これとは別の文章を書こうと思っていたのだが、今一つ考えがまとまらないというか、気分が乗れないというか、そうやってパソコンの前で考えあぐねている内に、ふとその理由に思い当った。どうやら、少し前に観たこの映画のせいだ、と。
これは録画をチェックしていて何となく観始めたのだが、私は特段の映画マニアでもないし、イーストウッドはさほど評価していなかったこともあって、危うく途中で観るのを辞めてしまうところであった。ところが、意に反して観終ってみると、奇妙なずしりとした後味が残る映画であった。その重さは何やらもやもやとはっきりとした形を取っておらず、心の隅に蟠って妙に引っかかっていて、それがボディブローのようにじわじわと効いてきたのに今になって改めて気づいたということである。どうやら私には、この未消化の感銘の性質を明確にするためには、改めて文章にしてみるという作業が必要という事らしい。やれやれ。
高い世評に反して私がこれまでクリント・イーストウッドを評価してこなかったのは、その鮮明なタカ派的マッチョ・イメージによるところが大きい。彼のこのイメージは彼の出世作である「荒野の用心棒」から、さらには著名な「ダーティ・ハリー」シリーズによって決定的となった事は言うまでもないだろうが、その水戸黄門的ステレオ・タイプなマッチョ・キャラを私はさほど評価しないからである(むしろその点こそが良いのだという人が多いのかも知れないが)。ま、一言で言えば、人物造形の底が浅いということであって、これは、「荒野の用心棒」シリーズの「名無し」の人物造形と、その基となったオリジナルの世界のクロサワの「用心棒」・「椿三十郎」における「三十郎」のそれを比べてみれば一目瞭然であろう。後者のそれが複雑な陰影を持った奥行きのあるものであるのに対し、前者のそれは実に薄っぺらで類型的な人物造形でしかない、といささか辛辣なものの言い方をすれば、まあそういったことである。
そしてその違いがどこから来るのかと言えば、その内面にある”悪”を自覚しているのかどうかというところにあるのではないかと私には思われる。それが最も象徴的に表れているシーンは、『椿三十郎』で半兵衛を切った三十郎が「俺は機嫌が悪いんだ。こいつは俺にそっくりだ」と吐いて捨てるシーンであるが、黒澤明が産み出した、この豪快にして繊細、鷹揚にして緻密という実に魅力的なキャラクターは、その後の日本映画だけでなく文学やアニメなどに非常に大きな影響を与えたように思う。例えば宮崎駿監督の「紅の豚」の主人公なぞは、宮崎流に換骨奪胎した三十郎と言って良いだろう。
ここで、このようにいささか強引に「紅の豚」を持ち出したのは、実は「グラン・トリノ」を観る少し前に、文春文庫で「ジブリの教科書7 紅の豚」が出たのを興味深く読み、大いに啓発されたにも関わらず、作品解釈の重要な一点について疑義を待ったという事による。少し脱線するが、この場を借りてついでにこの本の内容にいちゃもんを付けて置きたいと思うのである。後になって考えてみると、この本を読んでから「グラン・トリノ」を観た事は、単なる偶然とは思えないような気もする。このことによって、共に同じ作品に強く影響を受けた異なる映像作品系列における人物造形を対比して見る事が出来、結果としてこの「グラン・トリノ」という作品の意図がより明確に理解出来たように思うからだ。
ということで、まず、この「ジブリの教科書7 紅の豚」から二つの文章を引く。
「菅野 私も木村さんと同じように、やっぱり豚のまま訪ねてほしいなと思ったんです。宮崎さんに一度「ポルコはあのあとジーナのところを訪ねると思う?」と訊かれたことがあって、私は訪ねてほしいと思ったから「行くと思います」と答えたんですけど、宮崎さんは「そうかな」って。違うっていう答えをもらったようなものだから・・・・。」(「女性スタッフ七人座談会 今だから話したい『紅の豚』のこと」)
「あれから二十年以上の歳月が過ぎた。「ジーナさんの賭けがどうなったかは、私たちだけの秘密」というフィオの最後の言葉の通り、ジーナとマルコの恋がどうなったか、いまだにわからない。だが、その一方で確実に解っていることもある。」(「『紅の豚』とその時代―「変身譚」の系譜」青沼陽一郎」)
そうだろうか。
或はすでに気付いている人も居られると思うが、実は、宮崎監督はこっそりと答えを映画の中に書き込んでいるのである。最後の「ジーナさんの賭けがどうなったかは、私たちだけの秘密」というフィオのナレ―ションの少し前に出て来る、このシーンの背景にポルコの愛機が書き込まれている事に注目されたい。ということはジーナは賭けに勝ったのであって、だから、フィオの言うように益々美しくなっていくのである、そう言ったら余りに穿ち過ぎた深読みであろうか。
この画像を用意するのに手間取ったので、今回はここまでとする。