87『岡山(美作・備前・備中)の今昔』津山市街中心部
なお、こうして町人町の北側や、掘の北側は、西から東又は南東方向へ、内山下(山下)、田町、椿高下、城代町、御北(北町)と続いていた。ありていにいうと、武家屋敷が蝟集していたのである。これらのうち田町では、森氏除封後の8か月に渡り、幕府代官が駐在して民政に当たったことがある。椿高下については、十六夜山(いざよいやま、現在の津山高校の敷地)があり、小規模ながら古墳のあった場所である。そして城代町、ここは椿高下の西、藺田川に平行して南北に広がっていた。御北、ここも江戸期を通じて侍屋敷があって、1871年(明治3年)になって北町と改称になる。
おりしも20世紀の終わりの年、1999年(平成11年)に、出雲街道を「飛脚便」で走破する企画があった。それは、「沿線市町村のメッセージを飛脚便で岡山県津山市まで届けようと十日朝、飛脚に扮した「津山走ろう会」」のメンバーらが島根県大社町をスタートした」(山陰中央新報1999年11月11日付け)という。その紙面には、「一行は島根ー鳥取ー岡山県内の街灯沿線二十市町村の首長からのメツセージを受け取りながら十三時間がかりで走破し、十一日朝には津山市に到着する」とある。
これを企画したのは、津山市城東地区の町内会で組織する「津山城東むかし町実行委員会」(岡本一男委員長)であった。11、12の両日、「出雲街道Now,in 津山」(城東編)を興し、飛脚便はこのイベントの一つとして行われた。添えられている写真によると、当日は絶好の日和であったようで、スタート場面はこう結ばれている。
「スタートになる大社町役場前で行われた出発式には、津山市のメンバーと大社町関係者約三十人が出席。古川百三郎町長が「出雲阿国誕生の地・大社と、愛人の名護屋山三が亡くなった津山とは、歌舞伎を通して特に深い関係があり、今後、互いの交流一層深めたい」という岡本実行委員長あてのメツセージなどを津山走ろう会の福田史郎会長に託した。
飛脚は、途中でメッセージを受け取りながら五~十キロずつ交替で松江、米子、美甘町(岡山県)などを走り、十一日午前十時十五分、津山市で開かれているイベント会場に到着する。」
幸いにし天高く、参加者達は、往年の夢をつかみとれるかは自分次第の心境になれたのではないだろうか。
(続く)
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