♦️161『自然と人間の歴史・世界篇』明の外交政策(艦隊の派遣、7回目とその後)

2018-08-14 22:39:49 | Weblog

161『自然と人間の歴史・世界篇』明の外交政策(艦隊の派遣、7回目とその後)

 1431年の初め頃、明の宣宗皇帝・朱瞻基が祖父の明の成祖の事業を受け継ぎ、再度鄭和に航海の命令を下した。7回目の航海であった。この海は3年余りも続き、鄭和の船団は20近くの国を歴訪した。毎回、兵士、医者、調理人、通訳、占星術師、商人、聖人が随行した。1405~1433年の28年間、つごう7回の航海で当時の数十の国に上陸し、交流を果たした意義は大きい。
 ところが、そんな明朝の大国家事業だったにもかかわらず、鄭和の大航海が終わってしばらくすると、大航海によって蓄積されたであろう海図や国際情勢に関する資料などのほとんどが行方知れずになってしまったというから、驚きだ。それだけでなく、明の朝廷は1436年頃からは造船や海上貿易に対して消極的になった。1500年には2本マスト以上の船を作ることを禁じ、さらに1525年には海外渡航できる外洋船を取り壊すにいたる。
 なぜそんなことになったのかは、不明である。一説には、鄭和が「色目人」(しきもくじん)で「宦官」(かんがん)だったことが、漢人の反感を買ったと推測する。ここに色目人とは、ペルシア・トルコ系のイスラム教徒の中国人を指していた。明の一つ前の王朝である元(モンゴル帝国)の時代、特権階級だったモンゴル人に次いで高位に序せられていた。そのため、漢人などは、その下の階級に押し込まれていた。また、宦官との関わりについては、例えばこういわれる。
 「これは宦官派とその敵対派の抗争であったが、この種の政治的争いはどこの国でもよくあるものだ。船団派遣の政策を推進していたのは宦官派だったので、敵対派が権力を握ると船団の派遣を取りやめたのである。やがて造船所は解体され、外洋航海も禁じられた。」(ジャレド・ダイヤモンド著、倉骨彰訳「銃・病原菌・鉄」草思社、2000)
 推測するに、それらに劣らず、経済的な理由からくるものも相当に大きかったのではないだろうか。特段の交易利益のない大航海であったればこそ、永楽帝が死ぬと財政負担の大きいことへの反発もあったのではないだろうか。

(続く)

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♦️160『自然と人間の歴史・世界篇』明の外交政策(艦隊の派遣、1~6回目)

2018-08-14 22:38:26 | Weblog

160『自然と人間の歴史・世界篇』明の外交政策(艦隊の派遣、1~6回目)

 元は100年程中国の地の治世にあたった王朝だが、最初の頃はチンギス・ハンがユーラシアを征服して以来、東ヨーロッパの一部から中東、さらに東南アジアに跨る大帝国の中心となっていた、その頃の武力の大方を受け継いでいた筈だ。元の地の「中原」は当時から交通の要衝の地であり、陸上そして海上の貿易を通じて富をほしいままにしていた。だが、元朝はフビライの後から尚更国内運営をおろそかにしたため、治世の後半からは反乱が度々起こる。
 ついには、反乱を率いていた農民出身の朱元璋(洪武帝)を初代皇帝とする明王朝に取って代わられた。3代目の皇帝となった永楽帝は、大いに野望のある人物であり、貿易と外交を重視する政策に代わった。その永楽帝は、甥に当たる先代の皇帝を内乱で倒して皇位についた。内乱に功のあった宮廷内の宦官たちの中には、鄭和(ていわ、中国読みでヂョンハー、zheng4he2、1371?~1434?)がいた。
 1405年、永楽帝からの命令を受けた、鄭和をはじめとする大船団が、江蘇省太倉の劉家港から出航する。1407年秋、ジャワなどの朝貢使節を伴い、貿易取引で入手した数十隻分もある諸外国の貴重な品々を持ち帰り、初航海を終えた。その年の12月には、鄭和は2回目の航海に出る。航海ルートは初回とほぼ同じで、2年の歳月を費やした。
 1409年夏、鄭和は3回目に船団を率いて国外へ向う。この航海は、東インド洋に行く。マレーシアのマラッカに倉庫をつくり、海上貿易の中継地とした。1412年11月、明の成祖が4回目の航海の命令を下す。船団はさらに西へ向い、東アフリカ沿岸部にまで進出する。航海に要した期間はかなり長く、鄭和は1415年に帰国した。分遣船団が帰着したのはその1年後であった。
 1417年5月、鄭和の船団は5回目の遠洋航海に出る。この時の航海の主な任務は、帰国の途につく19カ国の使節を護送することであった。鄭和の船団は、東アフリカ海岸の最南端に到達した。1421年7月、鄭和の船団は6回目の遠洋航海に出る。その旅で、帰国の途につく16カ国の使節を護送した。鄭和の船団は東アフリカ海岸のケニアのモンパサ港、ソマリア、タンザニアなどに行く。
 イギリスの歴史学者ガビン・メンジース(Gavin Menzies、1937~)の航海記録を元にしコンピュータで航路を再現したという説によると、鄭和の指揮した1421年3月から1423年10月にかけての6回目の航海では、艦隊の一部がケープタウンを周って大西洋に進出し、カリブ海沿岸から、さらにカリフォルニア沖などにまで達していることが分かったいう。
 もしこれが事実であるなら、コロンブスが新大陸を「発見する」約100年も前にアメリカ大陸近くまで到達したことになるではないか。とはいえ、これには根拠となる史料が薄弱もしくは類推が過ぎるなど、批判も多い。ともあれ、この時の旅では、明の成祖皇帝・朱棣を代表して絹織物、磁器、鉄器などを贈り、1423年に帰港した。

(続く)

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♦️50『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(インダス文明)

2018-08-14 21:17:29 | Weblog

50『自然と人間の歴史・世界篇』世界文明の曙(インダス文明)

 現在のバキスタンに当たるインダス川流域においては、紀元前7000年頃、農耕と牧畜の双方が始まった。冬作物としての麦と、夏作物としてのナツメを栽培した。インダス川の氾濫をうまく使ったのであろう。家畜として牛のほか、羊や山羊も飼育していた。牛は、荷を運んだり、田畑で鋤を引いたことであろう。
 紀元前4500年頃、メヘルガルなどの土地・バローチスターン丘陵麓において人々の集団での生活が始まっていた。土器や土偶が発見されている。これを「バローチスターン農耕文化」と呼ぶ。紀元前3000年頃になると、初期のハラッパー文化が栄える。そこでは、インダス文字の萌芽が見られる。解読はまだのようだが、トラヴィダ系の言語と推測されている。また、動物の角(つの)への信仰があったらしい。
 そして紀元前3000年頃、インダス文明が成立の時を迎える。モヘンジョ・ダロ、ハラッパー、カーリー・バンガン、ドーラビーラーなどに都市国家が栄える。インダス川流域(市流域を含む)と、これと平行して走るガッガル・ハークラー○河床を中心に、インダスが流れ込むアラビア海沿岸地域を加えた、かなり広範な地域(東西1600キロメートル、南北1400キロメートル)に遺跡が多数、散在している。
 1922年、R・D・バネルジーらによって、モヘンジョ・ダロの本格的発掘が着手される。ストゥーパの下から、動物と文字を刻んだ印章が出土した。約600キロメートル離れたハラッパーで発見されたものと似ていた。こうして発掘がなされていくにつれ、インダス文明の最盛期は、およそ紀元前2600~前1800年頃であったことが徐々に明らかになっていく。これらの遺跡のいずれもが、高度な計画を以て建設されていた。今日の都市のインフラストラクチャにも通じる。中でも水の利用が、他の古代文明にに比べ巧みであったようだ。モヘンジョ・ダロやドーラビーラーは、前者がインダス川下流域、後者がアラビア海沿岸近くのカッチ湿原というように、水が豊富にあったことが幸いした。ハラッパーの遺跡では、焼成レンガのふたがしてある排水溝が見つかっている。
 この二つの遺跡では、大規模な沐浴場が営まれた。水の供給ということでは、インダスの流れは古代から人々の心の拠り所であったのだろう。水は神聖なものとみなされていたらしい。その場が、儀礼のみで使われていたのなら、利用できる人は限られていたことになる。モヘンジョ・ダロでは、角のある人物のミニチュア・マスクも出土していることから、角への信仰は発展していた。モヘンジョ・ダロではまた、文字や印章の使用のあったことが認められる。
 これらの都市国家の活動領域はどのようであったのか、そしてどんな変化があったのだろうか。刮目すべきは、湾岸との交易が活発化していったことだ。地図を開くと、地勢もそんな可能性を与えている。アラビア海を西に伝っていくと、古代の中東・アラブ地域へと至るのだ。また東へ進めば、やがてインド洋へと手で行く。多くの隊商は、メソポタミアとの間を往復した。中継地点となりうる地形なのだ。かのメソポタミアの粘土板に「メルッハ(インダス文明)」の記述があることで、中東とも交易があったことが充分に窺える。メソポタミアからは、織物を持ち帰っていた。
 そのインダスの文明も、紀元前2000~1800年頃から衰退し始める。その原因については、一説には、「おそらく気候の変化による水面上昇と、それに伴う治水不備のためだ」(ジャレド・ダイヤモンド著、にれい浩一訳「文明崩壊・下」草思社、2005)ともいわれるのだが、その決め手となる史料は定かではないようだ。
 これまでに出土しているインダスの美術品のうちには、「男性トルソ」(ハラッパー)や「踊り子像」(モヘンジョ・ダロ)のような、ギリシャ彫刻を先取りするかのような写実性にあふれるものも見受けられる。人々の遊びの範疇では、サイコロやゲーム盤、動物の仮面などの玩具が見つかっており、単なる儀礼用とは考えられない。

(続く)

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♦️785『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ハンガリーの1970~1989)

2018-08-14 19:08:06 | Weblog

785『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ハンガリーの1970~1989)

 ハンガリーでは、1989年1月11日、政党結成をの自由を認める法律が成立した。
6月16日には、1956年のハンガリー動乱で処罰された人々の国葬が行われた。7月22日、指導政党以外の、1名の野党議員の誕生があった。9月18日、指導政党として国政を牛耳ってきた社会主義労働者党(共産党)の第14回臨時大会が開催され、社会党に党名を変更する。
 10月20~22日、ユヨフ・アンタルが民主フォーラムの議長に選出される。10月23日、国名が「ハンガリー人民共和国」から「ハンガリー共和国」へと変更される。11月26日、国民投票が実施される。その結果、民主的な選挙を実施した後、その議会が大統領を選ぶという案が採用される。そして迎えた12月21日、1990年3月に議会を解散し、多党制による選挙を実施するとの議会決議が行われた。

(続く)

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♦️787『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ルーマニアの1970~1989)

2018-08-14 19:06:25 | Weblog

787『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ルーマニアの1970~1989)

 ルーマニアでは、民主主義的改革に傾かない指導政党が、自由を叫ぶ民衆に敵対する動きになっていく。1989年12月17日には、ティミショアラにおいて、軍隊が群集に発砲する。約100人の死者が出たという。
 12月21日、ブカレストの集会でチャウシェスク大統領が立ち往生の有様となる。人々は、口々に彼の退陣を求めた。翌22日、大統領夫妻が共産党本部屋上よりヘリコプターで脱出すると、群集が怒る。12月25日、同大統領夫妻が逮捕される。ある種の「民衆法廷」にて、即決裁判で2人に死刑が宣告され、即執行される。
 その後は、マルクス・レーニン主義の政党の解体へと、なだれを打って進んでいった。

(続く)


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♦️783『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1989、経済面)

2018-08-14 13:03:00 | Weblog

783『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1989、経済面)

 新政権により、いわゆる「市場経済」が幅広く導入されていく。既に、戒厳令直後の1982年1月からの経済改革で、1988年からは中央統制を根本的に改め、市場原理へ全面移行(第二段階)する方針が出される。具体的には、経済運営や行政権限の分権化、地方自治体や企業への自主権の付与拡大が狙いだった。
 対外面では、1988年6月、ECとコメコンとが共同宣言に調印した。1989年1月には、私企業を国営木々洋と同等に扱うための「経済活動法」と、外国資本の100%出資を認める「外国投資法」を施行した。
 同年8月1日からは、食糧品は一部を除き政府の補助金をやめ、原則的に自由価格制となった。こうして食糧品価格の国家統制が撤廃されたことで、その平均価格は500%も上昇したという。
 これを境に、ポーランド企業は国際的な競争の波に晒されることになっていく。物価上昇は年率1000%にも達する勢いだった。ここに至り、グダンスクの労働者を中心に労働者の不満は高まり、また国民各層の生活不安も増して、政府に対する批判がますますま高まる。
 1989年10月、マゾビエツキ政権は新たな経済計画を発表し、その中で国営企業の民営化と、税制改革を打ち出す。また、対外面では前年のコメコンのEUとの協力決定に基づき、1989年にポーランドはECとの間で経済協力関係を構築していく。この路線を歩くことで、西側先進諸国に対し総額100億ドルの援助を求める。

(続く)

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♦️782『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1989、政治面)

2018-08-14 13:01:22 | Weblog

782『自然と人間の歴史・世界篇』東欧社会主義の崩壊と市場経済化(ポーランドの社会主義の1989、政治面)

 1989年1月18日の統一労働者党の中央委員会総会に於いて、自主管理労組「連帯」を再び合法化に道を開く労働組合の「複数主義」に関する決議を採択した。2月6日には政労使による円卓会議が開催された。これに参加したのは、政府、統一労働者党、官製労働組合のOPZZ(以上は体制側)、カトリック教会、「連帯」労働組合(以上は反体制側)であった。
 それから2ヶ月に及ぶ交渉を行ってから、4月5日には合意的文書に署名した。その主な内容は、①複数政党制の準自由な国会選挙の実施、②国会は二院制とし、最高立法機関は下院。下院に対し拒否権をもつ上院の創設、③大統領制の導入であった。ほかに、「連帯」労働組合の再合法化と経済改革が約束された。1989年4月17日には、「連帯」が正式に復権を果たした。
 1989年6月4日と18日、二院制の国民議会創設に伴う初めての総選挙が実施された。この1989年の選挙から、ポーランドは複数政党制による民主主義国家となった。ポーランド統一労働者党の一党支配終焉後の大改革により、今日では誰もが政党を立ち上げることができるようになる。立法府である議会は両院制で、下院(セイム)と上院(セナト)から成り立つことになり、下院議員は460名、上院議員は100名で任期は4年となっており、普通選挙・平等選挙・直接選挙・比例代表制・秘 密投票の原則によって選出される。
 この選挙での党派別の結果は次の通りであった。上院(定数100)は、市民議員クラブが99、無所属が1。下院(定数460)は、旧統一労働者党が173、統一農民党が76、民主党27、カトリック諸派23、市民議員クラブが161を獲得した。政権側は上院で惨敗した。
 初代の大統領には、1989年7月、上下両院合同会議においてウォイチェフ・ヤルゼルスキが選出された。彼の下で、1989年9月12日にはタデウシ・マゾビエツキを首相とする内閣が発足した。
 8月24日、「連帯」のタデウシ・マゾヴィエツキが下院で首相に任命された。9月12日には、4名の統一労働者党員を含むとはいえ、マルクス・レーニン主義を標榜しない政権が発足する。9月29日、一党制の暴力装置として活動してきたZOMO警察機動隊が解散された。1989年11月には、ウォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領が失脚する。
 そして迎えた1989年12月30日、国会は、共産政権たる党の指導的役割を規定した憲法の条文の削除と、国名を「人民共和国」から「共和国」に変更する憲法改正案を可決した。
 それと前後して、議会勢力としては、旧統一労働者党はポーランド共和国社会民民主主義(1990年1月に統一労働者党が名称変更しました。)と社会民主連合とに分裂し、それまで事実上「体制翼賛政党」であった統一農民党(1987年12月)、民主党(1988年10月)、カトリック諸派は独自色を強める一方、「連帯」を母胎とする市民クラブが院内会派として登場したわけだ。これにより、社会主義圏では初めての非共産主義勢力が中心となった政権が生まれた訳だが、その前途は多難と目された。

(続く)

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♦️3『世界と人間の歴史・世界篇』銀河系外の別の銀河そして銀河団

2018-08-14 08:22:53 | Weblog

3『世界と人間の歴史・世界篇』銀河系外の別の銀河そして銀河団

 さて、私たちの住んでいる銀河の外側にある別の銀河ということでは、いろいろあろう。中でも、肉眼で垣間見ることのできる銀河に、アンドロメダ銀河(M31銀河)がある。この銀河の特徴として、私たちの天の川銀河系と同じような渦巻き状をしていることがある。
 もう一つの特徴というか、一般人にとっても何かしらの注意をひくこととして、実はアンドロメダ星雲は銀河系に近づきつつあると説明されている。例えば、物理学者の谷口義明氏の説明に、こうある。


 「ここでハッブルの法則に単位をつけて表すと次のようになる。
v(km/s)=HD(Mpc)
 したがって、ハッブル定数Hの単位はkm/s/Mpcとなる。
 ハッブル定数の値は、H=70km/s/Mpcである。
 ハッブル定数の値は、宇宙の膨張率そのものなので、この値は次のことを意味する。「宇宙の膨張率はMpc当たり70km/sである。」
 ここで銀河系とアンドロメダ銀河の関係を見てみよう。両者の距離は、250万光年なので、宇宙膨張の影響は(70km/s)×(250/326)=54km/sの相対速度を持つはずである。もちろん、プラスの値だ。


 しかし、アンドロメダ銀河の視線速度を測定すると、マイナス300km/sなのだ。つまり、遠ざかるのではなく、近づいてきているのだ。それは、両者の重力の影響が宇宙膨張の影響に勝っているため、両者は近づいてきているのである。」(谷口義明「天の川が消える日」日本評論社、2018)


 なお、ここに「pc」(パーセク)というのは、三角測量を応用した距離の単位で、天文学での距離を測る場合に用いる。1パーセクpcは、3.26光年。また、Mは10の6乗のことで、百万倍に当たる。
 これにあるように、アンドロメダ銀河は、私たちの銀河系から約250万光年の彼方にある。それは、銀河系の約2倍の大きさで、秒速300キロメートルの速さで銀河系に近づいている。このままいくと、およそ50億年後には銀河系の方がアンドロメダ星雲の中に吸収され、両者は合併するのではないか。
 ところが、物理学者が予言する「そのとき」はかなり違うのだという。同教授の講義では、こういう。

 「でも、もし君たちが生きていたとしても、その衝突には気づかないだろう。銀河はほとんど空っぽの空間だから、ぶつかっても星々はお互いの間をすり抜ける。ほとんどの星はぶつかることのないまま二つの銀河は合体して、渦巻き銀河ではなくなり、倍の規模の楕円形の銀河を形成する。でも、もしきみがその中の星の一つにいたとしても、数十億年もかかる合体のプロセスに気づくことはないだろう。」(クラウス教授の講義・宇宙白熱教室第一回「現代宇宙論」二〇一四年六月二〇日NHK放送より)


  かえすがえすも、人類には、未来へ向かって某かの予測を行うという能力があろう。その能力を拠り所に、今ではまだ全体の幾分さえもが見えていない、遠い未来を創造してみることが出来るのだ。

(続く)

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