♦️123『自然と人間の歴史・世界篇』南北アメリカ(マヤ文明の興隆)

2018-08-21 22:03:18 | Weblog

123『自然と人間の歴史・世界篇』南北アメリカ(マヤ文明の興隆)

 最初に、マヤ文明の「マヤ(Maya)」とは、「民俗学的には特定民族集団を指示する概念ではなく、マクロ・チブチャ語族に属する約30の言語のいずれかを用いるインディオを総称する便宜的用語」(大貫良夫外監修「ラテン・アメリカを知る事典」平凡社、2004年新訂増補版)だと説明される。

 その地理的領域は、メキシコ南東部のユカタン半島から中央アメリカ、現在でいうとグアテマラ・ホンジュラスにかけてであった。現在は深いジャングルに覆われている地域に、文明の地中心が設けられていた。その時は、300年頃に始まり、900年頃の最盛期(歴史家は、ここまでを「古典期」といっているらしい)を経て、1200年頃には衰退していったという。
 マヤの国家の特徴としては、何であっただろうか。その一番目としては、巨大なピラミッドや神殿を中心に都市を形成していたことである。つまり、神権政治が確立されていた。占いも宗教的な生贄の儀式が盛んに行われた。当時、人びとの生活のかなり部分は、神の下にひれ伏すものであったという。二つは、大いなる文化体系を有していたこと。その文化領域は、暦法、数学そして絵文字から石彫建築まで及んでいたという。文字の発見は、いつ頃のことであったのだろうか。
 彼らがつくったのであろう、マヤ文字とは、文字種が4万種にもなるとのこと。ただし、使用階層は限られていたのかもしれない。その解読はかなり進んでいる。数の数え方は、20進法であったという。「0」(ゼロ)の概念も知っていたらしい。天体観測を行っていた。一説には、火星や金星の軌道も計算していた。かのチチェン・イツァのピラミッド型神殿は、世界遺産に認定されている。王の墓からは、コパル樹脂香やヒスイなどを用いた装飾品が数多く出土しているとのこと。それらの多くは、ユカタン半島の密林地帯で生産されていた。それらの集大成が文化として、だんだんにつくられていった経緯については、自然の成り行きのようなものであったのだろうか、それとも学問の進歩とタイ・アップしてのことであったのだろうか、今も多くの学者が研究を進める。
 それでは、当時の人びとの生活基盤なり生活様式はどんなであったのだろうか。文字で書かれた記録が沢山残っているわけではない。が、その基本は、トウモロコシの焼き畑農耕であったことが現代に伝わる。何しろジャングルと高地でのことであるからして、作物の栽培はたいへんであったらしい。現代になっての研究で、牛や馬などの大型家畜はおらず、金属製の農具の使用もなく、荷物や人の運搬手段としての車輪も実用化されていなかったとみられる。
 それでも、衛星写真で灌漑用水路の存在も確認され、潅漑農業も行われていたことが知られるようになった。そこで想像をたくましくすると、雨が降るとその水を斜面を流れるにまかせてはなるまい。一段、また一段と畑を下るうちに水を溜める工夫がなされてのではないかと伝わる。それへの技術があったればこそ、文明が栄えた。それから、トウモロコシの食べ方だが、焼いて良し、茹でて良しであったのではないか。

(続く)

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○143『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の一揆(正長の徳政一揆)

2018-08-21 20:48:59 | Weblog

143『自然と人間の歴史・日本篇』室町時代の一揆(正長の徳政一揆)

 ところで、この室町期の日本に頻発したものに一揆があり、当時の代表的な社会風潮に「下克上」(げこくじょう)があった。まず一揆であるが、多様な形態が見られた。その中から幾つかを紹介したい。まず1428年(正長元年)8月に一揆が勃発する。これを「正長(しょうちょう)の徳政一揆」(「正長の土一揆」とも呼ばれる)という。この一揆の模様は、『大乗院日記目録』という記録に、こう伝わる。
 「正長元年九月○日条
一、天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋、土倉、寺院等を破却せしめ、雑 物等恣にこれを取り、借銭等悉くこれを破る。管領これを成敗す。凡そ亡国 の基、これに過ぐべからず。日本開白以来、土民蜂起是れ初めなり」(尋尊(じんそん)『大乗院日記目録』)
 この一揆の中心地は、大和国添上郡柳生郷(やぎゅうのさと)で、現在の奈良市柳生である。その場所に碑がしつらえてあって、奈良市指定史跡・「正長元年(しょうちょうがんねん)、「柳生(やぎゅう)徳政碑(とくせいひ)」という。これには、奈良市による説明書きが添えられていて、こうある。
 「昭和五十八年(1983年)五月十九日指定
 元応元年(1319)十一月の銘をもつ「ほうそう地蔵」の向かって右下、長方形の枠取りの中に「正長元年ヨリ、サキ者カンへ四カン、カウニヲヰメアル、ヘカラズ」と刻む。
 大正十四年に地元柳生町の研究者杉田定一氏が正長元年(1428)の徳政を祈念する碑文とし、「正長元年より先は神戸四箇郷(かんべしかごう)(春日社領の大柳生・柳生・阪原・邑地(おうじ))に負目あるべからず」とその文意が現在解釈されている。
 石刻の時期については諸説あるが、正長徳政一揆によって行われた負債の取り消し(徳政)について民衆が刻み残した資料としてその価値は高い。奈良市教育委員会」
  この一揆では、近江・京を股にかけた近江坂本(おうみさかもと)の馬借(ばしゃく)、大和・河内(かわち)を往復した生駒(いこま)の馬借、大和・山城(やましろ)の境で活動した木津の馬借や武家の元家臣などが参加していた。ここに馬借とあるのは、当時の輸送(運送)・販売に携わっていた人々であった。「石刻の時期については諸説ある」とあるのは、馬借蜂起の初期に刻まれたというが多数説のようだが、決め手は見つかっていない。
 つまり彼らは一揆の部隊の一角にして、これが惣(そう、農民の自治組織)を構成していた農民たちに加わり、一揆の一団を成していたと考えられる。一揆勢は、「徳政だ」と叫びながら、酒屋や土倉、寺院などを襲って、質入れしていた物品などを略奪の上、借金証文を破り捨てて回った。管領(かんれい)職の畠山満家が鎮圧に成功したため、彼らが要求した徳政令は出なかったものの、当時の支配層に大きな衝撃を与えた。

(続く)

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