♦️217『自然と人間の歴史・世界篇』メンデルスゾーンとサンサーンス

2018-08-15 21:06:10 | Weblog

217『自然と人間の歴史・世界篇』メンデルスゾーンとサンサーンス

 フェリックス・メンデルスゾーン(1809~1847)は、ドイツのロマン派の作曲家して演奏家、それに指揮者でも活躍した。祖父は神の存在を強調するユダヤ系哲学者、ベルリンの裕福な銀行家の家庭に生まれた。10歳にして、ピアノの名手、作曲も手がける。最近のことだが、14歳の時に作曲したといわれる交響曲が見つかったという。
 その短い人生のあいだに、5つの交響曲、演奏会序曲、2つのバイオリン協奏曲、2つのピアノ協奏曲などを書いた。その死後に明らかになった作品も多い。殊にバイオリン協奏曲ホ短調」は、陰に日向に繰り返し透き通るような調べが際立っている。

 美しい旋律には、心を打たれる。人格は温厚であり、気むずかしくなかったという。社会的な音楽普及者としても知られ、ライプチヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者として、世に忘れられようとしていたバッハの「マタイ受難曲」の再演に力を尽くした。
 サンサーンス(1839~1921)は、フランスの作曲家にして演奏家。変幻自在な曲調が特徴だ。詩や絵画、天文学そして数学などにも精通していたという。
 1873年の37歳の時、「チェロ協奏曲第1番」を書いた。情感溢れる中にも、演奏者(ソリスト)の微細な技術が映えるようになっている。5曲の交響曲、交響詩、2曲の管弦楽曲を書いた。その中の組曲「動物の謝肉祭」より「白鳥」は、いかにも華麗、優美だ。この中では、独創的なチェロの調べには優美さが感じられる。同じフランスのビゼーが作曲した管弦楽曲「アルルの女組曲」とともに現代に人気を博する。
 宗教曲「アヴェ・マリア」は、教会のオルガニストとして生計を立てていたサンサーンスが、演奏者や歌手の編成に合わせて5つをつくったという。歌い手(男性のテナー)に「めでたしマリアよ、主はあなたとともに。あなたのお腹の子イエス」云々といわせる。また、「旧約聖書」にちなみ、オペラ「サムソンとデリラ」より「バッカナール」では、古代イスラエルの英雄を讃え、オリエントの雰囲気も醸し出す。1908年、「ギーズ公の暗殺」という映画音楽も書いた。「魚が水の中で生きているように、私は音楽の中で生きている」というのは、いかにも頷ける。

(続く)

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♦️180『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル、1096~1489)

2018-08-15 08:20:33 | Weblog

180『自然と人間の歴史・世界篇』大航海時代(スペインとポルトガル、1096~1489)

 1096年、カスティーリア・レオン連合王国 (スペイン) 国王は、イスラム勢力との戦いで勲功があったということで、フランスのブルゴーニュからやってきた騎士エンリケ・ド・ボルゴーニュ(アンリ・ド・ブルゴーニュとも)に、伯爵の称号と共に土地を与える。そこはドウロ川の流域で、ローマ時代には、その一帯をコンダドゥス・ポルトカレンシスと呼ばれていた。
 その息子・アルフォンソ・エンリケスは、 ポルトガル王国を建国し、 アフォンソ1世と号する。その後、サンタレンの戦いに勝利して、テンプル騎士団にトマールの地を与え、続いて、リスボンを奪取し、ここを首都に定める。
 13世紀後半、ポルトガルの王位に継承問題が発生し、カスティーリャ王フアン1世がポルトガルに侵攻してきた。そんなカスティーリャの軍に対する戦いで勝利を得て、ポルトガルの独立を確保し、アヴィス朝の初代ポルトガル王となったのが、好奇心旺盛なジョアン1世であった。1409年、ヤコブス・アンゲリクスにがプトレマイオスの著「地理学」をラテン語に訳出する。1411年、カスティーリャ王国とポルトガル王国との間で和議が成立した。
 1415年から、ジョアン1世は大いなる富を得ようと海外進出を始めた。ジョアン1世(~1433)の息子のエンリケ航海王子(1394~1460)やコインブラ公ペドロも、モロッコ遠征に同行し。ポルトガル軍は、北西アフリカのセウタを攻略する。
 ジョアン1世から王位を継承したのはドゥアルテ1世だったのだが、その5年後に死ぬ。後を継いだのは、6歳のアフォンソ5世だった。コインブラ公ペドロが幼王の摂政として選ばれた。ペドロはジョアン1世の息子にしてドゥアルテ1世の弟(つまりアフォンソ5世の叔父)、そしてエンリケ航海王子の兄にあたる。摂政としてのペドロは、エンリケ航海王子が唱える大西洋の探検航海を支援する。
 1434年、ポルトガル人の航海士であり探検家ジル・エアネスが、ボアドール岬を回航する。エンリケ航海王子の命であったともいわれる。1477年、プトレマイオスの地図がイタリアで印刷される。1479年には、ポルトガルとスペインとの間でアルカソヴァス条約が結ばれる。仲介の労をとったのはローマ教皇であり、ポルトガルがアフリカ沿岸、マデイラ諸島、アソーレス諸島、カボヴェルデ諸島を、そしてスペインがカナリア諸島をそれぞれ領有することに決めた。
 1482~1485年、探検家ディオゴ カウンが、アフリカ大陸探検のためリスボンを出航した。ジョアン2世の命を受けていた。カウンの船団は、アフリカ西岸を南下中、偶然、コンゴ川河口を発見する。そのまま上流まですすむと、未知の王国があった。現在のコンゴとアンゴラの地域に当たる。
 1487年、この年の暮れから翌年初めにかけて、ポルトガル国王の命により、ポルトガルの航海者であるバルトロメウ・ディアスが出航した。アフリカ大陸を周回してインドへの航路を見出すためであった。彼の船団は、アフリカ大陸南端の喜望峰の回航に成功し、そこから折り返してポルトガルに帰港を果たす。同年、ペドロ・デ・クビリャン(Pedro de Covilh)が陸路で東方旅行に出発する。アデン経由でインド半島西岸の香料取引地に達した。またペルシア湾岸オルムスから紅海に出て、アフリカ大陸の東岸にとりつき、そこからザンベジ川河口付近まで南下した。

(続く)

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