□87『岡山の今昔』津山市街中心部

2018-08-05 09:32:01 | Weblog

87『岡山(美作・備前・備中)の今昔』津山市街中心部

 なお、こうして町人町の北側や、掘の北側は、西から東又は南東方向へ、内山下(山下)、田町、椿高下、城代町、御北(北町)と続いていた。ありていにいうと、武家屋敷が蝟集していたのである。これらのうち田町では、森氏除封後の8か月に渡り、幕府代官が駐在して民政に当たったことがある。椿高下については、十六夜山(いざよいやま、現在の津山高校の敷地)があり、小規模ながら古墳のあった場所である。そして城代町、ここは椿高下の西、藺田川に平行して南北に広がっていた。御北、ここも江戸期を通じて侍屋敷があって、1871年(明治3年)になって北町と改称になる。
 おりしも20世紀の終わりの年、1999年(平成11年)に、出雲街道を「飛脚便」で走破する企画があった。それは、「沿線市町村のメッセージを飛脚便で岡山県津山市まで届けようと十日朝、飛脚に扮した「津山走ろう会」」のメンバーらが島根県大社町をスタートした」(山陰中央新報1999年11月11日付け)という。その紙面には、「一行は島根ー鳥取ー岡山県内の街灯沿線二十市町村の首長からのメツセージを受け取りながら十三時間がかりで走破し、十一日朝には津山市に到着する」とある。
 これを企画したのは、津山市城東地区の町内会で組織する「津山城東むかし町実行委員会」(岡本一男委員長)であった。11、12の両日、「出雲街道Now,in 津山」(城東編)を興し、飛脚便はこのイベントの一つとして行われた。添えられている写真によると、当日は絶好の日和であったようで、スタート場面はこう結ばれている。
 「スタートになる大社町役場前で行われた出発式には、津山市のメンバーと大社町関係者約三十人が出席。古川百三郎町長が「出雲阿国誕生の地・大社と、愛人の名護屋山三が亡くなった津山とは、歌舞伎を通して特に深い関係があり、今後、互いの交流一層深めたい」という岡本実行委員長あてのメツセージなどを津山走ろう会の福田史郎会長に託した。
 飛脚は、途中でメッセージを受け取りながら五~十キロずつ交替で松江、米子、美甘町(岡山県)などを走り、十一日午前十時十五分、津山市で開かれているイベント会場に到着する。」
 幸いにし天高く、参加者達は、往年の夢をつかみとれるかは自分次第の心境になれたのではないだろうか。

(続く)

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□86『岡山の今昔』津山市街中心部へ

2018-08-05 09:30:41 | Weblog

86『岡山(美作・備前・備中)の今昔』津山市街中心部へ

 その翁橋を渡って宮脇町に入ると、もう右手には徳守神社が間近に迫っている。このあたりを「城西(じょうさい)地区」と呼ぶ。東の「城東地区」とともに、津山城下町の観光名所に他ならない。わけても、寺社の建物は堅固な造りとなっているのではないか。それに、境内があり、いざとにれば藩兵が駐留することができよう。これらの多くは森藩の津山築城から営営と整備されていった。そうした中でも、森家2代目の藩主森長継が荒れ果てていた社殿を再建整備したという。これらの寺院や神社は、城下の西の軍事的な備えとしての役割をも担っていた、そのことは地勢という点で、疑う余地がない。それだからか、このあたりの寺の庭は門や塀はいうに及ばず、なかなかの頑丈な造りにして、敷地内もやや手広く感じられる。
 もっとも、出雲往来は、他藩に対しては津山の城下町を通さず、かつて隠岐島に遠流の後醍醐天皇が通ったとされる「久米のさら山越え」の道程をとってもらっていたようであるから、それが史実の通りなら、往来の景色はまた違って見えたことだろう。
 ここに徳守神社は、733年(天平5年)の聖武天皇の在位時に創立されたとも伝えられるが、その根拠は示されていない。その時の社地は現在の津山市小田中の地にあったいう。1539年(年)で社殿などを焼失した。森忠政の美作入封の翌年、藩命により1604年(慶長9年)に現在地に移って、津山城下の総鎮守とした。祀っているのは、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)らの5人で、いずれも神話の世界の人物なのではないか。 この徳守神社の年に一度の例祭が、秋祭りとして催されてきた。この祭りは、美作津山藩初代藩主森忠政が1604年(慶長9年)に同宮を再建して間もなく、その肝煎りで始まったらしい。1697年(元禄10年)にはもうかなり大がかりな装いの下、総延長数百メートルにも達する程の大行列を敢行していたのだと伝えられる。
 これに参加する御輿とだんじりは、祭りの前日の宵宮にて、各町内のだんじりが夕方から市内に繰り出す。この慣例から推し量ると、「さあ今年もやりますよ」と関係する町内に触れて回ることになるのではないか。明けての本祭りには、徳守神社での神事の後、だんじりと神輿が大勢の人を乗せたり従えて市内に繰り出し、町内を練り歩くのである。
 その徳守神社の宵宮について、赤穂浪士四十七士の一人である神崎与五郎則休が、1702年(元禄15年)秋の宵に江戸から数日後に行われるであろう、生まれ故郷の祭りを懐かしんで詠(よ)んだ歌が、「海山は中にありとも神垣のへたてぬ影や秋の夜の月」として伝わる。彼は1666年(寛文6年)、森家家臣の神崎又市光則の長男として津山に生まれ、少青年期を過ごしたのち、赤穂の浅野家に仕官したのであったが。
 1702年(元禄15年)が押し詰まってからの吉良家討ち入りでは江戸で、扇子売りの商人「美作屋善兵衛」を名乗り討ち入りの機をうかがっていた、とのことである。第二次大戦後にもなると、この祭りは例年、10月第3週の土日と第4週の土日に大隅神社と連れだって行われる決まりになっていたのが、近年高野神社が加わる。これに伴い、名称も「津山祭り」として、東の大隅神社、総鎮守の徳守神社、西の高野神社の秋祭りの総称されるに至っている。
 西今町の南には、鉄砲町の町並みが広がる。藺田川(いだがわ)を渡ってからの東隣には、南新座の広い町並みが続く。そこから北にある本道に戻っていく。道の右側には宮脇町、続いて坪井町、福渡町とある。
 坪井町というのは、町づくりの初め久米北條郡坪井村付近の人々が移り住んだことから、この名がついた。また福渡町とは、はじめ久米南条郡福渡村(現在の岡山市建部)からの入居者が中心となって出来た町人町である。さらに本道の左側には、上紺屋町、細工町とある。なお、この町の城下町になる前の郷村名としては、田中郷の小田中村であり、町名の由来は徳守神社の宮脇の意であるとのことである。
 そこから少し東に進んで、右手に3丁目と戸川町、左手には鍛冶町と下紺屋町、さらに進んで右側には二丁目、戸川町、新職人町、桶屋町、新魚町、吹屋町とある。それからまた進んで、城の堀の南側を通る街道の右側に木知原町(のちの境町(堺町))、小姓町、船頭町、左側に元魚町、二階町とある。そのまま街道を進んで、京町、河原町と行く。それからさらに東進して片原町(伏見町)、南馬場前、そして材木町とあって、宮川に出る道筋となっていた。

(続く)

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□85『岡山の今昔』津山市街西部(翁橋界隈まで)

2018-08-05 09:25:38 | Weblog

85『岡山(美作・備前・備中)の今昔』津山市街西部(翁橋界隈まで)

 さて、森氏の入封により津山城下町に組み入れられたのは、33町と言われる。こういう街並みが現代に通じているからこそ、津山は城下町であったのだともいえようか。やがて津山の街に入ると、美作国府(津山市総社)、美作国分寺(津山市国分寺)を通ってゆく。出雲街道(旧道、以下同じ)の本道を境に左手に向う。すると、新屋敷に取り付く。西の構えの部分ということだ。

 この道の右手には、安岡町、ついで茅町とある。本道に戻ろう。そのまま進んでいくと、左手の寺社の北隣には西新座がある。本道の右側には西寺町、それから西今町とやって来る。西新座(西、東)は、1688(元禄初年)には戸数30戸くらいで、侍が住んでいた。それが、松平氏になってからの享保年間、農地に戻されたとのこと。                               、
 西寺町西から西今町にかけてはどうだろうか。このあたりの出雲街道の道筋には、寺社が多い。左に佇むのが染寺(西寺町)、本源寺(寺町)など、右には妙法寺(西寺町)、泰安寺(西寺町)などと多く並んでいて、「さすが寺町」といわれるだけのことはある。
 その中から、愛染寺の鐘楼門は通りに面して建つ。一階に仁王像がいて、その二階には黒塗りの鐘楼が載る。堂々ながらも、静かに感じられる。なお、明治に入ってこの寺が群衆で沸き立つことがあった。というのは、1874年(明治9年)「美作血税一揆」で、僧侶の研修施設の教学院(学寮)が北条県当局の建物と勘違いされたという。ここに押し寄せた民衆による打ちこわしの対象となってしまった。
 さらに本道から一筋南に少し下ってゆく。その途中の左右には本行寺、妙勝寺、長安禅寺、福泉寺などが並ぶ。この通りをそのまま下っていく。すると、視界が開いて、吉井川に出る。このあたりの寺は、別の任務を帯びていた。すなわち、境橋(さかいばし)を津山城下に入ろうとする敵を監視していた。

 いったい、武家社会というものは、町の区割りにも体制維持の工夫が読み取れる。社会への窓としては、妙勝寺の第31世、瀬川學進上人の事績が伝わる。彼が、生活に困った人のための一時保護預かりの施設を寺内に「報恩無料宿泊所」として開設したことになっている。
 それからまた左に向かい始める。本道からやや下ったところを平行(西から東へ)に走る通りに出る。西寺町東通りの左手といったあたりか。このあたりには、光厳寺(こうごんじ)、泰安寺(たいあんじ)などが建つ。中でも、真言宗の光厳寺は商家との関わりが伝わる。この寺だが、1614年(慶長19年)、院庄にいた蔵合山口氏(屋号は蔵合家)からの願いで、この地に院庄の清眼寺の住秀照より建てられたという。蔵合家とは、かの井原西鶴の『日本永代蔵』に出てくる。その中に、「蔵合家といえる家は蔵の数九つ持ちて富貴なれば、これまた国のかざりぞかし」といわれた。後には、二階町に移り繁盛をほしいままにした豪商のことである。
 このあたりには、仏教の宗派に限っても、天台から真言密教はいうに及ばず、日蓮、禅の系統、さらに浄土系に至るまで実に多彩である。これらが全体として城下の西の景観をつくっていた。さらにその道の右手には新茅町、鉄砲町と続く。本道に戻って、西今町をさらに東に行く。すると、右手に作州民芸館があり、その先は藺田川(いだがわ)があり、そこには城下町の西の関門、翁橋(おきなばし)が架かっている。

(続く)

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