□31『岡山の今昔』江戸時代の三国(森藩)

2018-08-13 22:12:08 | Weblog

31『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(森藩)

 元禄期の美作はどのようであったのだろうか。ちなみに、森家は忠政の嫡男他が早世していて、二代目藩主には、養子になっていた長継(ながつぐ)が就任する。長継は、忠政の姉の嫁した関共成(せきともなり)の後継・関成次(せきなりつぐ)と森忠政の二女との間の長男にして、森忠政の養子となって養父の後を継いだ。三代目藩主には、長武がなった。彼は長継の次男であって、長継の長男・忠継がすでに死去したため跡を継いだ形であった。そのため忠継の子の長成が16歳での元服に長じると、長継は長武に働きかけて長成に家督を譲らせ、長成が四代目藩主になる。
 おりしもこの時代、5代将軍綱吉が1687年(貞享4年)発布した「生類哀れみの令」が生きていた。これは、発令の動機からして変わっている。綱吉にとって、自分にいまだに継嗣がいないのは、前世に殺生を多くした報いである、なので新たな子宝に恵まれるためには犬や馬、猫などに愛情を注ぐのがよい。特に将軍は戌年であるから、ことのほか犬を大切にすべきであると、このような説法を隆光僧正から受けたのがそもそもとされる。綱吉が大好きな儒学のどこをほじくり回して探しても、そんな教えはどこにも見あたらない。珍説といえるのだが、残念ながら、命を賭して主君をいさめようとする人材は幕閣にはいなかった。
 1695年(元禄8年)には、幕府はそれまでを上回る規模で犬小屋を建て、野犬などを収容する方針を打ち出す。この命が、時の老中、大久保加賀守を通じて、津山藩と讃岐の京極家に下る。相方の京極家は石高5万石であるからして、始から多くの負担を求められない。そこで、実際上は森藩がこの工事を請け負うことになる。中野(なかの、現在の東京都中野区)の犬小屋に到っては、およそ16万坪もの敷地に数万匹を集めたが、その一日の食糧は米330石、味噌10樽、干鰯10俵で、それらの煮炊きなどに使う薪も56束を要したらしい。
 彼は、以後1708年(宝永5年)までこの趣旨の布達を繰り返すという、はたから見ても「はばかりながら、なぜにそこまで拘られるのか」と言いたい程の執着ぶりであったろう。ともあれ、津山藩はなんとかこの工事を終える。しかし、この犬小屋普請により森藩の財政は大きく傾いたのであろう。
 そして迎えた1697年(元禄10年)旧暦6月20日、藩主の長成が27歳の若さで死去するという一大事が出来(しゅったい)する。その長成には、まだ跡継ぎが生まれていなかった。当時の武家諸法度は、4代将軍の家綱の時代、1651年(慶安4年)に、以下のように改訂されている。
 「五十歳以上以下養子願之事
諸大名らびに御旗本、諸物頭、御役人に至るまて召しにより登城仰せ付けらる。
一、御家人之面々、五十歳より内にて末期に及び養子之願仕り候者、その筋目(すじめ)により跡式(あとしき)御立成られ候。また五十歳以上にて末期に及び養子之願仕り候者、跡式御立成られ間敷旨(まじきむね)、上意之趣仰せ付けらる。」『徳川禁令考』二二六二号、前集第四、二五〇頁
 要するに、それまでの末期養子の禁止を緩和し、50歳以下の当主が急病危篤の際に末期養子を願い出ることを認める。そのことで、「慶長七年(1602)から慶安三年(1650)までの約五十年間に、末期養子の禁のために改易・減封(げんぽう)された大名は五十八家、幕府が没収した石高は四百三十万石弱にのぼる」(栗田元次『江戸時代史』上巻(初版、内外書籍、1947)近藤出版社復刻本、1976)にあって、それが所理喜夫編『古文書の語る日本史』第6巻江戸前期、筑摩書房、1989にて引用される)状況の改善に踏み出したのであった。
 そこで、長成の末子養子にと祖父の長継から推された関衆利(せきあつとし)に白羽(しらは)の矢を立てた。その衆利だが、2代長継の12男で森家家老の関衆之(せきあつよし)の養子に入っており、忠継や2代藩主の長武の兄弟、前藩主の長成の叔父に当たる。彼は、津山藩家老の要職(およそ6名体制の内)にあった。前述の1695年(元禄8年)旧暦10月から12月にかけての幕命による犬小屋普請に際して、衆利は当時23歳の総取締として重責を担う。
  その彼が本家の森藩の跡目を相続することになり、幕府に江戸に出向くよう呼ばれる。
要は、家督相続のため江戸に来て申し開きをせよの仰せであったことだろう。衆利と同藩の一行は、東海道のまだ半ばより手前、伊勢国桑名縄生村(名生村)までやって来ていた。
そのおり、宿にて「発狂失心」に陥り、「近習に斬りつけ負傷させた」ことが公(おおやけ)とされた。そのため、一行は桑名から江戸へ進発不能となってしまい、そのことが幕府の知るところとなる。
 どうしてそのような事態になったのかは、現在でもよくわかっていない。あるいは、その宿にて、どこからか重大な報せか命令を受けたのかもしれないし、津山に在るときからの内紛(とりわけ一門の間の複雑な事情があったのは否めない)が昂じて破局を迎えた結果であるのかもしれない。さらには、医師が衆利に朝鮮人参を大量に調合した薬を処方後、衆利本人の様子が急変したとも言われる。
 もしそうなら、これから行く先の江戸で、厳しい詰問に応えなければならないとしたら、その不安が精神にも介在した可能性は否定できまい。いずれにせよ、事の真相としては世間をはばかるものであったようで、そのため後々も関係者の口は固く閉ざされ、政治という藪の中に置かれたままになっていった感を否めない。

(続く)

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□53『岡山の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・岡山県南部)

2018-08-13 20:56:31 | Weblog

53『岡山(美作・備前・備中)の今昔』幕末から明治時代の岡山(血税一揆・岡山県南部)

 当時、廃藩置県後の岡山県南部の磐梨郡、赤坂郡、津高郡、上道郡の四郡と、北條県だった美作の地でもいわゆる「血税一揆」が頻発したことは、そのことを物語っている。
 そもそも、「血税一揆」の「血税」たる所以は、遠くローマ時代に遡る。彼の時代の地では、市民の義務として兵役を課せられることを「血税」と呼んでいた。岡山県南の騒動が起こったのは、1871年(明治4年)のことで、大方は旧岡山藩の所領であったところだ。その騒動の発端は、同年11月25日(旧暦)、磐梨郡(その後大部分の地域は赤磐郡となり、現在の赤磐市に繋がる)であった。
 すなわち、同郡の国木宮(阿保田神社)に同郡内十か村の農民約5百人が結集し、集団での気勢を上げた。強訴にほかならない。農民達は何時や掛かりで、県当局への嘆願書をまとめる。この年に施行された「悪田畑改正」により、従来より年貢負担が重くなるケースが生まれていた。夏の水害の影響で収穫減が懸念されるなどもあったようだ。そこで、生活不安から、今年暮れに予定される年貢米の納入を3分の1に減らしてくれるか、またはこれに相応する助成の措置を講じてくれるように要求した。
 その三日後の11月28日(旧暦)になると、騒動は赤坂郡に拡大していく。こちらでも群衆は磐梨郡でのような嘆願書を提出する。彼らの一部は、打ちこわしへと暴徒化していき、同日の夕方になっても収まる様子はなかった。元山陽新聞社勤務の清野忠昭氏によると、29日(旧暦)の「このころ農民勢はおよそ三千人と報告されており、騒動は頂点を迎える」(清野忠昭「忘れられた農民一揆(2)ー明治四年県南四郡(磐梨郡、赤坂郡、津高郡、上道郡)騒動始末記ー」)という。さしずめ、燎原の火が広がるが如く、というべきか。
 その頃になると、岡山県当局も騒動が容易ならざる事態が進行しているとの認識に達したのか、説得を試みたり、捕縛に乗り出したり始めている。さらに、騒動は津高郡、上道の両郡にも広がっていき、先の二郡と同じような嘆願書が県当局に提出される。拡大を続けていた騒動が収束に向かうのは、津高郡の県当局との攻防において、「鎮圧隊の発砲で死者五人、負傷者四人(または五人)」(同)出てからである。官憲の圧力が俄然増してきたことにより、12月1日(旧暦)になると、赤坂郡を中心に3日間続いてきた未曾有の騒動も下火に向かうのであった。

(続く)

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○○225『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(佐賀藩)

2018-08-13 17:52:22 | Weblog

225『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(佐賀藩)

 佐賀藩の農政改革というのは、藩主の鍋島直正(なべしまなおまさ)が1860年代の初めにかけて、儒者古賀穀堂(こがこくどう)らの助けを得て行ったものだ。その内容は、多岐でいろいろあるが、その中心はつぎに紹介するような「均田制度」による農政の立て直しであった。ここに「均田制度というのは、これまで伊万里など都市の商業資本の手に集中していた土地の所有を、農民の手にかえしてやることであり、その地主としての作徳米収取を停止して、これを農民の生活の資にあてさせるという思い切った土地政策であったのだ。
 この均田制度を指して、これこそ完全な封建反動であり、古い隷農制への回帰であると説く人もいるが、しかし、これが貧弱な農民を救って、かけらの生産力を向上させたことはいうまでもないことである。問題はその形式にあるのではなくて、それが農民の生活に如何に働いたかということであろう。ともかくも、直正の小農民保護政策は、その断固たる意志において実行の緒についたのであった。
 しかしながら、それだけに農民に対する制限は厳重なもので、絹織物の禁止は当然のことながら、歌舞音曲の停止から、仏事神事に対する制限、そして酒を飲むことの禁止まで、代官所の厳重な見回りの下に励行させられていった。
 いや、そればかりではない。代官所の見回り、日没後の内職にまで干渉して、これを励行させたのである。怠惰なる者に対しては容赦なく、代官所手代の棍棒が降ってきたというから、相当なものであろう。これも、二宮尊徳が、工事などの監督に歩き、怠けている者があれば川の中に突き落としたという話とよく似ている。」(「日本歴史シリーズ16、幕藩制の動揺」世界文化社、1970所収の奈良本辰也氏の論文「鍋島直正と天保の改革」から引用させていただいた。)
 さて、私たちの故郷、当時の津山藩では、これより前、国学者の佐藤信淵(さとうのぶひろ、1769~1850年)を招いて藩政改革を相談したことになっている。彼は、宇田玄随の医学の門下生であった。藩命で帰る師匠について津山に行ったのが最初で、農学者として知られるようになってから、津山藩の招きに応じて津山にもしばらく滞在していたらしい。その時の彼は、「殖産興業」と、商業資本の活用で藩を立て直すことを持論としていた筈だ。わけても、施政者による商業資本の活用は流通過程からの収奪の可能性もあったのであろうが、その招かれた時何らかの具体的提言をもって津山藩の諸改革にどう影響を及ぼしたのだろうか、その詳細は明らかになっていないようである。

(続く)

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○○223『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(岡山藩、備中松山藩)

2018-08-13 17:51:02 | Weblog

223『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(岡山藩、備中松山藩)

 比較的豊かであったとされる19世紀半ばの岡山藩においては、その藩政は立て直しというよりは、それね含めての全体的な事業拡張というのが似つかわしい。
 19世紀に入ってから、それまでの新田開発、い草栽培などに加え、新たに岡山藩の産業を支えるようになったものに、織物業と製塩業がある。1860年代にもなると、児島郡の辺りでは、小倉織、真田織、雲斎織といって織物業が発達した。農民は「無高水呑百姓」か、5反にも満たない小百姓が多いことでは他藩の農民とさして異なるところはない。変わっているのは、副業の織物業で現金収入が見込めることであった。彼らは、自宅に織物の仕事場を設けるのが大方であったが、中には織物機を多数備えて、まとまった仕事場を提供する機元(織元)も次々に現れた。同藩は、それらの織物の売買をさせる問屋を認定した。その上で、各機元にはそれらの問屋に作った織物をもっぱら卸すことを命じ、安定した運上金を手にしたのであった。
 児島郡の南部においては、文政・天保期になって、古くは奈良期から細々と続けられてきていた製塩業が、藩の庇護を受けて規模を大きくしていった。中でも、塩浜地主であった薪問屋の野崎武左衛は味野村と赤崎村の沖合に49町歩の野崎浜を築いた。これに習って、近くの地主たちもこぞってより大きな塩田を営むようになっていく。その中からは、塩田主から塩田を借り受け、人夫を雇い入れて製塩業を営む産業資本家も現れる。
 彼らは、製塩のための薪や石炭を買い入れ、作った塩を全国に売った。全国に販路を広げるということは、そのための航路なり、寄港地の繁栄も約束していく。また、商いや事業の拡張のための新しい資金の借入れも必要となり、金融も発達していく。あれやこれやで波及効果が現れることになって、児島の港や町は賑わいを増していくのであった。 
 この期の藩政改革のめずらしいところでは、農民の生活にも目を向けた改革が登場する。中でも、備中松山藩の藩政改革と、佐賀藩が行った農政改革は特記に値する展開を見せた。というのも、小農民の、その多くは「水呑百姓」とか呼んで十把一絡げにする風潮があるが、その置かれている実体は、この藩でも悲惨であったことだろう。そこへ、この両藩では、真っ向からこの問題に取り組んでいったことに特色がある。
 備中松山藩では、1849年(嘉永2年)、新藩主・板倉勝静(いたくらかつきよ)が登場する。そうなるいきさつであるが、藩主板倉勝職(いたくらかつつね)は、1842年に伊勢桑名藩から、藩主松平定永(まつだいらさだなが)の八男である寧八郎を婿養子に迎える。これが勝静で、22歳にして才気に溢れていたという。彼は、さっそく家臣の儒学者にして、陽明学者山田方谷(やまだほうこく)に、同藩の元締役(財務の責任者)兼吟味役を任命した。陽明学は、中国宋の時代の王陽明が拓いた学問で、儒学に基礎をおきつつ、実利を重んじるところが特徴である。山田は苦労人で、40歳になっており、すでにこの二つの学問の大家として知られる。そして、勝静の学問の師になっていた。
 その山田が最初に取り組んだのが、藩の抱える負債の整理であった。なにしろ、収入が約二万両のところへ支出がざっと5万両であったといわれ、支出のうち1万3千両が借金の利息に消えていたようである。借金は、大坂、松山、江戸に散らばっていた。1850年(嘉永3年)の春、彼は債権者の多い大阪に向かった。これからすると、大坂に出掛ける前から、相当の自信があったらしい。そして、かれらを前にして行った説得がなにしろ奮っていて、これまでの備中松山藩の財政状況を正直に説明し、借金10万両の猶予を申し入れたのに対し、商人達は利子の免除、最大50年の借金棚上げを承認したのであった。 なぜそうなったのかというと、山田は借金は必ず返済する、踏み倒すつもりは毛頭ないとしながら、その猶予だけでなく、新規事業を立ち上げることでの財政再建計画を示したからだと考えられる。こうして利にさとい債権者たちの大方の同意をとりつけた山田は、1851年(嘉永3年)の『存寄申上候覚』」には、こうある。
 「御年限中成行き候へば、七ヶ年に御借財は凡四万両の払込と相成り、御借財半方の減と相成り申す可く候。其の節に至り候へえば、又別の手段を以て、御無借同様に仕り度き愚案仕り居り候。其の節、私身分何方へ退転罷り在り候共、今一応御呼出下され、御相談仰せ付けられ候へば、愚存申し上げ度く存じ奉り候事。」
 それからの山田は、心ある仲間とともに藩としての新規事業の立ち上げに邁進した。1854年(安政元年)には、彼は藩の「参政」という最高職に就任する。財政再建の主力は、この地に産する豊富で良質の砂鉄を使って、この地にタタラ吹きの鉄工場を次々につくり、そこでえたたたら鉄を使って釘、刃物、鍋、釜、鋤、鍬などの農具や鉄器を製造した。当時の人口の80%を占める農家相手の農具としての備中鍬を商品開発した。備中鍬は、3本の大きなつめを持ったホークのような鍬である。これは、従来の鍬に比べて、土を掘り返すのに深く掘ることができ、これが客足がとだえることのない程の大ヒット商品となった。
 また、藩内の商品作物づくりに精を出した。タバコ、茶、こうぞ、そうめん、菓子、高級和紙などの生産が手掛けられた。その特産品に「備中」のネーミングで売り出した。しかも、他藩の専売制で生産者の取り分を奪うことをせず、生産者の利益が出るように、藩は流通上の工夫によって利益が上げるように立ち回った。販売方法も苦心し、領内の産物をいったん松山城下に集荷し、そこから問屋を通じて高瀬舟で松山川(現在の高梁川)を玉島港に運び、そこから自前の運送で船を仕立てて江戸を目指した。そして、板倉江戸屋敷で江戸や関東近辺の商人を中心に直接売りさばく販売方法を確立したのであった。これらの産業創成策は、藩内にじわじわと浸透していき、それに応じて藩の財政も改善していくのであった。
 山田は、その後の1868年(明治元年)に64歳で引退するまで、その要職にあったとされるので、文字どおり藩の財政を立て直した救世主と考えてもよいのかもしれない。
 引退してからの彼の詩の一つには、こうある。
「暴残、債を破る、官に就きし初め。天道は還るを好み、○○(はかりごと)疎ならず。
十万の貯金、一朝にして尽く。確然と数は合す旧券書」(深澤賢治氏の『陽明学のすすめ3(ローマ字)、山田方谷「擬対策』明徳出版社、2009に紹介されているものを転載)
 彼ほどの不屈の精神の持ち主が、いかに幕府の命とはいえ、10万両もの貯金を食いつぶしてしまったことへの悔悟の念が、心の底に巣くい、沸々と煮えたぎっていたものと見える。

(続く)

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○○222『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(薩摩藩)

2018-08-13 17:48:05 | Weblog

222『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(薩摩藩)

 19世紀も30年代にさしかかっていた薩摩藩の財政は、かなり前から出費がかさんでいた。一説には、500万両の借金を抱えていたという。藩財政を立て直すべく、1832年(天保3年)に、調所広郷(ずしょひろさと、1776~1849)を家老格に任じる。大権を手にした調所が行ったのは、債権者たちに藩の借金を負けさせるどころか、その大半を棚晒しもしくは大幅にまけさせることであった。「250年の年賦での返済、および無利子返済」を打ち出し、商人たちに通達した。これは、なかばは「踏み倒し」を目したものともいえよう。
 そして調所が藩主の権威を借りてなしたのは、税収の向上の施策を手広く講じることであった。そんな中でも、奄美大島(あまみおおしま)産、徳之島産の黒砂糖の藩による専売強化を図ることだった。 
 ここで薩摩藩における琉球国との関係をひもとくと、これがなかなかに複雑なのだ。そもそもの1609年(慶長14年)、琉球王国は島津氏から攻略された。この国は、その後も日本とは異なる独立国には違いないのだが、中国との朝貢(ちょうこう)関係は続けていた。江戸幕府の体制下に組み込まれてからの琉球王国には、「在番奉行所」(御仮屋(うかりや))と呼ばれる薩摩藩からの出先が設けられていた。その琉球の那覇の湊に、1853年(嘉永6年)旧暦5月、ペリー艦隊がやってきた。
 首里城に入ったペリーは、石炭貯蔵庫の設置などを要求した。その翌年の1854年(嘉永7年)、琉球国はアメリカとの修好条約を結んだ。そればかりでなく、薩摩藩の島津斉彬(しまずなりあきら)が、「奄美大島と沖縄の運天港を開港させ、フランスから軍艦と最新鋭の銃を、琉球を介して購入する計画を立て、両者間でこの取引は成立」(喜納大作・上里隆史「琉球王朝のすべて」河出書房新社、2015年に改訂新版)したものの、斉彬の急死で計画が中止になったいきさつもある。
 話を戻して黒砂糖の専売をいうと、財政改革の切り札として徹底的な管理体制を敷いた。次いで、琉球を通した清国との貿易を盛んにした。
 それらのかいあってか、1840年(天保11年)の頃、薩摩藩の財政再建はほぼ完了したといわれる。調所が大役に抜擢されてから13年の歳月が流れていた。ところが、1848年(嘉永元年)幕府に薩摩藩が密貿易をしていることを咎められ、調所はその責任をとらされ服毒自殺した。こうして彼の犠牲の上に、薩摩藩は力を温存できた。

(続く)

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○○221『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(長州藩)

2018-08-13 17:44:25 | Weblog

221『自然と人間の歴史・日本篇』19世紀での諸藩の改革(長州藩)

 この時期には、全国の三百諸藩の藩政改革が盛んに行われた。長州藩では、天保期の初年、1830年(天保元年)に大規模な農民一揆が起こる。それは、翌年まで続き、防長二国の全域に広がった。この一揆が掲げたスローガンに「藩営専売の廃止」があり、藩が藍や櫨などの主要な産物の流通を独占したことに反対したのであった。これだと、農民としては、強制的に買い上げられるのであるから、利益は見込めなくなってしまう。こうした一揆はその後も藩内のそこかしこで頻発した。また、藩としての商業資本への借財も、「両に換算しておよそ二百万両、藩の年収の二十二倍」(松浦玲「藩政改革」:「幕藩体制の動揺」:日本歴史シリーズ16、世界文化社、1970に所収)の厳しい財政状況であった、とされる。
 長州藩においては、1831年(天保2年)、藩を揺るがす大一揆が勃発する。襲撃されたのは、村役人と特産物の買い占めで暴利をむさぼっていた商人達だった。長州藩は、財政再建策の一つとして産物会所を作り、彼らに特産物の売買を独占的に許したが、その改革案に民衆が抗議の一揆を起こしたのだ。藩から特権を与えられた商人と農民との間で利権を巡る争いが起き、これが領内全土に広がったのだ。この一揆は、一説には十万人を超える農民が参加した。一揆の鎮圧とその後の復興に莫大な資金を投入せざるをえない状況となった長州藩は再び財政難に陥る。
 このようなとき、毛利敬親(もうりたかちか)は家督を継ぎ、十三代藩主となる。彼は、よいと思われる話があると、「そうせい」というのが口癖であったとか。たしかに「凡庸」な性格であったかもしれないが、それでいて、先取の気風があったのではないか。長州藩は、この時大いなる決断をした。1838年(天保9年)、中級武士だった村田清風(むらたせいふう、1783~1855)を抜擢し、藩政改革を命じた。村田はこの時、56歳を数えていた。
 この頃の長州藩は多くの負債があり、就任した村田はこれを「8万貫の大敵」と呼んで、解消を目論む。その手段として、驚くことになんと村田清風を中心に、商人達に向かって借金の棒引きと要求したのであるが、それがなんとかうまくいったようだ。
 1842年(天保14年)になると、村田は「三七ヵ年賦皆済仕法」を出した。これは、藩債については、元金の3%を37年にわたって返済すれば、皆済とする一方的な返済案だった。また、藩士の借財についても、藩がいったん全部肩代わりすることとし、同様の条件での返済をすることにした。
 村田は、下関という場所の重要性にも着目した。この頃、下関海峡は西国諸大名にとって商業・交通の要衝であった。そこで白石正一郎ら地元の豪商を登用して、越荷方を設置した。越荷方の「越荷」とは、他国から入ってきた荷物のことである。これを扱うべく、藩が下関で商人などを束ね、運営する金融兼倉庫業を営む。
 具体的には、他国船の越荷を担保に資金を貸し付けたり、越荷を買っては委託販売をした。しかし、この仕法は、藩士が多額の借金をしていた萩の商人らに反発を受けた。また越荷方を成功させたことで、大坂への商品流通が減少したため、幕府当局からの横槍が入り退陣に追い込まれた。藩が専売していた特産物の売買を商人に認めるかわりに税を課すことで、藩としても収益を上げていく。
 村田はこれらの政策実行で、紙、蝋、米、塩の生産強化を行い、専売制の手直しを始めた。それに、藍の統制廃止や木綿の流通自由化に踏み出した。さらに藩内の豪商に対しては、責任を持たせて他藩の貨物や船舶相手の運賃稼ぎや資金の融通するという施策を行った。これらが効を奏する形で、藩の財政はしだいに好転を始めていく。これらのうち蝋、米、塩は「三白」(さんぱく)と呼ばれた。「三白」のうち蝋は、櫨(はぜ)の実を原料とする。紙に劣らぬ産業にと育成策が取り組まれる。不毛の山野や畑の畦(あぜ)などの閑地を選んで櫨の植林を増やすようにと、農民を激励するとともに、「鯖山製蝋局」による統括体制が整えられていく。
 そして迎えた1841年(天保13年)には、長州藩の積年の3万貫の負債を減らすことに成功した。また、清風の改革は財政再建だけでなく人材登用や教育の面でも効果をあげるが、逆風も吹き荒れていたらしい。中級以上の藩士を中心に改革に反対する勢力の台頭があった。それに持病の中風の悪化により、63歳の村田は、坪井九右衛門(つぼいくえもん)にその座を譲る。村田は、生家である三隅山荘に帰り、隠居した。それからも、人材の育成には熱心であったようで、三隅山荘に開いた私塾、尊聖堂は多くの子弟達で満ち溢れていたという。

(続く)

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