かすみ草
(一)
〈もうこんな時間。幸弘さん、ついに来なかった〉
優美子は腕時計を見て独り言を呟いた。
優美子はお互いの両親同士で決められた婚約者の藤岡幸弘と、青山にある行きつけの日本料理店で待ち合わせをしていた。今日は幸弘の誕生日であった。優美子は幸弘に渡すつもりで用意した誕生日プレゼントの小さな包みをバッグから取り出してリボンの結び目を直して、再びバッグの中にしまった。たぶん二度と幸弘には渡すことはないだろうという予感がその時、優美子の脳裏をよぎった。
「ごめんなさい。もう看板なのにお店を開けてもらっていて」
優美子はカウンターの中の板前、石井に話しかけた。
「いや、気にしなくていいっスよ。どうせ俺一人っスから」
幸弘と優美子はこの小料理屋をよく利用していた。その店は“新日本料理店”とでもいうのだろうか。青山辺りの店には珍しく、安価で気のきいた料理を食べさせる店であった。
板前の石井とも顔馴染みになっていたのである。
「ごちそうさま。今日は遅くまですみませんでした」
優美子が店を出ようとした時、板前の石井が呼び止めた。
「ちょっと待っててください。もう遅いから送りますよ。それに雨が降ってきたみたいだから。傘、持ってないっスよね?!」
石井は店の明かりを消し、出入り口の引き戸に鍵をかけ表に出た。
タクシーの拾える通りまで二人は一つの傘で歩きだした。
「肩、濡れませんか?」
石井は優美子の肩に手を置き自分のほうに引き寄せた。石井の手はゴツゴツとしていたが、その手からはほんのりと暖かさが伝わってきた。
〈このままずっとタクシーが捕まらなければいい〉
優美子がふとそんなことを心に思ったのは、石井の暖かい手だけのせいだったのか。
「タクシー、捕まりませんね。雨のせいかな?」
石井は通りに目をやり、落ちつきなく二本目の煙草に火をつけた。店を出る時、カウンターの上に飾ってあった一束のかすみ草に目が留まり持ってきた。
石井はその店の主人ではなかったが、店は石井にほとんど任せられていたからそんなことも許されたのである。そのかすみ草をぶっきらぼうに差し出した。
「店のカウンターにあったんスけど、よかったらどうぞ」
「えっ、いいんですか? 私、かすみ草が大好きなの。ありがとう」
優美子は、石井が差し出したかすみ草を嬉しそうに受け取った。
「俺、花の名前はほとんどわからないっスから。花なんて柄じゃないし」
石井は照れ笑いを浮かべて言った。
店からずっと握ってきたのだろう、かすみ草はほんのりと温かった。
そのぬくもりは石井の手そのものであった。
タクシーはなかなか捕まらない。
一つの傘で寄り添うことが気まずいかのように、石井は三本目の煙草を取り出し、思い出したかのように口を開いた。
「そうだ。もしよかったら『ランチタイム』にも来てくださいよ。日替りの昼定食、安くてボリュームもあってけっこう評判がいいんスよ。一品多くするとか、特別にサービスしちゃいますよ」
石井は屈託のない笑顔を見せた。
「ほんと? 嬉しい。でもあんまり食べると太っちゃう。これでもダイエットしてるんですよ」
優美子もつられて微笑んだ。
「そういえばまだお名前を知らなかったですね。いつまでも“板前さん”じゃ変だし」
優美子も思い出したかのように言った。
「そうっスね。俺、石井って言います。石井裕二です。キミはエーと…、ゆみこさん?でしたっけ?!」
「ピンポーン! 風間優美子です。これからもよろしく」
「俺のほうこそ店共々どうぞよろしく」
ちょっとおどけた二人は顔を見合わせて照れ笑いを浮かべた。
そんな短い自己紹介を済ませたところへタクシーが止まった。
(二)
石井にタクシーで家まで送ってもらった日からしばらくして、優美子は一人で昼間に石井のいる店に行くようになった。それは幸弘には内緒のことであった。日替りの昼定食を食べながら、優美子は石井と他愛もない話しをした。それだけのことなのに幸弘といる時には感じられない心の安らぎを覚えた。話してみると、音楽の好みは少しちがうけれど、ひいきのプロ野球チームは同じことがわかった。いつのまにか二人は、好きなミュージシャンのコンサートやプロ野球の試合に行くことまで約束していた。こんなにも簡単に親しくなることができた自分に、優美子は驚いた。それは石井の持つ優しく温かい人柄がそうさせたのかもしれない。
石井の中学の後輩である、宅配ドライバーの岡野マサルが以前、店に来て言っていたことを思い出した。
「石井さんは優しいセンパイっス。ダチや後輩をチョー大事にしてかわいがってくれたし、ゾクのアタマやってた時も“正義の味方”っていうか、義理人情に厚くて、弱い者やカタギの者には絶対に手ぇ出さなかったんスよ。オレたちにパシリはさせなかったし、カツアゲなんかやったらゾクから出ていけ!って言ってたんスよ」
優美子はいつのまにか、素朴だが優しい石井に魅かれていったのである。
幸弘とはお見合いで両家のなすがままに進められ、そのまま結婚までのレールをたどるだけであった。今まではそんな自分の運命に何の疑問も持たずにいた優美子であった。石井に出会うまでは。
〈幸弘さんという人がいるのに、石井さんとコンサートや野球に行くなんていけない優美子。この浮気者め!〉
優美子は心の中でちょっとふざけて、自分の揺れ動く気持ちを戒めた。
初めは石井に対する気持ちがどうということのない、ただの友達感覚であると思っていた。そう思いたかった。そうでも思わなければ幸弘に対して失礼だという気がした。だが、心は嘘をつけない。優美子と石井は次第に親しくなっていった。
あの雨の夜から一週間ほど経った頃であった。あの夜、店に来なかった理由を幸弘からは何も言わなかった。それどころか
「何で来なかったの? 電話くらいしてくれたらよかったのに。板前の石井さんが看板の後までお店を開けていてくれたのよ」
そう言った優美子に対して幸弘は
「うるさいな。女房気取りでなんだ!」と逆になじった。そのうえ、
「石井、石井って何だ。族上がりのあの板前が好きなのか? 族のアタマやってた男だぞ。高校もほとんど行ってなかったそうじゃないか。そんなヤツが好きなのか? K大大学院出の弁護士のこのオレよりも族上がりの板前のほうがいいっていうのか?!」
と言いながら、初めて優美子の体を無理矢理、求めてきた。優美子は咄嗟に幸弘を突っぱねてしまった。そんな風に振る舞うことしかできなかった自分に対して、また幸弘がそんな気持ちになったことに対しても哀しくなった。
幸弘はもともと自分の感情のままに行動するような人ではなかった。いつでも優しく優美子を見守っていてくれた。一体どこでどのようにして、二人の心は壊れてしまったのだろうか。
あの日、幸弘の求めを拒んだ優美子ではあったが、今、裕二には素直に心を開くことができたのである。二人がひとつになった時、大きな波が押し寄せた。
そんなことが幸弘にうすうす感づかれるようになり、それ以来、幸弘は優美子を誘わなくなっていた。
ふと気がつくと優美子の心の中には、いつでも裕二がいた。もう優美子の笑顔は幸弘には届かなくなっていた。
幸弘と優美子の間に溝ができ、お互いに距離をおくようになってから優美子と石井はつきあうようになった。だが、二人の気持ちとは裏腹に優美子の両親は二人がつきあうことに猛反対であった。
「暴走族上がりの板前なんてとんでもない! 絶対に許しませんからね。高校もろくに行っていないというじゃないの?! 幸弘さんのどこが気に入らないというの? 家柄も学歴も申し分ないでしょ。世間には“釣り合い”というものがあるのよ。ママたちに恥をかかせる気なの?『風間さんのお嬢さんは何でも、暴走族上がりで高校中退の板前さんと一緒になったんですってね』そんなことが広まったらパパの大学病院での外科部長という立場上、世間で肩身が狭くなることくらいわかるでしょ!」
何かにつけて優美子の両親は石井のことを悪く言い、世間体のことを気にするのであった。
確かに幸弘はK大学の大学院を卒業している。教授の信頼も厚く、将来も約束されている。幸弘の父はT大出の敏腕弁護士としてならし、世間的地位や名誉、富さえもある。藤岡家は代々続く名門家系の家柄だ。むろん幸弘は父の後継者としての期待を一身に受けている。ただ、T大に落ちたという幸弘自身の父に対する内面的なコンプレックスを除けば。
幸弘はK大大学院卒の見栄えのする、友達にも自慢の彼であった。
一年前までは優美子には幸弘しか見えなかった。あの雨の夜がなければ、幸弘と優美子は皆に祝福されて、うわべだけは幸せな結婚をしていたかもしれない。石井裕二という板前の存在は全く気にすることもなく。
天候は人の運命さえも翻弄してしまったのである。
(三)
優美子は両親に石井とのことを反対された数日後、裕二に手紙を書いた。
『裕二さん。つきあい始めてから早いもので、もう一年になるのですね。一年の間にはいろいろなことがありました。二人で初めて行った、神宮球場での阪神戦。“ラッキーセブン”にジェット風船を飛ばして『六甲おろし』を歌った直後の新庄選手のホームラン。ビールで乾杯したけれど、残念ながらタイガースは八回に逆転されて負けてしまいましたね。永ちゃんのコンサートに連れていかれて、初めはちょっとビビったけれど、じっくりと聞いた矢沢永吉の歌。バラードがとてもよくて涙が出ました。そんな裕二さんがまさか、さだまさしさんのファンだなんてちょっぴり意外だったけど、ちょうど私の誕生日のさだまさしコンサートはいつまでも忘れることはないでしょう。裕二さんの後輩のマサルさんが言っていたように、裕二さんはほんとに誰にでも優しくて(女の人にもというのは困りものだけど)温かい人柄の“正義の味方”なんですね。こんな私も少しは大人になれたような気がします。それもこれも裕二さんに出会えたからです。いつのまにか私の心の中には裕二さんがいまし
た。幸弘さんとの仲がぎくしゃくして、もう元の二人には戻れないと思うようになってきた頃から、正確に言えば一年前のあの夜から。周りの人はいろいろと言うけれど、生まれも育ちもまるで違う二人だからこそ魅かれ合ったのかもしれません。もうこの気持ちを裏切ることはできません。誰が何と言おうと、どんなに反対されようと、ずっと裕二さんについていきます。
追伸。嬉しいお知らせがあります。それは今度会った時のお楽しみ』
この手紙の数日後、裕二は優美子と会った。優美子の中に芽生えた小さ
な生命のことを聞かされ、裕二は優美子と一緒になろうと決心をした。
その足で裕二は優美子の両親に会いに行き、
「優美子さんと一緒にさせてください」と頭を下げた。
だが優美子の両親は
「とんでもない!」の一点張りで取り付くしまもない。だが、裕二は
「優美子さんのお腹には既に子どもが宿っているんです。優美子さんと子どものためにも一緒にさせてください」
と言って土下座までして頼みこんだ。
優美子が妊娠しているという事実を初めて知らされた優美子の両親は、このことが嘘であってほしいというような口調で
「本当なの?」と優美子に問いただした。
優美子は少し伏し目がちに黙ってうなずいた。
裕二の一言に優美子の両親は少し動揺した様子を窺わせたが、
「優美子には決まった方がいるのです。いくら優美子が子どもを身ごもっているからと土下座されても、どこの誰かもわからないような、まして高校もろくに行っていない暴走族上がりのあなたのような人と優美子を一緒にさせるわけにはいきません。子どもはこちらで堕胎させます。ですからもうこれ以上は優美子に近ずかないでください。お金でしたら用意させます。いくら欲しいのかおっしゃって」
と、裕二にきつい言葉を投げつけた。そこまで言うほど優美子の両親は二人の仲を許そうとはしなかった。裕二は肩と唇を震わせ、土下座したままであった。
「ひどい! そんなことを裕二さんに言うなんてあまりにもひどすぎる。いくらママやパパだって許さない。裕二さんに誤って! 決まった人が
いるっていうけれど、それはママたちが勝手に決めていることでしょ?!幸弘さんとはもう一緒に歩いていけないの。確かにあの日までは、裕二さんを知るまでは幸弘さんについていこうと思っていた。でも、やっぱりダメだった。私の心の中には裕二さんしか住めなくなっていたの。どんなに反対されても、私は裕二さんと一緒になります。このお腹の中の赤ちゃんも二人で立派に育てます」
あまりに勝手でひどい両親の言葉に、優美子は毅然とした態度で言った。物心ついてから初めて、両親に反抗した優美子であった。
数日後、裕二から手紙が届いた。
『優美子。俺の気持ちは変わらない。一年前の夜、あの日もしも藤岡さんが店に来ていたら、もしも雨が降らなければ、今の二人の関係はなかっただろう。あれは運命のイタズラなのか。優美子のことを愛する気持ちに生まれも育ちも関係ないと思っている。いつかきっと優美子のご両親もわかってくれると信じている。優美子のご両親は優美子のことがとても大事でかわいくて、心配でしょうがないんだよ。そんなにも大切に育てられたお嬢様の優美子が俺は少しばかり羨ましい。何もわざわざ苦労をするために俺と一緒にならなくてもいいじゃないか。優美子のご両親が望むように藤岡さんと一緒になることが優美子にとっては一番いいのかもしれないよ。今の俺にはこんな“駆け落ち”という方法しか思い浮かばないんだから。知っている人が誰もいない、まるっきり知らない土地で暮してゆくことは大変かもしれない。これからの二人の生活は決して裕福なものではない。新しい服やブランド物のバッグの一つも買ってはあげられない。優美子はスーパーの安売りのチラシが気になり、そこには口紅もささない優美子の姿が鏡に映っているだろう。けれどそれを承知の上で優美子はついてきてくれると言う。こんな学歴もない、族上がりの俺がマジでいいと言う。お嬢様育ちの優美子に苦労をかけさせたくはないから俺は精一杯、頑張るよ。優美子のご両親に認めてもらえる日が、藤岡さんでなくて俺と一緒にさせてよかったと、ご両親に思ってもらえる時がくるまで。優美子を幸せにするために。優美子の中に芽生えた小さな生命を守るために。子どもが産まれたらきっと、ご両親も許してくれるだろう。孫がかわいくない親はいないというからね。
いつの日にか俺は、優美子の大好きなかすみ草を両手で抱えきれないほ
ど贈ろう。優美子はお父さんと腕を組んで俺の待つところまで、かすみ草の花束を手にしてヴァージンロードを歩いてくるんだ。その後ろには小さな天使がついてくるだろうね。
追伸。優美子のおかげで花の名前が少しはわかるようになったよ』
この手紙の数日後、二人は住み慣れた東京をあとにして、山陰のひなびた町へと向かった。店の主人の遠縁にあたる夫婦が経営する、温泉旅館の板前として、住み込みで働くことを決めた裕二であった。優美子と生まれてくる子どものために。少しばかりお腹の目立ちはじめた優美子をいたわるように、寝台特急『出雲』に乗り込んだ。発車のベルが鳴り、列車は静かにプラットホームを離れていった。発車のベルはまるで二人のウェディングベルのようでもあった。
【終】
立原 麻沙
† ‡ † ‡ † ‡ † ‡ † ‡
キャスト
【配役】
風間優美子……酒井美紀 優美子の父……清水紘治
石井裕二………東山紀之 優美子の母……山口果林
藤岡幸弘………椎名桔平 幸弘の父………仲谷昇
マサル…………堂本 剛 幸弘の母………野際陽子
〈BGM〉……新沼謙治「ヘッドライト」
(一)
〈もうこんな時間。幸弘さん、ついに来なかった〉
優美子は腕時計を見て独り言を呟いた。
優美子はお互いの両親同士で決められた婚約者の藤岡幸弘と、青山にある行きつけの日本料理店で待ち合わせをしていた。今日は幸弘の誕生日であった。優美子は幸弘に渡すつもりで用意した誕生日プレゼントの小さな包みをバッグから取り出してリボンの結び目を直して、再びバッグの中にしまった。たぶん二度と幸弘には渡すことはないだろうという予感がその時、優美子の脳裏をよぎった。
「ごめんなさい。もう看板なのにお店を開けてもらっていて」
優美子はカウンターの中の板前、石井に話しかけた。
「いや、気にしなくていいっスよ。どうせ俺一人っスから」
幸弘と優美子はこの小料理屋をよく利用していた。その店は“新日本料理店”とでもいうのだろうか。青山辺りの店には珍しく、安価で気のきいた料理を食べさせる店であった。
板前の石井とも顔馴染みになっていたのである。
「ごちそうさま。今日は遅くまですみませんでした」
優美子が店を出ようとした時、板前の石井が呼び止めた。
「ちょっと待っててください。もう遅いから送りますよ。それに雨が降ってきたみたいだから。傘、持ってないっスよね?!」
石井は店の明かりを消し、出入り口の引き戸に鍵をかけ表に出た。
タクシーの拾える通りまで二人は一つの傘で歩きだした。
「肩、濡れませんか?」
石井は優美子の肩に手を置き自分のほうに引き寄せた。石井の手はゴツゴツとしていたが、その手からはほんのりと暖かさが伝わってきた。
〈このままずっとタクシーが捕まらなければいい〉
優美子がふとそんなことを心に思ったのは、石井の暖かい手だけのせいだったのか。
「タクシー、捕まりませんね。雨のせいかな?」
石井は通りに目をやり、落ちつきなく二本目の煙草に火をつけた。店を出る時、カウンターの上に飾ってあった一束のかすみ草に目が留まり持ってきた。
石井はその店の主人ではなかったが、店は石井にほとんど任せられていたからそんなことも許されたのである。そのかすみ草をぶっきらぼうに差し出した。
「店のカウンターにあったんスけど、よかったらどうぞ」
「えっ、いいんですか? 私、かすみ草が大好きなの。ありがとう」
優美子は、石井が差し出したかすみ草を嬉しそうに受け取った。
「俺、花の名前はほとんどわからないっスから。花なんて柄じゃないし」
石井は照れ笑いを浮かべて言った。
店からずっと握ってきたのだろう、かすみ草はほんのりと温かった。
そのぬくもりは石井の手そのものであった。
タクシーはなかなか捕まらない。
一つの傘で寄り添うことが気まずいかのように、石井は三本目の煙草を取り出し、思い出したかのように口を開いた。
「そうだ。もしよかったら『ランチタイム』にも来てくださいよ。日替りの昼定食、安くてボリュームもあってけっこう評判がいいんスよ。一品多くするとか、特別にサービスしちゃいますよ」
石井は屈託のない笑顔を見せた。
「ほんと? 嬉しい。でもあんまり食べると太っちゃう。これでもダイエットしてるんですよ」
優美子もつられて微笑んだ。
「そういえばまだお名前を知らなかったですね。いつまでも“板前さん”じゃ変だし」
優美子も思い出したかのように言った。
「そうっスね。俺、石井って言います。石井裕二です。キミはエーと…、ゆみこさん?でしたっけ?!」
「ピンポーン! 風間優美子です。これからもよろしく」
「俺のほうこそ店共々どうぞよろしく」
ちょっとおどけた二人は顔を見合わせて照れ笑いを浮かべた。
そんな短い自己紹介を済ませたところへタクシーが止まった。
(二)
石井にタクシーで家まで送ってもらった日からしばらくして、優美子は一人で昼間に石井のいる店に行くようになった。それは幸弘には内緒のことであった。日替りの昼定食を食べながら、優美子は石井と他愛もない話しをした。それだけのことなのに幸弘といる時には感じられない心の安らぎを覚えた。話してみると、音楽の好みは少しちがうけれど、ひいきのプロ野球チームは同じことがわかった。いつのまにか二人は、好きなミュージシャンのコンサートやプロ野球の試合に行くことまで約束していた。こんなにも簡単に親しくなることができた自分に、優美子は驚いた。それは石井の持つ優しく温かい人柄がそうさせたのかもしれない。
石井の中学の後輩である、宅配ドライバーの岡野マサルが以前、店に来て言っていたことを思い出した。
「石井さんは優しいセンパイっス。ダチや後輩をチョー大事にしてかわいがってくれたし、ゾクのアタマやってた時も“正義の味方”っていうか、義理人情に厚くて、弱い者やカタギの者には絶対に手ぇ出さなかったんスよ。オレたちにパシリはさせなかったし、カツアゲなんかやったらゾクから出ていけ!って言ってたんスよ」
優美子はいつのまにか、素朴だが優しい石井に魅かれていったのである。
幸弘とはお見合いで両家のなすがままに進められ、そのまま結婚までのレールをたどるだけであった。今まではそんな自分の運命に何の疑問も持たずにいた優美子であった。石井に出会うまでは。
〈幸弘さんという人がいるのに、石井さんとコンサートや野球に行くなんていけない優美子。この浮気者め!〉
優美子は心の中でちょっとふざけて、自分の揺れ動く気持ちを戒めた。
初めは石井に対する気持ちがどうということのない、ただの友達感覚であると思っていた。そう思いたかった。そうでも思わなければ幸弘に対して失礼だという気がした。だが、心は嘘をつけない。優美子と石井は次第に親しくなっていった。
あの雨の夜から一週間ほど経った頃であった。あの夜、店に来なかった理由を幸弘からは何も言わなかった。それどころか
「何で来なかったの? 電話くらいしてくれたらよかったのに。板前の石井さんが看板の後までお店を開けていてくれたのよ」
そう言った優美子に対して幸弘は
「うるさいな。女房気取りでなんだ!」と逆になじった。そのうえ、
「石井、石井って何だ。族上がりのあの板前が好きなのか? 族のアタマやってた男だぞ。高校もほとんど行ってなかったそうじゃないか。そんなヤツが好きなのか? K大大学院出の弁護士のこのオレよりも族上がりの板前のほうがいいっていうのか?!」
と言いながら、初めて優美子の体を無理矢理、求めてきた。優美子は咄嗟に幸弘を突っぱねてしまった。そんな風に振る舞うことしかできなかった自分に対して、また幸弘がそんな気持ちになったことに対しても哀しくなった。
幸弘はもともと自分の感情のままに行動するような人ではなかった。いつでも優しく優美子を見守っていてくれた。一体どこでどのようにして、二人の心は壊れてしまったのだろうか。
あの日、幸弘の求めを拒んだ優美子ではあったが、今、裕二には素直に心を開くことができたのである。二人がひとつになった時、大きな波が押し寄せた。
そんなことが幸弘にうすうす感づかれるようになり、それ以来、幸弘は優美子を誘わなくなっていた。
ふと気がつくと優美子の心の中には、いつでも裕二がいた。もう優美子の笑顔は幸弘には届かなくなっていた。
幸弘と優美子の間に溝ができ、お互いに距離をおくようになってから優美子と石井はつきあうようになった。だが、二人の気持ちとは裏腹に優美子の両親は二人がつきあうことに猛反対であった。
「暴走族上がりの板前なんてとんでもない! 絶対に許しませんからね。高校もろくに行っていないというじゃないの?! 幸弘さんのどこが気に入らないというの? 家柄も学歴も申し分ないでしょ。世間には“釣り合い”というものがあるのよ。ママたちに恥をかかせる気なの?『風間さんのお嬢さんは何でも、暴走族上がりで高校中退の板前さんと一緒になったんですってね』そんなことが広まったらパパの大学病院での外科部長という立場上、世間で肩身が狭くなることくらいわかるでしょ!」
何かにつけて優美子の両親は石井のことを悪く言い、世間体のことを気にするのであった。
確かに幸弘はK大学の大学院を卒業している。教授の信頼も厚く、将来も約束されている。幸弘の父はT大出の敏腕弁護士としてならし、世間的地位や名誉、富さえもある。藤岡家は代々続く名門家系の家柄だ。むろん幸弘は父の後継者としての期待を一身に受けている。ただ、T大に落ちたという幸弘自身の父に対する内面的なコンプレックスを除けば。
幸弘はK大大学院卒の見栄えのする、友達にも自慢の彼であった。
一年前までは優美子には幸弘しか見えなかった。あの雨の夜がなければ、幸弘と優美子は皆に祝福されて、うわべだけは幸せな結婚をしていたかもしれない。石井裕二という板前の存在は全く気にすることもなく。
天候は人の運命さえも翻弄してしまったのである。
(三)
優美子は両親に石井とのことを反対された数日後、裕二に手紙を書いた。
『裕二さん。つきあい始めてから早いもので、もう一年になるのですね。一年の間にはいろいろなことがありました。二人で初めて行った、神宮球場での阪神戦。“ラッキーセブン”にジェット風船を飛ばして『六甲おろし』を歌った直後の新庄選手のホームラン。ビールで乾杯したけれど、残念ながらタイガースは八回に逆転されて負けてしまいましたね。永ちゃんのコンサートに連れていかれて、初めはちょっとビビったけれど、じっくりと聞いた矢沢永吉の歌。バラードがとてもよくて涙が出ました。そんな裕二さんがまさか、さだまさしさんのファンだなんてちょっぴり意外だったけど、ちょうど私の誕生日のさだまさしコンサートはいつまでも忘れることはないでしょう。裕二さんの後輩のマサルさんが言っていたように、裕二さんはほんとに誰にでも優しくて(女の人にもというのは困りものだけど)温かい人柄の“正義の味方”なんですね。こんな私も少しは大人になれたような気がします。それもこれも裕二さんに出会えたからです。いつのまにか私の心の中には裕二さんがいまし
た。幸弘さんとの仲がぎくしゃくして、もう元の二人には戻れないと思うようになってきた頃から、正確に言えば一年前のあの夜から。周りの人はいろいろと言うけれど、生まれも育ちもまるで違う二人だからこそ魅かれ合ったのかもしれません。もうこの気持ちを裏切ることはできません。誰が何と言おうと、どんなに反対されようと、ずっと裕二さんについていきます。
追伸。嬉しいお知らせがあります。それは今度会った時のお楽しみ』
この手紙の数日後、裕二は優美子と会った。優美子の中に芽生えた小さ
な生命のことを聞かされ、裕二は優美子と一緒になろうと決心をした。
その足で裕二は優美子の両親に会いに行き、
「優美子さんと一緒にさせてください」と頭を下げた。
だが優美子の両親は
「とんでもない!」の一点張りで取り付くしまもない。だが、裕二は
「優美子さんのお腹には既に子どもが宿っているんです。優美子さんと子どものためにも一緒にさせてください」
と言って土下座までして頼みこんだ。
優美子が妊娠しているという事実を初めて知らされた優美子の両親は、このことが嘘であってほしいというような口調で
「本当なの?」と優美子に問いただした。
優美子は少し伏し目がちに黙ってうなずいた。
裕二の一言に優美子の両親は少し動揺した様子を窺わせたが、
「優美子には決まった方がいるのです。いくら優美子が子どもを身ごもっているからと土下座されても、どこの誰かもわからないような、まして高校もろくに行っていない暴走族上がりのあなたのような人と優美子を一緒にさせるわけにはいきません。子どもはこちらで堕胎させます。ですからもうこれ以上は優美子に近ずかないでください。お金でしたら用意させます。いくら欲しいのかおっしゃって」
と、裕二にきつい言葉を投げつけた。そこまで言うほど優美子の両親は二人の仲を許そうとはしなかった。裕二は肩と唇を震わせ、土下座したままであった。
「ひどい! そんなことを裕二さんに言うなんてあまりにもひどすぎる。いくらママやパパだって許さない。裕二さんに誤って! 決まった人が
いるっていうけれど、それはママたちが勝手に決めていることでしょ?!幸弘さんとはもう一緒に歩いていけないの。確かにあの日までは、裕二さんを知るまでは幸弘さんについていこうと思っていた。でも、やっぱりダメだった。私の心の中には裕二さんしか住めなくなっていたの。どんなに反対されても、私は裕二さんと一緒になります。このお腹の中の赤ちゃんも二人で立派に育てます」
あまりに勝手でひどい両親の言葉に、優美子は毅然とした態度で言った。物心ついてから初めて、両親に反抗した優美子であった。
数日後、裕二から手紙が届いた。
『優美子。俺の気持ちは変わらない。一年前の夜、あの日もしも藤岡さんが店に来ていたら、もしも雨が降らなければ、今の二人の関係はなかっただろう。あれは運命のイタズラなのか。優美子のことを愛する気持ちに生まれも育ちも関係ないと思っている。いつかきっと優美子のご両親もわかってくれると信じている。優美子のご両親は優美子のことがとても大事でかわいくて、心配でしょうがないんだよ。そんなにも大切に育てられたお嬢様の優美子が俺は少しばかり羨ましい。何もわざわざ苦労をするために俺と一緒にならなくてもいいじゃないか。優美子のご両親が望むように藤岡さんと一緒になることが優美子にとっては一番いいのかもしれないよ。今の俺にはこんな“駆け落ち”という方法しか思い浮かばないんだから。知っている人が誰もいない、まるっきり知らない土地で暮してゆくことは大変かもしれない。これからの二人の生活は決して裕福なものではない。新しい服やブランド物のバッグの一つも買ってはあげられない。優美子はスーパーの安売りのチラシが気になり、そこには口紅もささない優美子の姿が鏡に映っているだろう。けれどそれを承知の上で優美子はついてきてくれると言う。こんな学歴もない、族上がりの俺がマジでいいと言う。お嬢様育ちの優美子に苦労をかけさせたくはないから俺は精一杯、頑張るよ。優美子のご両親に認めてもらえる日が、藤岡さんでなくて俺と一緒にさせてよかったと、ご両親に思ってもらえる時がくるまで。優美子を幸せにするために。優美子の中に芽生えた小さな生命を守るために。子どもが産まれたらきっと、ご両親も許してくれるだろう。孫がかわいくない親はいないというからね。
いつの日にか俺は、優美子の大好きなかすみ草を両手で抱えきれないほ
ど贈ろう。優美子はお父さんと腕を組んで俺の待つところまで、かすみ草の花束を手にしてヴァージンロードを歩いてくるんだ。その後ろには小さな天使がついてくるだろうね。
追伸。優美子のおかげで花の名前が少しはわかるようになったよ』
この手紙の数日後、二人は住み慣れた東京をあとにして、山陰のひなびた町へと向かった。店の主人の遠縁にあたる夫婦が経営する、温泉旅館の板前として、住み込みで働くことを決めた裕二であった。優美子と生まれてくる子どものために。少しばかりお腹の目立ちはじめた優美子をいたわるように、寝台特急『出雲』に乗り込んだ。発車のベルが鳴り、列車は静かにプラットホームを離れていった。発車のベルはまるで二人のウェディングベルのようでもあった。
【終】
立原 麻沙
† ‡ † ‡ † ‡ † ‡ † ‡
キャスト
【配役】
風間優美子……酒井美紀 優美子の父……清水紘治
石井裕二………東山紀之 優美子の母……山口果林
藤岡幸弘………椎名桔平 幸弘の父………仲谷昇
マサル…………堂本 剛 幸弘の母………野際陽子
〈BGM〉……新沼謙治「ヘッドライト」