31『岡山(美作・備前・備中)の今昔』江戸時代の三国(森藩)
元禄期の美作はどのようであったのだろうか。ちなみに、森家は忠政の嫡男他が早世していて、二代目藩主には、養子になっていた長継(ながつぐ)が就任する。長継は、忠政の姉の嫁した関共成(せきともなり)の後継・関成次(せきなりつぐ)と森忠政の二女との間の長男にして、森忠政の養子となって養父の後を継いだ。三代目藩主には、長武がなった。彼は長継の次男であって、長継の長男・忠継がすでに死去したため跡を継いだ形であった。そのため忠継の子の長成が16歳での元服に長じると、長継は長武に働きかけて長成に家督を譲らせ、長成が四代目藩主になる。
おりしもこの時代、5代将軍綱吉が1687年(貞享4年)発布した「生類哀れみの令」が生きていた。これは、発令の動機からして変わっている。綱吉にとって、自分にいまだに継嗣がいないのは、前世に殺生を多くした報いである、なので新たな子宝に恵まれるためには犬や馬、猫などに愛情を注ぐのがよい。特に将軍は戌年であるから、ことのほか犬を大切にすべきであると、このような説法を隆光僧正から受けたのがそもそもとされる。綱吉が大好きな儒学のどこをほじくり回して探しても、そんな教えはどこにも見あたらない。珍説といえるのだが、残念ながら、命を賭して主君をいさめようとする人材は幕閣にはいなかった。
1695年(元禄8年)には、幕府はそれまでを上回る規模で犬小屋を建て、野犬などを収容する方針を打ち出す。この命が、時の老中、大久保加賀守を通じて、津山藩と讃岐の京極家に下る。相方の京極家は石高5万石であるからして、始から多くの負担を求められない。そこで、実際上は森藩がこの工事を請け負うことになる。中野(なかの、現在の東京都中野区)の犬小屋に到っては、およそ16万坪もの敷地に数万匹を集めたが、その一日の食糧は米330石、味噌10樽、干鰯10俵で、それらの煮炊きなどに使う薪も56束を要したらしい。
彼は、以後1708年(宝永5年)までこの趣旨の布達を繰り返すという、はたから見ても「はばかりながら、なぜにそこまで拘られるのか」と言いたい程の執着ぶりであったろう。ともあれ、津山藩はなんとかこの工事を終える。しかし、この犬小屋普請により森藩の財政は大きく傾いたのであろう。
そして迎えた1697年(元禄10年)旧暦6月20日、藩主の長成が27歳の若さで死去するという一大事が出来(しゅったい)する。その長成には、まだ跡継ぎが生まれていなかった。当時の武家諸法度は、4代将軍の家綱の時代、1651年(慶安4年)に、以下のように改訂されている。
「五十歳以上以下養子願之事
諸大名らびに御旗本、諸物頭、御役人に至るまて召しにより登城仰せ付けらる。
一、御家人之面々、五十歳より内にて末期に及び養子之願仕り候者、その筋目(すじめ)により跡式(あとしき)御立成られ候。また五十歳以上にて末期に及び養子之願仕り候者、跡式御立成られ間敷旨(まじきむね)、上意之趣仰せ付けらる。」『徳川禁令考』二二六二号、前集第四、二五〇頁
要するに、それまでの末期養子の禁止を緩和し、50歳以下の当主が急病危篤の際に末期養子を願い出ることを認める。そのことで、「慶長七年(1602)から慶安三年(1650)までの約五十年間に、末期養子の禁のために改易・減封(げんぽう)された大名は五十八家、幕府が没収した石高は四百三十万石弱にのぼる」(栗田元次『江戸時代史』上巻(初版、内外書籍、1947)近藤出版社復刻本、1976)にあって、それが所理喜夫編『古文書の語る日本史』第6巻江戸前期、筑摩書房、1989にて引用される)状況の改善に踏み出したのであった。
そこで、長成の末子養子にと祖父の長継から推された関衆利(せきあつとし)に白羽(しらは)の矢を立てた。その衆利だが、2代長継の12男で森家家老の関衆之(せきあつよし)の養子に入っており、忠継や2代藩主の長武の兄弟、前藩主の長成の叔父に当たる。彼は、津山藩家老の要職(およそ6名体制の内)にあった。前述の1695年(元禄8年)旧暦10月から12月にかけての幕命による犬小屋普請に際して、衆利は当時23歳の総取締として重責を担う。
その彼が本家の森藩の跡目を相続することになり、幕府に江戸に出向くよう呼ばれる。
要は、家督相続のため江戸に来て申し開きをせよの仰せであったことだろう。衆利と同藩の一行は、東海道のまだ半ばより手前、伊勢国桑名縄生村(名生村)までやって来ていた。
そのおり、宿にて「発狂失心」に陥り、「近習に斬りつけ負傷させた」ことが公(おおやけ)とされた。そのため、一行は桑名から江戸へ進発不能となってしまい、そのことが幕府の知るところとなる。
どうしてそのような事態になったのかは、現在でもよくわかっていない。あるいは、その宿にて、どこからか重大な報せか命令を受けたのかもしれないし、津山に在るときからの内紛(とりわけ一門の間の複雑な事情があったのは否めない)が昂じて破局を迎えた結果であるのかもしれない。さらには、医師が衆利に朝鮮人参を大量に調合した薬を処方後、衆利本人の様子が急変したとも言われる。
もしそうなら、これから行く先の江戸で、厳しい詰問に応えなければならないとしたら、その不安が精神にも介在した可能性は否定できまい。いずれにせよ、事の真相としては世間をはばかるものであったようで、そのため後々も関係者の口は固く閉ざされ、政治という藪の中に置かれたままになっていった感を否めない。
(続く)
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