ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

仏の顔も三度まで

2024-07-28 00:00:00 | 相場は相場に聞け!
なかなかと乱高下の激しい相場が続いているが、私には典型的な天井を付けに行く相場付のように思われる。

現在、特に目につくのは、原油安と円高ドル安であるが、市場はトランプ勝利を織り込みに行っているように思われる。というのは、トランプは公約の中で、原油価格を下落させる事とドル高円安の是正が急務だと言っているからだ。

トランプの政策公約については、私が読んだ中では→Bloomberg傘下のbusinessweek のインタビューが最も判り易いと思われるが、如何せんいつもの如く、(Bloomberg日本語版も含めて)日本の報道ではその全体像が正確に伝えられておらず、部分的ないわゆる切り取り報道ばかりだと言って良い。

例えば、自動車に高関税をかけるといった部分だけが取り上げられて報道されているが、トランプの言っていること全体を見れば、これは日本の円安政策に対しての牽制という、彼一流のディールであることが判る。

アメリカには大きな通貨の問題がある。強いドル、弱い円、弱い人民元の問題は非常に根が深い。わたしは彼らの通貨安政策と戦った。彼らはいつも通貨を弱くしたがった。彼らの通貨安政策はアメリカの企業がトラクターや他のものを国外に輸出する時に大きな負荷となっている。非常に大きな負荷だ。
・・・
コマツや他のトラクターの会社を見ろ。彼らは良い製品を作る会社だが、彼らの国はCaterpillarなどのアメリカの企業に彼らの国で製品を作ることを強要している。
・・・
アメリカはその逆を要求するべきだ。逆を要求するべきなのだ。
・・・
わたしが大統領だった時、わたしは非常に強く習氏と安倍晋三氏に対して戦った。安倍晋三氏は素晴らしい男だった。彼に起こったことは知っているだろう。彼らが通貨安を押し通そうとした時、わたしはこう言った。それ以上弱くしようとすれば関税を課すぞと。彼らはわたしが許す範囲でしか通貨を安くできなかった。わたしは彼らにとって手強い相手だった。


アメリカは兎も角、日本でもトランプを救世主のように見ている意見があるが、この発言を見てみてもトランプは一貫して「アメリカ・ファースト」だということが判る。→前にも書いたが、ドラえもんやウルトラマンのごとく、トランプが日本の救世主だというような、ああいった見方は、どうも日本人の抜きがたい依存性癖、もっと言えば属国根性から来る善意の守護者待望論の投影でしかないように思われる。

そういえば日本でも「都民・ファースト」を掲げる政治家が都知事に当選したけれども、その理由は色々と挙げられるだろうが、要はこの善意の守護者というイメージをどれだけ棄損しなかったかどうか、それが分水嶺になったように私には思われる。つまり、現在の都知事は、投票した都民の総意として、東京都に対してのドラえもんやウルトラマンとしての役割像に、候補者の中で最も適合する人物として消去法で選ばれたのではないかと言うことである。この意味で、現在の都知事はそういったイメージづくり、イメージ空気醸造戦略に非常に長けている政治家だと思う。イメージ・カラーをもじった「緑のたぬきと赤いきつねの小池」という評があったが、言い得て妙である。狸や狐のように人を化かす、表向きは緑だがたぬき、中身は赤のようにも見えるがこれもまた狐で化かしていることには変わりがない。なるほどねえ、座布団1枚。

いや話が逸れたが、もう一つのトランプの石油政策については、日本ではほとんどと言って良い程報道されていない。トランプのウクライナ戦争を1日で終わらせるという発言は良く知られているが、そのためには原油価格を押し下げることが必要だという指摘には、一流のディーラーというものは、やはり着眼点が一味違うなと感心させられる。なるほどねえ、座布団3枚。

わたしが大統領の時にはプーチン氏は決してウクライナに侵攻しようとはしなかった。ウクライナに手を出すなとわたしは言っていた。
・・・
ウクライナ情勢は酷いものだが、原因の一部は原油だ。原油価格が40ドルから100ドルまで上がれば、プーチン氏は戦争が出来るようになる。原油価格が40ドルだったからプーチン氏はわたしの言うことを聞いた。
・・・
戦争を終わらせたいとしても原油価格が100ドルの状態では戦争は終わらせられない。原油価格が100ドルなら、プーチン氏にとって戦争を終わらせるインセンティブは小さいからだ。


この原油価格を下げるという公約はまた、バイデン政権の脱炭素政策に対する批判ー減産政策で自国の産油企業にダメージを与えただけでなく、さらにそれによる原油価格上昇で、敵であるプーチン大統領に塩を贈ったという批判にもなっていることは言うまでもないだろう。

そして現在のところ、トランプ有利というのが大勢の見方であろうが、私自身は蓋を開けてみるまでは判らないのではないかと思っている。前の選挙ではバイデン・ジャンプという不可解な現象が見られたが、最近でもあろうことか、バイデン自身の身長もジャンプした?という摩訶不思議な現象が見られたように、11月まではまだまだ何が起こるのかわからないのが、アメリカの大統領選挙であると言えよう。或いは、何らかのハリス・ジャンプといったような現象を目撃する事態になるかも知れないし、再度トランプの身に何かが起こるという事態になるかもしれない。


ということで、相場に話を戻すと、現在のトランプ勝利織り込み相場の反動・戻しは、これから当然にやってくるだろうし、日本の株式市場はもう一度4万円を超えてくるのではないかと考えている。

つまり、現在はブルとベアの4万円を巡る攻防戦の最中であって、この意味で天井圏における4万円を中心としたレンジ相場になっていると言い換えても良い。そして、最終的には、三尊天井あるいはヘッド・アンド・ショルダーを形成してダウン・トレンドに転換してゆくのではないか、というのをメイン・シナリオとして考えている訳である。勿論、このシナリオは外れることになるかも知れないが、こういうシナリオも頭に入れて置くべきだと言いたいのである。

SNSを覗いてみても、暴落は想定してはいても、こういったダウン・トレンドへの転換というシナリオを考えている人は殆どいないように見受けられるので、ここで注意喚起をして置きたいと思うのである。従って、この後もう一度、4万円奪還という状況になれば、やれやれこれで一安心、さあ行くぞ!と思う人が大半だと思われるが、買いしかやらない人にとっては、その時こそが絶好の、そして最後の逃げ場になるということである。同じく、空売りが出来る所謂ショーターにとっては、その時は絶好の、そして最初の戻り売り場になることは言うまでもない。

昔の人も、こう言っているではないか。

仏の顔も三度まで、と。







トランプ暗殺未遂と斉藤和義、ボードリヤール、そして仏陀

2024-07-15 19:00:00 | 中今
ネットでトランプ暗殺未遂事件を知った。

例によって、情報やら意見やら解説などが錯綜し、色々なことが言われているが、それらをつらつらと眺めているうちに、ふと、頭の中で、遠くの方で何やら不細工な男がアコギを演奏しているのに気付いた。斉藤和義が歌っていた。





欲しい物なら そろい過ぎてる時代さ
僕は食うことに困った事などない
せまい部屋でも 住んじまえば都さ
テレビにビデオ、ステレオにギターもある

夜でも街はうっとうしいほどの人
石を投げれば酔っぱらいにあたる
おじさんは言う"あのころはよかったな…"
解る気もするけど タイムマシンはない
雨の降る日は、どこへも出たくない
だけど、大切な傘がないわけじゃない
短くなるスカートはいいとしても
僕の見たビートルズはTVの中…

緊張感を感じられない時代さ
僕はマシンガンを撃ったことなどない
ブラウン管には 今日も戦車が横切る
僕の前には さめた北風が吹く
ぬるま湯の中 首までつかってる
いつか凍るの? それとも煮え立つの?
なぜだか妙に"イマジン"が聞きたい
そしてお前の胸で眠りたい…

訳の解らない流行りに流されて
浮き足立った奴等がこの街の主流
おじさんは言う"日本も変わったな…"
お互い棚の上に登りゃ神様さ!
解らないものは解らないけどスッとしない
ずっとひねくれているばっかじゃ能がない
波風のない空気は吸いたくない

僕の見たビートルズはTVの中…
僕の見たビートルズはTVの中…
僕の見たビートルズはTVの中…



かって、<浮き足立った奴等>に持ち上げられた<訳の解らない流行り>にポスト・モダン思想というのがあった。その中の一人、ジャン・ボードリヤールが晩年に「ネットワークの精神的ディアスポラ」とかいう、これまた<訳の解らない>ことを述べている。正確・精緻な分析であるが、小難しい難解な表現の衣をはぎ取ってしまえば、何のことはない、アングルや被写界深度の濃淡の違いはあれども、斉藤和義とボードリヤールは被写体として同じものを感じ、同じものを見据えているように私には思われる。


バーチャル性ーーーデジタル、コンピューター、インテグラルな計算ーーーの領域では何ひとつとして表象可能ではない。・・・それらから何らかの感知できる現実性へと遡ることは不可能だ。政治的なものの現実性ですら不可能だ。この意味で、戦争すらもはや表象されえず、戦争の不幸に加え、それを出来事のハイパーヴィジュアルにもかかわらず、あるいはそのせいで表象できないという不幸が生じる。イラク戦争と湾岸戦争は、そのことをはっきりと示した。

批判的知覚、真の情報が存在するためには、映像が戦争とは異質なものである必要がある。だがそうではない。(あるいはもはやそうではない。)すなわち、戦争の凡庸化された暴力に、まったく同じぐらい凡庸な映像の暴力が加わるのである。戦争の技術のヴァーチャル性に、映像のデジタル的ヴァーチャル性が加わるのだ。政治的争点を超えたところで戦争を現実の姿、つまり世界的次元での暴力的な文化的同化の道具として捉えるなら、メディアと映像とは戦争のインテグラルな現実の一部をなす。それらは力による同一の均質化の、より巧妙な道具なのだ。

 このように映像を通じて世界を再把握し、情報から行動、集団的意志へと移行することが不可能であり、またこのように感受性が欠け、人びとを動かすことがない状態において問題とされるのは、全般的な無感動や無関心ではなく、単に表象のへその緒が断ち切られてしまったことなのである。
 ディスプレイは何も反映しない。・・・ディスプレイはあらゆる二者的関係を遮断する。

 そもそもこの表象の不能によって、行為が不能になるだけでなく、情報の倫理、映像の倫理、ヴァーチャルとネットワークの倫理をじゅうぶんに完成させることが不可能になる。この方面でのあらゆる試みは必然的に失敗する。
 残されているのは映像の精神的ディアスポラと媒体の常軌を逸した性能だけだ。

媒体と映像とのこうした優越について、スーザンソンダクが見事な逸話を残している。彼女は人類が月面に着陸するところをテレビで見ていたのだが、その場所に居合わせた人びとは、自分らはこのお話の全部を信じているわけではないと言う。彼女が「じゃあ、あなたがたは何を見ているというの」と問うと、彼らは「私たちはテレビを見ているんですよ!」と答えたのだ。
・・・
 だが結局のところ、スーザンソンダクの考えとは反対に、意味の帝国を信じているのはただ知識人だけであり、「ふつうの人びと」は記号の帝国しか信じていない。彼らはずっと以前から現実性をあきらめてしまっている。彼らは身も心も見せ物的なもの(スペクタクル性)の側に移ってしまっている。

 主体と客体とを区別する線が潜在的に消滅してしまっている相互作用的世界について、どのように考えればよいだろうか。

 この世界はもはや反映されることも表象されうこともありえない。それは脳の操作とディスプレイ画面のそれとが区別されなくなった操作によって屈折したり回折したりするだけだ。脳の知的操作それ自体がディスプレイ画面になったのだ。
・・・
インテグラルな現実のもうひとつの側面は、すべてが統合された回路のなかで機能することである。情報、そしてわれわれの頭のなかにおいて回帰する映像が支配するとき、コントロールされたディスプレイでは、雑多な要素の無媒介的な集合が生ずるーーー円環状に作用し、ライデン瓶のようにそれ自体に接合し、そしてそれ自体にぶつかる事物が一点をめぐって動きまわるのだ。それはすべてのコラージュによって、またそれ自体の映像との混同によって確認されるという意味での完全な現実性だ。

 この過程は、視覚的、メデイア的な世界において、だがまた日常的で個人的な生活やわれわれの身振りや思考においても完成にいたる。この自動的な屈折は、いわばあらゆる物を自分自身の上で焦点を合わせることによって固定することで、われわれの世界の知覚にまで影響する。

 これは写真の世界でとりわけ認められる現象だ。そこではあらゆるものがただちにある文脈、文化、意味、観念を奇妙にまとい、あらゆるヴィジョンの力を奪い、盲目の一形式をつくりだす。ラファエル・サンチェス・フェルロシオが告発するのがこれだ。「ほとんどの人が気づいていないが、恐ろしいかたちの盲目が存在する。」
・・・
 この意味で、美学的になったのはわれわれの知覚そのもの、直接的な感受性である。視覚、聴覚、触覚、われわれのあらゆる感覚が語の最悪の意味で美学的になってしまった。事物についてのあらゆる新しいヴィジョンは、それゆえ世界をその感知可能な幻想(それには回帰がなく、回帰する映像もない)に戻してやるため、回帰する映像を解体しヴィジョンをふさぐ逆転移を解決することからしか生じない。

 鏡のなかで、われわれは自分を自分の映像と差異化し、また自分の映像との間で、開かれたかたちの疎外や戯れに参入する。鏡、映像、視線、舞台、これらすべては隠喩の文化につながるのだ。

 一方、ヴァーチャル性の操作においては、ヴァーチャルな機械のなかに一定のレヴェル没入することで、もはや人間と機械の区別がなくなる。つまり機械はインターフェイスの両側にあるのだ。
・・・
 このことはディスプレイの本質そのものに起因する。鏡に彼方があるようには、ディスプレイに彼方(奥行き)はない。時間そのものの諸次元も、現実の時間において混じりあう。そしてどうのようなものでもヴァーチャルな表面というものの特徴は、何より空虚な、それゆえ何によっても満たされうる状態でそこにあるとすれば、現実の時間において、空虚との相互作用に入るのはあなただということになる。

 機械は機械しか生みださない。コンピューターから出てきたテクスト、映像、映画、言説、プログラムは機械の産物であって、その特徴を兼ね備えている。つまり人工的に膨張されられ、機械によって表面をぴんと張られる。そして映画は特殊効果を詰めこまれ、テクストは冗長さと冗漫さを詰め込まれる
・・・
 暴力とポルノグラフィ化された性のうんざりするような性質はそこからくる。これらは暴力や性の特殊効果でしかなく、もはや人間による幻想の対象でもなくなって、単なる機械的暴力なのだ。
・・・
 機械的テクストにあるのはあらゆる可能性の自動偏差だけだ。
・・・
 実際のところ、あなたがたに話しかけるのはヴァーチャルな機械であり、それがあなたがたのことを考えるのだ。
・・・
 そもそもサイバー空間のなかに、何かを真に発見する可能性があるだろうか。インターネットは自由と発見の心理的空間を偽装しているにすぎない。実際インターネットは、拡がりはあるものの慣習的な空間を提供しているだけであり、オペレーターはそこで既知の要素、すでに確立されたサイト、制定されたコードと相互作用を行うのだ。検索パラメーターを超えて存在するものは何ひとつない。あらゆる問いに、予測された答えが割り当てられている。あなたは問いかける者であると同時に、機械の自動応答機でもある。コード作成者であると同時にコード解読者であるあなたは、実のところ自分自身の端末なのだ。

 これこそ、コミュニケーションの恍惚だ。

 もはや面と向かう他者はいない。目的地もない。どこでもよいのであり、どんな相互作用因でもよい。システムはこうして終わりも合目的性もなく回転し、その唯一の可能性は無限に続く内向きの旋回である。そこから生じるのが、麻薬のように作用する電子的相互作用の心地よいめまいだ。中断することなく、そこで全生涯を送ることができる。



ただまあ、当たり前のことであるが、同じものを感じ、見据えていても、斉藤和義とボードリヤールとでは、それに対する反応というか応答が異なるのも確かで、同じ日本人だからなのか、<精神的ディアスポラ>を言い募るボードリヤールよりも、<ずっとひねくれているばっかじゃ能がない>と言う斉藤和義の方に、やはり私は肩入れしたい気持ちを持つ。

ボードリヤールは鬼籍に入って、亡くなってしまったので、あの世で仏陀に会っているかも知れない。従って、こんな風に仏陀に説教を諭されているボードリヤールの映像が映し出されているディスプレイ画面を想像してみるのも、あながち悪くはないと思うのだ。

ボードリヤールよ、ひねくれているばかりでは能がないということに気付いているかい。毒矢の当たっているお前に、毒の分析が何の意味がある。私は毒矢を抜く方法を教えるだけだ。








東西投資理論の変遷を考える 5

2024-07-06 12:00:00 | 投資理論
この点を考えるに当たっては、ダーバスがスランプに落ち入り、一旦獲得した<感覚>も喪失してしまい、そして、この最悪の状態から、どのように考えて行動してスランプを克服し、再度この<感覚>を取り戻すに至ったのかという、言わば投資家ダーバスの再生・復活の過程が参考になろう。

その経緯を「第9章二度目の危機」で、ダーバスは克明に記述しているが、この章はまたこの本の白眉でもあろう。この自らのスランプの原因に対する洞察力からも、ダーバスという人は相当な知性の持ち主であったということが判ろうというものである。


<自分には間違いようのないシステムがあるので、マーケットに今まで以上に近づくことさえできれば、毎日資産作りをする妨げになるものは何もないと考えた。>

そのために彼が選んだのは、マンハッタンにある、あるブローカーのディーリングルームであった。そして、このディーリングルームで、ダーバスはスランプに陥ることになるのである。

<取引を始めて数日のうちに、過去6年間にわたって学んだことをすべて放り出してしまった。自らを激しく律して禁じたすべての事をやるようになった。ブローカーと話をした。うわさに聞き耳をたてるようになり、ティッカーマシンのそばを離れられなかった。・・・・最初に失ったものは第6感だった。「感覚」がまったくつかめなかった。・・・わたしは理性に見放され、完全に感情に支配されるようになった。>

<取引はすべて壊滅的な結果に終わった。・・・日がたつにつれて、私の投資活動の悪循環は次のような様相を呈した。
天井で買い付ける→買ったとたんに下落し始める→あわてふためく→底値で売却する→売った途端に上昇し始める→強欲心が出てくる→天井で買い付ける >

<悲惨な状態で数週間を過ごしたあと、なぜこんなことになったのか、その理由を真剣にじっくりと考えてみた。香港やカルカッタ、サイゴンやストックホルムでは、どうしてあの感覚を持てたのだろう。そして、ウォール街から1キロも離れていないところにいるのになぜその感覚を失ったのか。・・・この問題の解決は容易でなく、わたしは長い間思い悩んだ。

<解決策をささやく声が聞こえたが、最初は信じることが出来なかった。・・・その声は、私の耳が私の敵だと言っていた。>

<答えはただひとつだと思った。・・・直ちにニューヨークを離れて、遠くへ行かなければならない。・・・それからパリ行きの飛行機に乗った。・・・私がブローカーに求めたのは、いつものとおりウォール街の株価に関する毎日の電報だけだった。>

<電報が毎日届いたが、その内容が理解できなかった。完全にカンを失っていた。・・・パリについて2週間ほどたったある日、・・・電報を手にしたとき、数字がいくらか明るさを増して見えるような気がした。・・・その後数日間、電報がだんだん鮮明になってきて、昔に戻って相場が読めるようになった。再び、力強い銘柄もあれば、軟弱な銘柄もある事が理解できた。同時に「カン」が戻り始めた。・・・私は教訓を得ていた。・・・わたしに必要なのは株価の電報だけで、それ以外には何もいらない。



ここで言われていることは、ダーバスが<感覚>を取り戻し、再度<相場が読めるようになった>のは、株価以外の情報を遮断した状態においてであったということである。言い換えれば、彼は株価(の数字)という最も基本的な一次情報以外の、一切の副次的な情報を遮断しなければ、この感覚を取り戻すことが出来なかったということである。

現在のそれこそ情報が溢れかえっている現在からは、なかなかと想像しにくいことだが、ここで、取り分け私が注目するのは、ダーバスがチャートさえも必要としていなかったという点である。いや、むしろ、チャートを見ないからこそ、ティッカー=株価の数字から<感覚>を得ることが可能になり、<相場が読めるようになった>ということである。




そして、同様にリバモアもチャートは使ってはおらず、株価の数字だけに基づいて、売買の判断を下していたことを挙げなければならない。


<私個人としては、チャートには全く興味がない。私にとってチャートは混乱を来すもとである。>(『リバモアの株式投資術』)

リバモアの場帖


場帖に価格を書き入れ、その動向を観察すると、価格が語りかけてくるようになる。・・・それは、形成されつつある状況を明確に伝えようと、必死に訴えかけてくる。・・・その値動きを注意深く分析して優れた判断が下せれば、どうすべきかが分かるはずだと語りかけてくるのである。>(『同』)




リバモアはこれ以上の事は書いていないが、興味がないだけではなく、なぜ<チャートは混乱を来すもと>になるのであろうか。

私には、ここがクリティカル・ポイントだと思われる。

ネットでダーバスやリバモアの投資法をググると、膨大な量(その殆どは英文)の記事がヒットするが、彼らの売買例をチャート上に図示・再現したものが非常に多い、というかほとんどすべてがそうだと言って良い。また、ダーバスの著作『200万ドル』にさえも、付録としてアメリカン・リサーチ・カウンシルが作成したダーバスの売買事例チャートが添付されているといった有様である。勿論、こうした方が一目瞭然で判り易いからであろうが、このことは、そもそもダーバスやリバモア自身がチャートなぞは使ってはいなかったという事実を見過ごさせるという一種の死角をも生むことになると言わなければならない。

このことの認識論上の意味合については、また後で考察してみたいと思っているが、チャートに基づいた視覚による事後的・空間的・静的な理解は、それと引き換えに、その時点時点における実践での、場帖(=数字の羅列)に基づいた想像力による、株価変動に対する動的な運動感覚の獲得である<変動感覚>を損なうものと言わなければならない。

私にとってチャートは混乱を来すもとである>というリバモアの言葉を見逃してはならない。

また、『欲望と幻想の市場』には、自分の<直観>について、<ジェームズ・R・キーンらの先輩相場師がこぞって磨こうとしたという、いわゆるティッカー・センスといったものかもしれない。>という一文も出てくるので、こうしたティッカーに基づいたある種のセンスの存在自体については、当時の相場に関わる者の間では、ある程度の共通認識があったとも思われる。何より、この<ティッカー・センス>という言葉の存在自体が、それを証しているとも言えよう。


さて、先にダーバスやリバモアの<神秘的な、説明のつかない本能>、<直観>や<カン>について述べている文章は、林輝太郎氏の本の中の文章をどうしても思い起こさせると書いたが、それは氏の相場技法論は、こうした言語化し難い「暗黙知」としての<変動感覚>の養成を旨とし、そのために場帖を最重要視するからである。

つまり、繰り返しになるが、この場帖最重要視という方法論も含めたロジックとして、本質的に相通ずる記述、いわば同じ中心を巡って同心円を描いていると思われる記述>だと私には思われるということであるが、それをさらに敷衍して言えば、ここにおいて場帖(=株価数字)に基づいた暗黙知としての変動感覚=ティッカー・センスという、現在の投資理論ではほとんど看過されている概念を基軸に据えることによって、(東西の)投資理論について、新たなパースペクティブが開けてくることになるのではないか、そう考えている次第である。