gooブログはじめました!散歩写真の達人 石ちゃんのフォトエッセイ ーーー30年の私写真散歩 少しずつお見せしましょう。

「東京原色図鑑」散歩とスナップ写真1万点。
80年代の東京も。大好きな写真家に、濱谷浩、石元泰博、森山大道氏等。

カメ漫だらだら石ちゃん散歩  父の日に思う事など書いてみます。

2020年06月19日 | 散歩 余暇 趣味 健康 デジカメ
父が亡くなったとの知らせに、列車に乗って兄と一緒に故郷に帰ったのは今から40年も前のことだ。
当時ぼくは、東京で勤め人をしていた。兄も同じ。

以前から、家庭内のちょっとした事故により怪我をして、寝たきりになり病気が進んで具合が悪いことは聞いていた。
当時、ぼくは残業が多く無能なサラリーマンであったが田舎にちょくちょく帰るという事もせずに日を送り、送りしていた。ある時に義理の姉からだったか会社へ電話をいただき、父があまり良くないという事を聞いた。

兄とは、帰りの列車の中ではあまり語り合わなかった。それぞれに思いを込めて父の記憶などをあたためていたのだろう。たぶん新幹線もまだ通っていなかった。上野から特急列車にとび乗ったのだ。

実家について、父の亡骸と対面してぼくは初めて泣いた。旺旺泣けて泣けて・・・初めて肉親の死に立ち会ったのだった。いや待てよ、泣きに泣いたのは葬式の時だったかもしれない。きっとそうだ。田舎のお葬式で、初めて、近所の皆さんの「百万遍」というのか、大きな数珠を皆さんで回しながらお念仏を唱えるという体験も。これには新鮮な驚きがありましたね。
母は気丈に葬儀を務めた。父に心からつかえた人であった。明治の男と大正生まれの女はまあ見事にしっかりしていたなあ。

父の思い出で、一番記憶に残っているのは、18歳の頃だと思う。
大学に受かって、たしか合否をラジオで聞いていたのだと思うが、合格者の名前がラジオで読み上げられたとき、母が目ざとく、耳ざとくというべきかぼくの名前を聞き、父に報告した時だ、「えらい」と一言言われた。

こんなことがえらく記憶に残っているほど、ぼくは父とじっくり話し合うとかそんなことが…ない人間であった。青年期によくあるでしょ、道で父と出会っても、二言三言も話すこともなく、・・・どうしてもっと父といろんなことを教えてもらうとかしなかったのだろう。父もきっとそんな風に思っていたのかもしれなかった。悪いことをした。
裸一貫で事業を起こし、たくさんの子供を養って、ぼくには兄弟が8人もいるのだ、そして大いにお酒を飲んだり、まあ、兄曰く、最後の豪傑、という表現がぴったりの人であった。

40年もたつのかあ。
お父さん、ごめんなさいね。
あなたのように、豪傑とは言わなくとも、堂々ときっぱり生きたいと思っております。

ぼくの父は大きな人であった。母を愛していたと思う。母も、亭主に尽くすことを第一に考えていたと思う。
そんな男の息子が、ちまちまして、まったく面目もないが、きっと何かでお役に立ちたいと思うているのでありますよ。

フォト・文 石郷岡まさを