテスがアステカ王国(1428年頃から1521年まで現在のメキシコ中央部に栄えた)を征服する。
 そして迎えた1521年、カルロス1世(カール5世)の命によりマゼランが世界周航に出発する。かの王は、16世紀前半のスペイン王にして、神聖ローマ皇帝、ドイツ王などを兼ねヨーロッパ最大の勢力を有していた。その翌年、マゼランの率いる船団は南アメリカ大陸の南端にいたり、マゼラン海峡を発見する。地球が天体であることが実際の航海できっきりした。
 1524年、バスコ・ダ・ガマは、ジョアン3世の命を受けてインド副王として赴任したが,病を得て彼の地で死ぬ。1529年になると、東南アジアの領有をめぐってポルトガルとスペインの領有問題が燃え上がり、サラゴサ条約により東経144度30分を通過する子午線によって仕切ることになる。すなわち、その西側はポルトガル、東側に決まる。これにより、香辛料を産するモルッカ諸島がスペイン領になり、そのほかの東南アジアのほとんどはポルトガルが領有することになる。両国の間で、濡れ手に泡の権益を分け合った訳である。
 1531~1533年、スペインの意を受けたピサロがインカ帝国(インカ文化)を征服する。1535年、カルチエがセント・ローレンス川を探検する。1543年、ポルトガル人が日本の種子島に到達し、鉄砲を伝える。1545年、スペインがペルーのポトシ銀山を発見する。1553年、ウィロビーによる、チャンセラーの最初の北東航海の試みがあった。
 1558年にスペインのカール5世が退位すると、ハプスブルク家はオーストリア系とスペイン系とに分かれる。それに伴い、同家が支配していた領土も分割された。スペインが引き継いだのは、このうちのスペイン本土と海外植民地のほか、ネーデルランドやイタリア各地にあった所領をも含めてのことであった。1576年には、フロビッシャーが、北西航路開拓のためカナダに航海する。
 さらに1580年になると、フェリペ2世のスペインがポルトガルを併合する。スペインによるポルトガル支配は、その後60年を経てブラガンサ家がポルトガル王朝を再興するまでへ続く。1602年、オランダ東インド会社が第1回航海を行う。1610年、ハドソンが北西航海に出発し、ハドソン湾からジェームズ湾に入る。
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(続く)

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♦️61の2『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル、1490~1496)

2018-08-17 21:10:21 | Weblog

61の2『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル、1490~1496)

 クリストファー・コロンブス(1451~1506)は、旺盛な冒険心の持ち主であったらしい。イタリアの生まれ、若くして野心家だった。探検家となるべく、彼はポルトガルで航海技術を磨いていた。彼は、まずフランスのアンジュー公に新大陸探しをさせてほしいと持ちかけていたのが、断られた。でも、諦めなかった。
 1484年、今度は、ポルトガル王ジョアン2世(アフォンソ5世の子)に対して大西洋を西へ向かう航海を提案した。ポルトガルがカイティーリャから分離して独立したのは1143年のことであった。ところが、当時アフリカから東に向かってインドに到達することを目指していたポルトガルは、彼の提案を受け入れなかった。
 それでも夢を諦めきりないコロンブスは、メディナ・セドニア公のもとへ行く。それでも駄目だとわかり、今度はスペインに向かう。そこでも同様の話をもちかけ、粘り強い説得を続けたおかげで、カスティーリャ女王イサベル1世の支援が得られることになった。 これより前の1469年、現在のスペインの地には、カスティーリャ王国(中西部)とアラゴン王国(東部)が興った。1469年、カスティーリャ女王イサベル1世とアラゴン王であるところのフェルナンドが結婚する。これが始となっての1479年に二人は、両国の統治者(「カトリック両王」)として受け入れられ、統一国家としてのスペイン王国が誕生する。1492年、このカトリックを信奉するスペインはアンダルシア地方の街グラナダの攻略に成功する。
 1492年10月、スペイン王の命を受けたコロンブスらの艦隊がカリブ海水域に到着し、そこに未知の島を発見した。その前の8月、かれの船団三隻はポルトガルのパロス港の近くサルテス川の河口から、出航していた。主船としては、サンタ・マリア号といい、ナオ船という大型帆船で100トン位であったろうか。残りの二隻はニーニャ号とピンタ号といい、カラベラ船(15世紀に生まれた三本マストの帆船)で約60トン程度であったという。
 コロンブスらの目に、そこは別世界のように写ったのであろうか、かれらはその未知の島(バハマ諸島、キューバの島々あたりか)に上陸した。その時、コロンブスに従っていたラス・カサス神父は、後に上陸の様子をこう振り返っている。
 「上陸してみると青々とした樹木が見え、水もふんだんで、いろんな種類の果物が実っていた。提督(コロンブス)は、二人の船長をはじめ、上陸した者達、および船隊の記録官である、ロドリゴ・デ・エスコベート、ならびにロドリゴ・サンチェス・デ・セゴビアを呼んで、彼が、いかにしてこの島をその主君である国王ならびに女王のために、並居る者の面前で占有せんとし、また事実、この地において作成された証書に委細記されてるように、必要な宣言を行ってこれを占有したかを立証し、証言するようにとのべた。
 そこへ早速、この島の者達が大勢集まってきた。(中略)彼らは力ずくでよりも、愛情によって解放され、キリスト教徒に帰依する者達だと見て取りましたので、幾人かに、赤いボンネット帽と、首飾りになるガラス玉や、その他たいして値打ちのないものをいくつか与えました。すると彼らは非常に喜び、全くすばらしいほど我々になついてしまったのであります。(中略)彼らは武器を持っていませんし、それがどんな物かも知りません。私が彼らに剣を見せましたところ、刃の方を手に持って、知らないがために手を切ってしまったのであります。
 鉄器は全然持っておらず、その投げ槍は、鉄の部分がない棒のようなもので、尖きに魚の歯などをつけております、(中略)彼らは利巧なよい使用人になるに違いありません。(中略)私は、彼らは簡単にキリスト教徒になると思います。(中略)私は、神の思し召しにかなうなら、この地を出発するときには、言葉を覚えさせるために、六人の者を陛下の下へ連れていこうと考えております。」(ラス・カサス著・林屋永吉訳『コロンブス航海記』岩波文庫)
 1493~1496年、コロンブスの2回目の航海があった。小アンティル諸島、ハイチ島を探検した。1494年には、ローマ教皇アレクサンデル6世の仲介にて、ポルトガルとポルトガルの間でトルデシリャス条約が結ばれる。この条約で、スペイン、ポルトガルが両国の領有権を分割する。具体的には、アフリカ西岸のヴェルデ岬から370レグア(約2000km)西の子午線(西経46度30分)の西をスペイン、東をポルトガルの権利地域に定める。

(続く)

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♦️410『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツとイタリアの降伏

2018-08-17 09:33:53 | Weblog

410『自然と人間の歴史・世界篇』ドイツとイタリアの降伏

 イタリアにおいても、1943年になると敗色が濃厚になっていく。この年、ムッソリーニは失脚し、1945年にはパルチザンに銃殺された。
 1946年、ヴィツトリオ・エマヌエレ3世は息子のウンベルト3世に譲位し、自らはエジプトに亡命した。この戦争へは、参戦前の当初中立を貫くべきだとの意見であったのが、軍事統帥権をムッソリーニに渡した後は、唯々諾々と過ごした。したがって、敗戦・戦後となれば、それまでの戦争への加担を責められる。連合国による裁判にもかけられることになめうことから、兎にも角にも逃れたかったからだろう。
 しかし、政局は、もう王制を望んでいなかった。共和制への転換を望む世論が高まる中で、国民投票が行われ、王制は否決された。国王一家は、仕方なくポルトガルに亡命した。こうして、1861年のイタリア王国の建国から1世紀を経ずして、サヴォイア家は歴史の表舞台から消えていく。

(続く)

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♦️393『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(イタリア、~1945)

2018-08-17 09:05:42 | Weblog

393『自然と人間の歴史・世界篇』ファシズム(イタリア、~1945)

 イタリアは第一次大戦で戦勝国であったにもかかわらず、戦後の社会的混乱に見舞われていた。そんな状況を好機として、1921年、ムッソリーニの指導の下に「全国ファシスト党」を結成する。イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエレ3世は優柔不断で何が進行しているかを理解しておらず、翌1922年のムッソリーニに率いられるファシストたちの「ローマ進軍」にも対処できず、結果として彼らの政権掌握を許してしまう。彼らはその際、王制は存続させ、利用する道を選んだ。
 1926年1月の「「法に代わる命令」に関する法」の第3条で、政府は、非常時や緊急事でなくても、かかる命令を発布できると記す。
 同年4月、労働関係調整法が制定される。それには、一経済部門につき、一つの労働組合だけが認可され、労働組合の二役についても政府により認可が下される。公認組合の賃率協約は、同経済部門のすべての労働者に適用される。軍隊、郵政電信電話、国鉄そして教員は労働組合を結成できないし、ストライキやロックアウトといった資本側にダメージを与える行為は禁止される。
 そして迎えた同年11月、イタリア・ファシスト党以外の政党の解散が命じられる。
さらに1927年4月には、ファシズム大評議会において全30条の労働憲章が採択される。その第9条には、「国家は個人の創意が欠けまたは不充分なとき、または国家の政治的利益がおびやかされるときにのみ、経済的生産に介入する」と記される。
 1928年12月、ファシズム協議会は国家の最高機関となる。国会は、1929年3月選挙以降、全員ファシスト党議員によりなる翼賛議会になるも、それも1939年には廃止されてしまう。こうなると、議会というものはイタリア国からなくなったといっても過言ではなくなった。まさに、ファイストたちのやりたい放題となった訳だ。
 そして迎えた1934年12月には、イタリア領ソマリアランドとの境界付近で紛争が起こる。ムッソリーニはこれを口実にアフリカ進出を企てる。その手始めとして、1935年10月、エチオピア(アビシニア)王国に軍事侵攻する。イタリアのファシストの軍隊は高地を突き進み、翌年5月には同国の併合を宣言する。エチオピア王国は、これに先立つ1935年1月、自国が今にも侵略されようとしていることに対して、国際連盟になんとかしてほしいと提訴を行っていた。
 これに応えるべく、国際連盟は10月のイタリア軍侵攻後直ちにイタリアを侵略国として認定する。連盟規約第16条を初めて適用することで、経済制裁に踏み切る。
 とはいえ、この制裁対象には、石油などの重要物資は含まれなかった。フランスイギリスは、連盟非加盟国にはこの措置が適用されない、したがってアメリカなどからは輸入できることをいい、禁輸は無意味であると主張する。また、この二国は国際連盟の枠外で和平案を立案するという体たらくであった。
 これに力を得たファッショのイタリアは、1939年にはアルバニアを併合するにいたる。イタリア王といえば、エチオピアとアルバニアの両方の帝位と王位を兼ねることになる。こうして国王は単なる飾りに成り下がり、国民世論はむき出しの暴力を背景とした圧政に封じられ、イタリアはヒトラー・ナチスのドイツと同一歩調をとって、第二次世界大戦へと進んでいくのであった。

(続く)

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