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カメ漫だらだら石ちゃん散歩 8・22藤圭子の命日に思う。

2014年08月22日 | 散歩 余暇 趣味 健康 デジカメ

 なぜ、ぼくは藤圭子という70年代ヒットチャート第1位連続何週間も、
を記録したほどの、いわば、メジャーな歌手がこれほど気になるんだろう?

遅れてファンになったからそんなにディープなフアンではない。

それでも、なぜ一声聞いた時からこの人の歌の虜になったんだろう。

 時代の空気に密接に関係することだろうが・・・・

1969年のデビュー直後、

実はぼくは何とも思わなかった。

家で、なんとなく 初の大ヒットアルバム、
夢は夜ひらく を聴いてふふーんと思った。
ジャケットの白いギターを抱えた少女の顔には
若い生気が感じられなかった。

何度か聞いているうちにこの若い女性の声が気になった。

後に、五木寛之氏が これは演歌でなく、怨歌、恨み歌といったと言われるあたりから、ズボンと嵌った。当時、学生運動は盛り上がりも一回後退し、抜き差しならぬ状況下におかれつつあったように思う。

 弱い立場の者たちからの恨み歌、
これにぼくの感情移入を勝手に継ぎ足したのだろうか?

声は今までのどんな歌手のものとも違っていたと思う。
人を惹きつけてやまない声の質は、おそらく浪曲を両親と謡い続けた歴史と無関係ではない。

1970年代からずうっと聴いてきた。
これほど声が変わらないように見える歌手も珍しい。

一時、声が出ないとポリープの手術をしたと風のうわさに聞いた。
そんな頃だった、ある外国の空港で大金を持っていて、あたかも犯罪を犯したかのようにニュースでたたかれた。
一説によると博打三昧の日々だという情報も見た。

 藤圭子よ、どんなに声が出なくても聴きたいファンは幾万幾十万といるのだよ、と伝えたかった。
多少の縁はあった。ありがたいことに、フォトグラファーとして
ある総合雑誌で、グラビアで特集を組んで載せた。
何のことはない、ぼくが藤圭子を好きだから、編集部のデスクを口説いて
口絵のページにした。評判は良かった。
十万部も売れているその出版社の雑誌の編集者は好評に喜んでいた。
何処の編集部に行っても、あれ良かったですよ、云われた。
その雑誌は読者から常にアンケートをとっていたのだ。

事実、去年に突然に亡くなられてそのことは実証された。幾十万では効かないだろう、幾百万単位でCDを買いたい、聴きたいというファンは
存在することと想像する。

しかし
ファンと言えども
不世出の歌手の悩みまでは知る由もなかった。

亡くなって、ある日
ぼくは郊外の温泉に行こうと道路を歩いていた。
そこで突然に、大きな音量で藤圭子の歌が聞こえてきた。
何事かと思った。
真っ黒いダンプカーがでっかい音量で、藤圭子の演歌を流したまま走り去ろうとしていた。

 You Tubeを、亡くなった前も後も時々見ているぼくも、
いつも感心することがある。それは、書き込むファンの声の誠実さを感じさせるものが多かったという事だ。

 ほとんどのアルバムを持っているつもりのぼくも実は持っていなかった。

初のリサイタルアルバムなんか、感動なんてものじゃあない。
今の20歳の歌手にこんな豊かな音楽を、期待できますか?

 書家の某氏が、サライという雑誌で述べている賛辞には正直驚嘆した。
この日本のいまの時代に絶望をして、自死を選んだのだろうという趣旨のことが書かれてあった。


 藤圭子よ、ゆっくりお休みください。
安らかにお眠りください。

ぼくは生きて藤圭子を聴ける時代に巡り合えて、本当に良かった。
人は生きる時代を選べないというなら、なおさら感謝致します。

             藤圭子さん、ありがとう。


 
         イメージ・文 石郷岡まさを


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