□137『岡山の今昔』笠岡へ

2018-08-18 21:22:29 | Weblog

 137『岡山(美作・備前・備中)の今昔』笠岡へ

 さらに寄島の西隣は、もう笠岡市である。これを主観であらわすなら、そこまではすぐ間近なのに違いない。この笠岡地区は、倉敷のさらに西に位置する。福山からは直ぐ東隣のところにある。1871年(明治4年)の廃藩置県後、この地域は庭瀬・足守・浅尾・成羽・岡田・高梁・新見・倉敷などの10県に旧備後国福山県をも加える動きとなり、1872年(明治5年)には小田県と称し、県庁を幕府笠岡代官所跡(小田郡笠岡村)におくことにした。

 小田県として笠岡に県庁が置かれたのであったが、それから3年後の1875年(明治8年)には全体が岡山県に統合された。ところが、翌年の第2次府県統合により、岡山県のうち旧備後国の福山が広島県へ移管され現在に至る。ついでながら、山陽本線の笠岡を過ぎては、備後の国に入り、その境の大門に、さらに福山へ通じていたのであった。
 この地域での干拓事業の歴史も古い。1619年(元和5年)、水野日向守勝成が大和郡山5万石より転封によって福山城主となった。石高は、譜代の重鎮らしく10万石があてがわれた。これにより、笠岡は大島、尾坂等の一部を除き、現在の笠岡市域の大半がこの水野領に組み込まれる。同藩では、入封したらさっそく領地の南に広がる海面の干拓に乗りだした。

 気候的にも温暖で雨が少なく、地形的にも平野が少ないため、土地を干拓や埋め立てを行うことによってまかなうことを狙った。この地域に大きな川が流れていないことがあり、夏の渇水時には慢性的な水不足になるなど、稲作りに支障が出ることでの、百姓たちの苦労があった。
 かつての富岡湾の干拓も、江戸時代の古くから計画がなされていた。しかし、何回も挫折したものが、1946年(昭和21年)3月には笠岡湾干拓事業として、笠岡町に委託された。予算的制約から進捗もなかったのが、1948年(昭和23年)7月農林省に引き継がれ、それから13年後の1957年(昭和33年)12月完成した。

 笠岡湾の干拓事業は、1968年(昭和43年5月)に関係漁民の深い理解により漁業補償が解決され、同年12月に工事が開始され、1990年(平成2年)3月に完成した。東西の堤防で締め切って造成した面積は2千ヘクタール近くにも及ぶ、日本で三番目に大きな干拓地が出来上がった。
 これに関連して、最南端から程近くの海中にあった神島(こうのしま)も、陸続きとなった。顧みれば、地元出身の画家・小野竹喬(おのちっきょう)の作品には、郷里の自然や人々の暮らしぶりを題材にしたものが多いが、わけても『島二作』においては神島の穏やかそうに写る自然の中で、農作業にいそしんだりの人々の姿がさらりとしたタッチで描かれている。

 こうして現代にいたり、装いを新たにした大規模干拓地の新地分は、工事を手掛けた当初は大規模機械化農地として期待されていた。ところが、造成後においてはコメ余りの中、性格が変化してきた。これに伴い、倉敷市を流れる高梁川から導水管を引いてくることにより、離島含む全世帯に水道水を給水することができ出したのはプラス面とされる。
 なお、笠岡及びその周辺の沖合は、「備讃瀬戸」(びさんせと)といって、このあたりに点在する島々の大半が瀬戸内海国立公園の指定区域内にある。高島、白石島、北木島、飛島、真鍋島、六島のいずれもが古代からの内海航路の要衝として栄えたことで知られる。特に白石島の高山展望台からの眺望は、天候に恵まれるならば、大山や、四国の最高峰である石鎚山などが見渡せるとのことである。

(続く)

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♦️163『自然と人間の歴史・世界篇』ロシア帝国へ

2018-08-18 20:55:46 | Weblog

163『自然と人間の歴史・世界篇』ロシア帝国へ

 ロシアが一つの塊として歴史に登場してくるのは、「タタールのくびき」からの解放を求めての戦いからではないだろうか。1380年、モスクワ大公国のドミトリー・ドンスコイ大公が、諸侯の連合軍を率いて、モスクワ南方のクリコヴォでタタール軍と戦い、互角に戦ったという。
 1480年になると、 同国のイワン3世(大帝)が、タタールへの忠誠を拒否する構えを示す。彼は、諸侯を束ね、統一国家を作ろうと、各個撃破で自主の道を歩む国を併呑していく。1453年、オスマン・トルコにより親戚のビザンティン帝国(東ローマ帝国)が敗北すると、モスクワはギリシャ正教を守という旗印を得た。同帝国の滅亡後に、その王家の紋章の「双頭の鷲」を引き継いだのは、時のモスクワ公国の主イワン3世の野心の現れでもあったろう。
 イワン3世を引き継いだイワン4世のなると、1547年にモスクワのウスペンスキー寺院(「葱坊主」の形をした屋根をもつ)において、「全ロシアのツァーリ(皇帝)」を号すにいたる。内には、恐怖政治を敷く。対外的には、東のカザン・ハン国、南のアストラ・ハン国(ともにタタール系の国)を攻略する。
 1584年には、イワンの後を弟のフョードル1世が継ぐが、1585年に節義なしで死ぬ。帝位は、義兄のボリス・ゴドゥノフ(ヒョードル皇妃の兄)のものとなる。1605年にそのポリスが死ぬと、皇帝権力が不安定になり、その正当性をめぐって混乱が続く。最後の3年間(1610~13)は空位という有様であった。
 そして迎えた1613年、これを収拾し、17歳にして皇帝の座についたのがミハイル・ロマノフである。このロマノフ家のミハイル公は、リューリク家とは親戚の関係であったのを利用し、力を集め、ついに本家になりかわり、新王朝をひらいた。それからさらに50年以上が過ぎての1682年には、第4代の皇帝としてピョートル1世(大帝)がつく。彼の下で、ロシアは急速な「西欧化」をすすめ、やがてロシアをヨーロッパの列強に伍しての強国へと導いていく。

(続く)

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♦️152『自然と人間の歴史・世界篇』タタールのくびき

2018-08-18 09:56:20 | Weblog

152『自然と人間の歴史・世界篇』タタールのくびき

 1223年には、ロシアに外国からの軍隊が侵入してくる。それは、モンゴル人の騎馬隊であった。チンギス・ハンの孫バトゥ・ハンが率いる軍勢は破竹の勢いでウラジーミルを陥れる。そして、ヴォルガ川下流のサライを都とするキプチャク・ハン国を樹立した。

 彼らは、以来1480年にイワン3世が、タタールへの忠誠を公然と拒否するにいたるまで、240年にわたってこのロシアの地に君臨することになる。この時代のことを「タタールのくびき」というのは、本来ダッタン人であるモンゴル人だが、キプチャク・ハン国の中で両者の混血がすすんだ。

 また、新たな支配者の到来で元からのタタールのイスラム教が国教とされるなど、文化面でも交流がすすんだため、ロシアではモンゴル人のことをしだいにタタールと呼ぶようになっていったのに由来する。

(続く)

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♦️151『自然と人間の歴史・世界編』ロシア王朝の勃興

2018-08-18 09:45:56 | Weblog

151『自然と人間の歴史・世界編』ロシア王朝の勃興

 ロシアの地では、9世紀にスカンディナビアから、ヴァイキングたちが侵入を繰り返す。826年には、現在のモスクワ近郊の交易都市であるノヴゴロドを、ヴァイキング首長のリューリクが占拠するにいたる。
 882年、そのリューリクの後継者のオレーグがキエフを占領する。彼はキエフ公となり、ここを首都としてロシア最初の国家「キエフ・ルーシ」を打ち立てる。988年、キエフ公のウラジーミルは、ビザンティン帝国(東ローマ帝国)からキリスト教の一派(東方正教)を受け入れる。そして、同国の皇帝の娘と結婚する。
 11世紀前半のヤロスラフ公の時代になると、キエフ・ルーシの領土は、かつてなくひろがった。東西はヴォルガ川流域から今日のポーランド東辺まで、北はバルト海に達した。南は黒海にまで勢力範囲を拡大する。
 しかし、1054年にヤロスラフ公が死ぬと、その遺領は分割相続された。リューリクの血をわけた多くの諸侯が並立し、大公の位をわがものにしようと争う。そして迎えた1169年、スズダリ公国のアンドレイ・ボゴリューブスキーの兵がキエフを占領すると、ルーシの首都はウラジーミルに移され、ウラジーミル・スズダリ公国となって、数あるルーシの中で最も強力な公国となった。とはいえ、諸公国の君主があり、その下に諸地域の領主、それに都市の三者が共存していたのであって、ある主の勢力バランスの宇江にロシア全体が保たれていた。都市共和国の中では、ノヴゴロドが市評議会による治世を敷いて栄えた。

(続く)