161『自然と人間の歴史・世界篇』明の外交政策(艦隊の派遣、7回目とその後)
1431年の初め頃、明の宣宗皇帝・朱瞻基が祖父の明の成祖の事業を受け継ぎ、再度鄭和に航海の命令を下した。7回目の航海であった。この海は3年余りも続き、鄭和の船団は20近くの国を歴訪した。毎回、兵士、医者、調理人、通訳、占星術師、商人、聖人が随行した。1405~1433年の28年間、つごう7回の航海で当時の数十の国に上陸し、交流を果たした意義は大きい。
ところが、そんな明朝の大国家事業だったにもかかわらず、鄭和の大航海が終わってしばらくすると、大航海によって蓄積されたであろう海図や国際情勢に関する資料などのほとんどが行方知れずになってしまったというから、驚きだ。それだけでなく、明の朝廷は1436年頃からは造船や海上貿易に対して消極的になった。1500年には2本マスト以上の船を作ることを禁じ、さらに1525年には海外渡航できる外洋船を取り壊すにいたる。
なぜそんなことになったのかは、不明である。一説には、鄭和が「色目人」(しきもくじん)で「宦官」(かんがん)だったことが、漢人の反感を買ったと推測する。ここに色目人とは、ペルシア・トルコ系のイスラム教徒の中国人を指していた。明の一つ前の王朝である元(モンゴル帝国)の時代、特権階級だったモンゴル人に次いで高位に序せられていた。そのため、漢人などは、その下の階級に押し込まれていた。また、宦官との関わりについては、例えばこういわれる。
「これは宦官派とその敵対派の抗争であったが、この種の政治的争いはどこの国でもよくあるものだ。船団派遣の政策を推進していたのは宦官派だったので、敵対派が権力を握ると船団の派遣を取りやめたのである。やがて造船所は解体され、外洋航海も禁じられた。」(ジャレド・ダイヤモンド著、倉骨彰訳「銃・病原菌・鉄」草思社、2000)
推測するに、それらに劣らず、経済的な理由からくるものも相当に大きかったのではないだろうか。特段の交易利益のない大航海であったればこそ、永楽帝が死ぬと財政負担の大きいことへの反発もあったのではないだろうか。
(続く)
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