137『岡山(美作・備前・備中)の今昔』笠岡へ
さらに寄島の西隣は、もう笠岡市である。これを主観であらわすなら、そこまではすぐ間近なのに違いない。この笠岡地区は、倉敷のさらに西に位置する。福山からは直ぐ東隣のところにある。1871年(明治4年)の廃藩置県後、この地域は庭瀬・足守・浅尾・成羽・岡田・高梁・新見・倉敷などの10県に旧備後国福山県をも加える動きとなり、1872年(明治5年)には小田県と称し、県庁を幕府笠岡代官所跡(小田郡笠岡村)におくことにした。
小田県として笠岡に県庁が置かれたのであったが、それから3年後の1875年(明治8年)には全体が岡山県に統合された。ところが、翌年の第2次府県統合により、岡山県のうち旧備後国の福山が広島県へ移管され現在に至る。ついでながら、山陽本線の笠岡を過ぎては、備後の国に入り、その境の大門に、さらに福山へ通じていたのであった。
この地域での干拓事業の歴史も古い。1619年(元和5年)、水野日向守勝成が大和郡山5万石より転封によって福山城主となった。石高は、譜代の重鎮らしく10万石があてがわれた。これにより、笠岡は大島、尾坂等の一部を除き、現在の笠岡市域の大半がこの水野領に組み込まれる。同藩では、入封したらさっそく領地の南に広がる海面の干拓に乗りだした。
気候的にも温暖で雨が少なく、地形的にも平野が少ないため、土地を干拓や埋め立てを行うことによってまかなうことを狙った。この地域に大きな川が流れていないことがあり、夏の渇水時には慢性的な水不足になるなど、稲作りに支障が出ることでの、百姓たちの苦労があった。
かつての富岡湾の干拓も、江戸時代の古くから計画がなされていた。しかし、何回も挫折したものが、1946年(昭和21年)3月には笠岡湾干拓事業として、笠岡町に委託された。予算的制約から進捗もなかったのが、1948年(昭和23年)7月農林省に引き継がれ、それから13年後の1957年(昭和33年)12月完成した。
笠岡湾の干拓事業は、1968年(昭和43年5月)に関係漁民の深い理解により漁業補償が解決され、同年12月に工事が開始され、1990年(平成2年)3月に完成した。東西の堤防で締め切って造成した面積は2千ヘクタール近くにも及ぶ、日本で三番目に大きな干拓地が出来上がった。
これに関連して、最南端から程近くの海中にあった神島(こうのしま)も、陸続きとなった。顧みれば、地元出身の画家・小野竹喬(おのちっきょう)の作品には、郷里の自然や人々の暮らしぶりを題材にしたものが多いが、わけても『島二作』においては神島の穏やかそうに写る自然の中で、農作業にいそしんだりの人々の姿がさらりとしたタッチで描かれている。
こうして現代にいたり、装いを新たにした大規模干拓地の新地分は、工事を手掛けた当初は大規模機械化農地として期待されていた。ところが、造成後においてはコメ余りの中、性格が変化してきた。これに伴い、倉敷市を流れる高梁川から導水管を引いてくることにより、離島含む全世帯に水道水を給水することができ出したのはプラス面とされる。
なお、笠岡及びその周辺の沖合は、「備讃瀬戸」(びさんせと)といって、このあたりに点在する島々の大半が瀬戸内海国立公園の指定区域内にある。高島、白石島、北木島、飛島、真鍋島、六島のいずれもが古代からの内海航路の要衝として栄えたことで知られる。特に白石島の高山展望台からの眺望は、天候に恵まれるならば、大山や、四国の最高峰である石鎚山などが見渡せるとのことである。
(続く)
★★
(続く)
☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★★☆★☆