♦️4『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系外の恒星への旅は可能か

2018-08-12 21:43:12 | Weblog

4『世界と人間の歴史・世界篇』太陽系外の恒星への旅は可能か

 恒星というのは、自ら燃えて輝いている星のことをいう。それでは、太陽のすぐ隣の恒星というのは何であり、どれくらい離れたところにあるのだろうか。
 その名を、一般には、ケンタウルスα(アルファ)星という。これでくくられるのは、「ケンタウルスα(アルファ)A」と「ケンタウルスα(アルファ)B」という二つの恒星から鳴る、つまり連星としてである。この連れだって見える二つの星は、さらに離れたところにあるケンタウルス座プロキシマ星とも連星をなす。そして厳密には、このケンタウルス座プロキシマ星こそが、私たちの太陽系から最も近い恒星なのだ。
 その距離といったら、「たったの4.37光年」とも言われるのだが、光がおよそ4年と4か月かかってはじめて到達できる。光の速さは、ざっと秒速30万キロメートルだから、4.37光年は、約41兆キロメートルということになる。この距離の大きさは、人類にとっては簡単なことではない。
 それというのも、人類がそこに到達するためにロケットを打ち上げたとしよう。用いるロケットの推進力としては、ざっと化学エンジン、イオンエンジン、スイングバイといって引力を逆手にとって利用することでの加速などが話題に上る。しかし、それらのどれもが気の遠くなるような距離なのであって、まともな話として唯一成り立つのは、「けたちがいのエネルギーとしての「レーザー核融合推進」」くらいであるという。
 いったい、核融合というからには、何が必要かというと、それは「ミニ太陽」そのものだということにもなりかねない代物であって、しかもその燃え具合なりを制御することが必要だ。これを「夢物語」と受け取るかどうかは、目下のところ、専門家でも千差万別といったところであろうか。 

(続く)

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♦️2『世界と人間の歴史・世界篇』銀河系

2018-08-12 19:40:47 | Weblog

2『世界と人間の歴史・世界篇』銀河系

 ビッグバンからどのくらいかの時間が過ぎていき、私たちが「銀河」と呼んでいる巨大な渦状の天体が数多く形成されていった。一つひとつの銀河には、1000億単位とも言われる極めて多くの星(恒星、惑星など)が含まれている。その一つひとつの出来方については、今のところ2つの説が出されている。

 まずは円盤仮説だが、そのあたりに漂っていたガスとダスト(塵芥・ちり)を主体とした星間物質(せいかんぶっしつ)が、重力によって回転円盤状に集合していった。これらの物質の広がりには濃淡があった。その濃い部分は重力が大きいため、ますます多くの物質を引きつけて次第に大きくなっていった。互いにばらばらな動きを呈していた物質が、衝突を繰り返しながら反名対方向の力を打ち消し合っていく。

 そのため、回転円盤状の所々にできた球体は緩やかに回転を始める。そして回転円盤状の中心部では、一つの恒星が原子の太陽として輝き始め、周辺部には地球を含む幾つもの惑星ができていった。
 あるいは、それらの星間物質が互いの引力で徐々に集まっての、直径10キロメートル程度の微惑星が出来る。次いでそれらがしだいに多数集合して、同じく原始の太陽系円盤の中で原子の太陽、そして原始の惑星の大きさへと拡大していったのではないか、とも考えられており、こちらを微惑星説という。

 これら両説のいずれにせよ、今日までにわかっているのはあくまで「それらしき」ということであって、大いなる仮説に基づいて全ての事柄が述べられていることに変わりない。この一連の出来事は、約46億年前のことであったろうと推測されている。
 宇宙におけるフィールドとは、空間、時間、そして物質のことである。その大きさはどのくらいであろうか。一般に、この渦巻きをした銀河(galaxy:ギャラクシー)は1億から1兆個もの星から成り立っており、その銀河が多数集まって銀河群・銀河団となり、それがまた多く集まって超銀河団になるというように階層構造が広がっている。その全体が宇宙だと言える。
 そこで、この渦巻き銀河を上から見ると、どうなっているのだろうか。アンドロメダ座の近くに肉眼で見える、「M31」と呼ばれるアンドロメダ銀河を例に挙げたい。すると、渦巻き形を形成している星の大集団を横から見ると凸レンズ状に見える。1924年、アメリカの天文学者エドウィン・ハッブルによって、それまでは私たちの銀河系の一部だと考えられていたのが実は別の銀河であり、それは天の川銀河と隣合わせであることが発見された。
 私たちの銀河系に含まれる星の数は、およそ1000億個と見積もられる。それらの集合は、ディスク(円盤)に見立てることができるだろう。その直径は、約10万光年だと言われる。ここに1光年は1年の間に光が進む距離で、約10兆キロメートルを表す。およそ10京キロメートルある訳だ。ディスクの厚さは約1000光年ある。バルジとは、膨らみや樽の胴部分のことで、銀河系中心の盛り上がりをいう。このバルジを入れたディスクの厚さは1500光年位ある。いずれにしても、大変平べったい形をしている訳だ。その真ん中は実に沢山の星が密集していることから、まるで目玉焼きの黄身のように盛り上がっている。
 その銀河の渦巻きの外延部に近い部分、そこを川底に見立てて、我が身を置いたとしよう。そこから「天の川銀河」(銀河系の別名)を見上げてみる。すると、天の川は夜空をぐるりと一周するようにして繋がっている。が星が集結している部分と、星がまばらになって見える部分とが分かれている。渦巻き銀河の中で星が一番集結しているバルジには、恒星集団が密集していると考えられている。外側まで広がっている円盤構造の部分に対し、こちらは厚さ方向に丸いというよりは、楕円体のような広がりをしている。
 このバルジは、「巨大なブラックホール」で満たされていると考えられる。それは、例えば物理学者の高梨直紘(たかなしなおひろ)氏によって、比較的私のような者にもわかりやすく説明されている。少し長くなるが、引用させていただきたい。
 「赤色巨星になった後の星の運命は、星の重さによって2つに分かれます。太陽の重さの8倍よりも軽い星は、星をつくっていたガスが宇宙空間に放出されていき、惑星状星雲と呼ばれる段階を経て、最終的には星の芯の部分だけが残ります。これが白色矮星(はくしょくわいせい)と呼ばれるものです。白色矮星では新しく核融合反応は起こらないため、基本的にはそのまま少しずつ冷えていき、最終的にはまったく光らない星となると考えられています。
 太陽の8倍を超える重い星の中心部はさらに縮まっていき、星全体はさらに大きく膨らみます。そして、最終的には星の中心核が融けて圧力を失い、星全体が中心に向かって崩れ落ちる重力崩壊と呼ばれる現象を起こします。これが重力崩壊型の超新星爆発です。星をつくっていたガスの多くは宇宙空間に吹き飛ばされ、超新星残骸となります。
 一方、星の中心部には中性子星あるいはブラックホールが形成されます。中性子星も白色矮星と同じく、時間の経過とともにエネルギーを失っていき、最終的には光を放たない天体になると考えられています。ブラックホールも、特に外部からの刺激がない限りは、そのまま大きな変化は起きません。」(高梨直紘「これだけ!宇宙論」、秀和システム、2015)
 なぜそこにブラックホールがあるのかという問いかけに、クラウス教授は次のように言われる。
 「とても忍耐強い天文学者がこの星々のちょうど真ん中あたりをみつけ続け、星々の軌道を観測した。すると、星がある暗い物体のまわりを回っていることがわかったんだ。この物体の質量をきめるのには、きみたちもこれから直ぐ好きになるニュートンの万有引力の法則を用いた。こうしてその物体がまわりに星を引き寄せていて、太陽の百万倍の質量があることがわかったんだ。とても小さく、光を放つこともなく、太陽の百万倍の質量を持つという事実から、われわれはブラックホールだと考えている。・・・・・もちろん、それが見えないことは残念なことだ。もっとさまざまな観測を重ねて、それが本当にブラックホールかだといえるのかを見極めたいと思っている。ブラックホールは密度が高すぎて、光さえ逃れることができない。脱出するには光より早い速度が必要なんだ。」(クラウス教授のアリゾナ大学での、社会人らを相手にした講義・宇宙白熱教室第一回「現代宇宙論」二〇一四年六月二〇日NHK放送)
 そのブラックホールのあるところでは、「中心部を取り囲むように、「事象の地平線」と呼ばれる半径がある。事象の地平線の内側では、ブラックホールから脱出するために必要な速度が光の速度よりも大きくなるため、古典物理学によれば、なにものもそこから逃げ出すことはできない。したがって、事象の地平線よりも内側で放出されれば、光でさえも、ブラックホールの外に出てくることはない」(ローレンス・クラウス著・青木薫訳「宇宙が始まる前には何があったのか」文藝春秋刊)と考えられている。

(続く)

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□220の1『岡山の今昔』岡山人(20世紀、吉野善介)

2018-08-12 09:36:33 | Weblog

220の1『岡山(美作・備前・備中)の今昔』岡山人(20世紀、吉野善介)

 臥牛山(がぎゅうさん)の4つの峰(北野方から大松山、天神の丸、小松山、前山)をも含め、このあたりの山々は、豊富な植生でも知られる。中でも臥牛山の前山は、「十分に散策可能であって、生態観察に適している」(宗田克己「高梁川」日本文教出版、岡山文庫59)とのこと。これを喧伝(けんでん)した人に、吉野善介(よしのぜんすけ、1877~1964)がいる。
 彼の生業(なりわい)は薬種商であった。植物の生態観察に必要な根気と愛着を持ち、1928年(昭和3年)には往年の散策ならぬ探索で培った知見をもって「備中植物誌」を著した。中央の専門家の知遇も得ていたようで、助言や讃をよこしてもらっている。本人の語りは、いかにも植物愛好家であるらしい。
 「此小著は備中国に自生する顕花植物と羊歯植物とを自然分科の下に列記したもので各科に於ける種類の排列は学名の「アルファベット」順に依って居る。備中国は山陽道の中部の稍(やや)東寄りに位する東西約そ九里南北約そ二十里略長方形をした国で、北は中国脊梁山脈を隔てて伯耆国に接し、西は備後国に隣り、南の一方は瀬戸内海に瀬している。
 国内は備中山脈の支脈が縦横に連亘し、其間国の中央を北より南へ貫流する高梁川とこれに注げる数多くの支流とが各処に峡谷を作り、南部に於ては狭い沖積平野を成している。他勢、南より北へ向かって次第に隆まり、国の北端なる阿哲郡の北境には八百「メートル」及至一千「メートル」位な山々が起伏し、其最高点は伯耆国に跨れる花見山で標高一千一百八十八「メートル」と成っている。
 予は郷里、上房郡高梁町(国の略中部に位し、高梁川の東岸に在りて四五百「メートル」内外の峰巒(みね)に囲まれて居る)を中心として多年植物を採集したが何分業余の道楽仕事なので存分の調査も出来ず従って其れも郷里に近い処程詳密な代り遠いだけそれだけ疎略になって居るのを免かれない。今後もっと広く阿哲北境や深山幽谷や南備沿海地方などを捜したならば此目録に漏れた多くの種類が見付かるであろうと思う。予は備中植物の調査取りも直さず日本「フロラ」の開明の為めに熱心なる斯道研究家の出で、予の蒐集の上に幾多の増補刪訂を加えられんことを切望する。」
 これに収録する植物は1370種に及ぶ。吉野本人の発見した新種も40種を超えているようで、インターネット配信でこれを探索することができるのは幸いだ。彼が歩き回っていた備中の山々の群像とともに、かかる山への憧れを故郷の、後の世代に伝えないではおかないであろう。彼自身は、これに没頭することで、自然から人生の、大いなる楽しみをもらったのではないだろうか。
 世に岡山民謡、それでいて「中国地方の子守歌」と流布されているものは数々あっても、今でも歌い継がれている、有名なものは一つになっている。その歌詞には、こうである。
 「(一)ねんねこ/しゃっしゃりませ/寝た子の/かわいさ/起きて泣く子の/ねんころろ/つらにくさ/ねんころろん ねんころろん、(二)ねんねこ/しゃっしゃりませ/
きょうは/二十五日さ/あすは/この子の/ねんころろ/宮詣り/ねんころろん/ねんころろん、(三)宮へ/詣った時/なんと言うて/拝むさ/一生/この子の/ねんころろん/まめなように/ねんころろん/ねんころろん」
 原曲は「ねんねん守の歌」といって、矢掛から井原にかけての旧山陽道周辺にて、少なくとも江戸時代から土地の人々によって歌い継がれていた。この子守唄を改めて世に出すのに貢献したのは、二人いる。着目したのは上野耐之(うえのたいし、1901~2001)であって、後月郡高屋村(現在の井原市高屋町)に生まれた。声楽家になることを目指し上京していた。1928年(昭和3年)、恩師である作曲家に山田耕作に、幼い頃母よりずっと聞かされていた子守唄を披露したらしい。おそらくは、私の故郷にこんな子守唄がある、今や消えかかっています、ということだったのでないか。

 これを聞いた山田は大層喜んで、その場で五線紙に採譜し、とてもいいメロディーだから伴奏をつけて、歌曲にしてみようということになった。同年の4月には、編曲が成って「中国地方の子守唄」として発表した。広く歌われるようになったのは、やはり、この山田の力によるとろが大きいのだろう。この子守唄は、後にテノール歌手となった上野がクリスチャンであったため賛美歌風になっていることから、現在も地元の「元歌保存会」によって歌い継がれているという。

(続く)

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