フォトをどかぁーんとアップ、見てくださいな。
いずれもいろんなテクニックを使っています。
ぼくは写真を、真を写す、という風には思っていませんで、
心にこういう風に見えたんですけれど、とか、
さらに見えたというイメージに近ずけるために、あらゆるテクニックを使うことを否定しません。おっそろしく勝手な言い方でいえば、心象風景を撮っているんですね、実は。
心象風景ですって?
あはは、それはやや傲慢に聞こえるかもしれませんが、
宮澤賢治の言う、心象スケッチという考えに近いのかもしれません。
あるとき、と言っても二十数年も前のことですが、
実弟の宮沢清六さんは、心象スケッチとは?と聞くぼくにこう説明してくれたのでした。
「それは、デッサンなのっす。」
花巻弁で、朴訥に話してくれたその内容に深く頷いたことをぼくは覚えております。
他にも清六さんの思い出はいっぱいあるのですが、機会があったらまた書きましょう。
賢治の作品は、何度も練られたものが多く、後の研究者も、原稿のインクの色などで作品の
書かれた順序などを決められたということはあったみたいですね。
どうも、そういう癖がぼくにはあるみたいで、フィルムの時代から、ぼくはどんどんフィルターを使ったりしていましたっけ。何しろ、真を写すもの等という縛りがない分、まあありていに言えば心にはこう見えたんですと、色もちがえてつくったりすることに抵抗がない訳なんですね。
明治期に、写真というものが輸入されて、「フォトグラフィー」という語に真実を写すなどという訳を考え出した人が後々にまで縛りを・・・というぼくの写真論もただ美しいものを美しくお見せしたいというそれだけのことなんですがね。昔からぼくはそういうスタイルだったのです。最近はややモノクロームの美しさにやっと目覚めたりして、どうもぼくって人様より数十年遅れているのかもわかりません。
写真・文 石郷岡まさを
img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/56/573bcfcc6ad98c136136b374cf582bef.jpg" border="0">。
オールフォト・文 石郷岡まさを
いずれもいろんなテクニックを使っています。
ぼくは写真を、真を写す、という風には思っていませんで、
心にこういう風に見えたんですけれど、とか、
さらに見えたというイメージに近ずけるために、あらゆるテクニックを使うことを否定しません。おっそろしく勝手な言い方でいえば、心象風景を撮っているんですね、実は。
心象風景ですって?
あはは、それはやや傲慢に聞こえるかもしれませんが、
宮澤賢治の言う、心象スケッチという考えに近いのかもしれません。
あるとき、と言っても二十数年も前のことですが、
実弟の宮沢清六さんは、心象スケッチとは?と聞くぼくにこう説明してくれたのでした。
「それは、デッサンなのっす。」
花巻弁で、朴訥に話してくれたその内容に深く頷いたことをぼくは覚えております。
他にも清六さんの思い出はいっぱいあるのですが、機会があったらまた書きましょう。
賢治の作品は、何度も練られたものが多く、後の研究者も、原稿のインクの色などで作品の
書かれた順序などを決められたということはあったみたいですね。
どうも、そういう癖がぼくにはあるみたいで、フィルムの時代から、ぼくはどんどんフィルターを使ったりしていましたっけ。何しろ、真を写すもの等という縛りがない分、まあありていに言えば心にはこう見えたんですと、色もちがえてつくったりすることに抵抗がない訳なんですね。
明治期に、写真というものが輸入されて、「フォトグラフィー」という語に真実を写すなどという訳を考え出した人が後々にまで縛りを・・・というぼくの写真論もただ美しいものを美しくお見せしたいというそれだけのことなんですがね。昔からぼくはそういうスタイルだったのです。最近はややモノクロームの美しさにやっと目覚めたりして、どうもぼくって人様より数十年遅れているのかもわかりません。
写真・文 石郷岡まさを
img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/56/573bcfcc6ad98c136136b374cf582bef.jpg" border="0">。
オールフォト・文 石郷岡まさを