62の1『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル、1497~1610)
1497年7月、ポルトガルのバスコ(ヴァスコ)・ダ・ガマ(1460頃~1524)が、インド航路開拓のため出航する。これは、ジョアン2世没後のマヌエル1世(在位は1495~1521年)の厳命であった。つごう4隻を編成しての船団は、カナリア諸島そしてベルデ岬諸島を経て南大西洋を航海し、喜望峰に出る。それからこの峰を回って東に向かい、翌年の3月にはアフリカ大陸の東岸モザンビークに到着する。現地の水先案内人の協力を得て、同年4月にはマリンディに着いた。
1497年、セバスチャン・カボット(1474頃~1557、ヴェネツィアにうまれ、イギリスに帰化した航海者)が、北アメリカ沿岸(ニューファンドランド)を探検する。
1498~1500年、コロンブスが3回目の航海で南アメリカ沿岸を探検する。1502~1504年、コロンブスがスペイン王の命により4回目の航海にして中央アメリカ沿岸の探検にでかける。
1499年5月には、彼の率いる船団がインドのコジコーデ(カリカット、現在のカルカッタ)に到着する。そこで、ヨーロッパ人のアジア進出を恐れるイスラム商人と相まみえた。同月末に帰途につく。だが、暴風のため多くの乗組員を失い、9月に首都リスボンに帰港を果たした。ここに、ポルトガル人は海路で香辛料の原産地に到達するというヨーロッパ人の長年の夢を実現した。この航路の獲得により、ポルトガル、ことに首都リスボンには、未曾有の繁栄がもたらされることになった。
かたやバスコ・ダ・ガマは、王命で1502年に再びインドに赴き、カリカット、コーチンの抵抗勢力を武力でもって従わせ、翌年にポルトガルに帰国する。
探検家のアメリゴ・ヴェスプッチは、1499年スペインの遠征隊に参加して南米北岸を探検航海する。そして、その北にあるのが、未知の大陸であることを発見する。まごうことなき新大陸であるにつき、アメリゴ・ベスプッチの名をとって「アメリカ」と命名される。
1501年には、彼の率いる船団はポルトガルの要請で南米東岸をブラジルから南下、そのほとんどを探検航海する。1511年には、ポルトガルの船団がインドから東に向かう。そして東南アジアのマラッカに到達し、占領するにいたる。ここには海峡があり、交通の要衝を抑えたことになる。
1513年、バルボアが、パナマ地峡を横断し太平洋に至る。1519~1521年、スペインのコルテスがアステカ王国(1428年頃から1521年まで現在のメキシコ中央部に栄えた)を征服する。
そして迎えた1521年、カルロス1世(カール5世)の命によりマゼランが世界周航に出発する。かの王は、16世紀前半のスペイン王にして、神聖ローマ皇帝、ドイツ王などを兼ねヨーロッパ最大の勢力を有していた。その翌年、マゼランの率いる船団は南アメリカ大陸の南端にいたり、マゼラン海峡を発見する。地球が天体であることが実際の航海できっきりした。
1524年、バスコ・ダ・ガマは、ジョアン3世の命を受けてインド副王として赴任したが,病を得て彼の地で死ぬ。1529年になると、東南アジアの領有をめぐってポルトガルとスペインの領有問題が燃え上がり、サラゴサ条約により東経144度30分を通過する子午線によって仕切ることになる。すなわち、その西側はポルトガル、東側に決まる。これにより、香辛料を産するモルッカ諸島がスペイン領になり、そのほかの東南アジアのほとんどはポルトガルが領有することになる。両国の間で、濡れ手に泡の権益を分け合った訳である。
1531~1533年、スペインの意を受けたピサロがインカ帝国(インカ文化)を征服する。1535年、カルチエがセント・ローレンス川を探検する。1543年、ポルトガル人が日本の種子島に到達し、鉄砲を伝える。1545年、スペインがペルーのポトシ銀山を発見する。1553年、ウィロビーによる、チャンセラーの最初の北東航海の試みがあった。
1558年にスペインのカール5世が退位すると、ハプスブルク家はオーストリア系とスペイン系とに分かれる。それに伴い、同家が支配していた領土も分割された。スペインが引き継いだのは、このうちのスペイン本土と海外植民地のほか、ネーデルランドやイタリア各地にあった所領をも含めてのことであった。1576年には、フロビッシャーが、北西航路開拓のためカナダに航海する。
さらに1580年になると、フェリペ2世のスペインがポルトガルを併合する。スペインによるポルトガル支配は、その後60年を経てブラガンサ家がポルトガル王朝を再興するまでへ続く。1602年、オランダ東インド会社が第1回航海を行う。1610年、ハドソンが北西航海に出発し、ハドソン湾からジェームズ湾に入る。
.
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆