♦️292『自然と人間の歴史・世界篇』ヘーゲルとショーペンハウアー

2018-08-09 10:11:25 | Weblog

292『自然と人間の歴史・世界篇』ヘーゲルとショーペンハウアー

 ゲオルグ・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(1770~1831)は、ドイツの哲学者だ。「精神現象学」(180)や「論理学」(1816)、それに「法の哲学」(1820)などをあらわす。その文章は、カントに劣らず難解にて、「根っからの学者」だといってよいだろう。
 これらのうち「精神現象学」と「論理学」では、まずは「定立」(テーゼ)で事象が提起される。次いで「反定立」(アンチテーゼ)でそれと対立のものが提起される。このままでは、話の展開は止まってしまう。そこで「止揚」(しよう、アウフヘーベン)という動詞が使われる。これの成果物は「統一」(ジンテーゼ)と呼ばれるもので、前の二つを包含しながらも、それらより高いレベルの認識となっているという。
 歴史とはなにか。ヘーゲルは、彼の時代にいたるまでの人間の歴史を大きく四つの段階に分けた。それは、幼年期としての東洋、青年期としてのギリシア、壮年期としてのローマ、それに老年期としてのゲルマンだ。これを自由の観点からいうと、東洋では専制君主のみが自由たりえた。ギリシアとローマでは、寡頭制もしくは貴族制、さらに王政の下で幾人かの者が自由である。そしてゲルマン世界においては万人が自由であると。
 加えるに、「法の哲学」では、こう意味づけをしている。
 「世界史はむしろ、もっぱら精神の自由の概念からする理性の諸契機の必然的発展、したがって精神の自己意識と精神の自由との必然的発展であり、普遍的精神の展開であり現実化である。」
 これにおいては、個人と社会、自由と必然との関係に、そのままでは新しい意味を与えるものとはなっていない。それゆえ、ヘーゲルの国家は、どの歴史の段階でも、現状追認の道具でしかなくなろう。その行き着くところは、例えば、こう評される。
 「歴史とは絶対精神の自己展開であるが、絶対精神とはヘーゲルにおいては、実は神にほかならなかった以上、世界史とは神の統治、神の計画の遂行にほかならない。歴史は、まさに神の業(わざ)であり、神の行為として隅から隅まで意味をもっている。理性とは、
神のこの業をまさに神の業として耳を傾け、それを理解することである。」(山崎正一・市川浩編「新・哲学入門」講談社現代新書、1968)
 このようにみてくると、ヘーゲルのいう自由というのは、平板に感じられる。本当の自由というのは、ただの必然性の認識ではなく、内部に必然性をになう、「自由の必然性」とでもいえるものとなってこそ、未来を切り拓く人間の行為たりえるのではないか。

(続く)

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