123『自然と人間の歴史・世界篇』南北アメリカ(マヤ文明の興隆)
最初に、マヤ文明の「マヤ(Maya)」とは、「民俗学的には特定民族集団を指示する概念ではなく、マクロ・チブチャ語族に属する約30の言語のいずれかを用いるインディオを総称する便宜的用語」(大貫良夫外監修「ラテン・アメリカを知る事典」平凡社、2004年新訂増補版)だと説明される。
その地理的領域は、メキシコ南東部のユカタン半島から中央アメリカ、現在でいうとグアテマラ・ホンジュラスにかけてであった。現在は深いジャングルに覆われている地域に、文明の地中心が設けられていた。その時は、300年頃に始まり、900年頃の最盛期(歴史家は、ここまでを「古典期」といっているらしい)を経て、1200年頃には衰退していったという。
マヤの国家の特徴としては、何であっただろうか。その一番目としては、巨大なピラミッドや神殿を中心に都市を形成していたことである。つまり、神権政治が確立されていた。占いも宗教的な生贄の儀式が盛んに行われた。当時、人びとの生活のかなり部分は、神の下にひれ伏すものであったという。二つは、大いなる文化体系を有していたこと。その文化領域は、暦法、数学そして絵文字から石彫建築まで及んでいたという。文字の発見は、いつ頃のことであったのだろうか。
彼らがつくったのであろう、マヤ文字とは、文字種が4万種にもなるとのこと。ただし、使用階層は限られていたのかもしれない。その解読はかなり進んでいる。数の数え方は、20進法であったという。「0」(ゼロ)の概念も知っていたらしい。天体観測を行っていた。一説には、火星や金星の軌道も計算していた。かのチチェン・イツァのピラミッド型神殿は、世界遺産に認定されている。王の墓からは、コパル樹脂香やヒスイなどを用いた装飾品が数多く出土しているとのこと。それらの多くは、ユカタン半島の密林地帯で生産されていた。それらの集大成が文化として、だんだんにつくられていった経緯については、自然の成り行きのようなものであったのだろうか、それとも学問の進歩とタイ・アップしてのことであったのだろうか、今も多くの学者が研究を進める。
それでは、当時の人びとの生活基盤なり生活様式はどんなであったのだろうか。文字で書かれた記録が沢山残っているわけではない。が、その基本は、トウモロコシの焼き畑農耕であったことが現代に伝わる。何しろジャングルと高地でのことであるからして、作物の栽培はたいへんであったらしい。現代になっての研究で、牛や馬などの大型家畜はおらず、金属製の農具の使用もなく、荷物や人の運搬手段としての車輪も実用化されていなかったとみられる。
それでも、衛星写真で灌漑用水路の存在も確認され、潅漑農業も行われていたことが知られるようになった。そこで想像をたくましくすると、雨が降るとその水を斜面を流れるにまかせてはなるまい。一段、また一段と畑を下るうちに水を溜める工夫がなされてのではないかと伝わる。それへの技術があったればこそ、文明が栄えた。それから、トウモロコシの食べ方だが、焼いて良し、茹でて良しであったのではないか。
(続く)
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