銀の人魚の海

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東京の生活史 ろう夫婦の一人娘 

2022-02-08 | 本、雑誌

厚い本もあと400ページ以内。150人の人生。段組み数ページくらい。

オミクロンの時期に他人の人生を読んだことはわすれないと思う。

それほど、いろいろ。印象に残る人から。図書館、返却なので、何人書けるか?

長野出身、Aさん。手話の通訳が仕事。

父母ともにろう者。父は県の職員で歯科技工士。

山奥で幼稚園からろうの学校。ずっと寄宿舎、高校を出て勉強したいと

東京で高校へ、歯科技工士の専門学校へ。戻り長野で仕事をしている。

母は東京生まれ育ち、ろう者。母の父が銀行員。母の弟もろうしゃ。

祖父は二人のろうの子供のために銀行をやめ、画材やを東京で開業。

二人のろうの子を育てた。母はAさんが中学から東京へでて銀行で働く。

父はずっと長野、Aさんは高校3年は長野、大学で東京へ。

家族ははなれているが、コミュニケーションがよく、皆アクティブ。

父母が聞こえないので4歳から通訳をした。7,8歳から電話をとる。

内容を伝えるのが大変、電話は苦手。幼児から読書が大好きで毎日3,4冊。

父は長野に、海外のろうしゃの方々を集めとめていたので、にぎやかだった。

長野の周りには外国人が働いていた。

世界各国から人がきた。アメリカ手話、など国により違いもある。

国際手話というのも。父母は使えないが、皆を家にとめていた。

父が地デジ化の時、手話ポエムをDVDに変換する作業をし、見て刺激を受けた。

ろう学校の先生になるより、教材開発の仕事へ、デザイン系へ進む。

ろうしゃの父母でも手話をさせない親もいる。逆の親も。

Aさんは母が手話で完璧にという思いがあった。とても奔放な母とある。

県営住宅に住んでいたが10年かけ、長野の家も手作り。

どこにいても手話が見えるような部屋、窓をつくる、会話が見える。

1階にいても2階が見える設計、これは家族にとり大きなプロジェクトだった。

~父母ともに話せない世界、東京では母の祖父母がいる。

ドキュメントで品川のろう学校の手話を見たのを覚えている。

あ~そうか~発見が多数あった。小さい時は一人で父母の助けをし、

悩みもあるが明るく成長過程。書かれていないこともたくさんあったと思う。

歯科技工士がろうの方に向いていると知る。

一人でコツコツ、父は多数の人と交わり手話での交流が好き。

銀行をやめ、ろうの子供二人を支えた東京の祖父も素晴らしい。

聴覚は遺伝がある。家族を知らず、ずっと寄宿舎だった父の家族、父母の事はあまり

書かれていない。9人兄弟の末っこ、長野の山奥、ろう学校、寄宿舎。

障害者をかくすということもあったか・・かつて教育県と言われた長野だからこそ

幼児からろう学校があったのか・・

Aさんの年齢は地デジが11年、その頃20として、今30前後か、

父母は50代~60くらい。聴覚障がい者、これからも元気でおすごしください。

 

 



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