渋谷で一番通った書店、大盛堂店主は、壮絶過酷な戦争体験から本屋を開業。
本も出版されているので、何かで読んでいての記憶だったか・・
大盛堂。スクランブル交差点からすぐだった。
〇渋谷の老舗書店「大盛堂書店」本店(神南1)が2005年6月30日で休業。
~~同書店は明治45年(1912年)の創業(舩坂の養父の書店だと思う)
3階には渋谷で唯一の「政府刊行物サービスステーション」を設けるなど、
各分野の専門書が充実していることで知られていた。
同書店は2001年12月、渋谷センター街入り口付近に「TOKYO文庫タワー」を開設し、
2005年3月からは「大盛堂駅前店」としてリニューアルオープンしている。
~この駅前店は、まだあるのか・・?
創業者をwikiから長いが引用。
舩坂 弘(ふなさか ひろし、1920年〈大正9年〉10月30日 - 2006年〈平成18年〉
2月11日)は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍軍曹。アンガウルの戦いで活躍した。
アンガウルの戦い(Battle of Angaur)は、第二次世界大戦におけるパラオ - マリアナ戦役最後の戦いであり、この戦いで舩坂は多大な戦果を上げることになる。
水際作戦により中隊が壊滅する中、舩坂は筒身が真っ赤になるまで擲弾筒を撃ち続け、
退却後は大隊残存兵らと島の北西の洞窟に籠城、ゲリラ戦へと移行した。~~
しかし、食料も水もない戦場での戦いは日本兵を徐々に追い詰めて行き、
洞窟壕の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、
~~その傷口から蛆虫が涌くのを見るにつけ、
蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を図ったが、
手榴弾は不発であった。舩坂は暫し茫然とし、自決未遂という現実に、なぜ死ねないのか、~~
戦友も次々と倒れ部隊も壊滅するに及び、舩坂は死ぬ前にせめて敵将に一矢報いんと米軍司令部への単身斬り込み、
肉弾自爆を決意する。手榴弾6発を身体にくくりつけ、拳銃1丁を持って数夜這い続けることにより、
この時までに、負傷は戦闘初日から数えて大小24箇所に及んでおり、このうち重傷は
左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、
左腹部盲貫銃創の5箇所であり、さらに右肩捻挫、右足首脱臼を負っていた。
~~
さらに連日の戦闘による火傷と全身20箇所に食い込んだ砲弾の破片によって、
さながら幽鬼か亡霊のようであったという。~~
戦死と判断される。駆けつけた米軍軍医は、無駄だと思いつつも舩坂を野戦病院に運んだ。~~
当初船坂は情をかけられたと勘違いし、周囲の医療器具を壊し、急いで駆けつけた
MPの銃口に自分の身体を押し付け「撃て!殺せ!早く殺すんだ!」と暴れ回った。
この奇妙な日本兵の話はアンガウルの米兵の間で話題となった。
舩坂の無謀な計画に対し、大半はその勇気を称え、「勇敢なる兵士」の名を贈ったという。
捕虜収容所
その後、数日の捕虜訊問を経て、舩坂はペリリュー島の捕虜収容所に身柄を移される。
このとき既に「勇敢な兵士」の伝説はペリリュー島にまで伝わっており、
~~しかし俘虜となっても舩坂の闘志は衰えず、
ペリリューに身柄を移されて2日目には、瀕死の重傷と思われていたことで監視が甘く、
収容所から抜け出すことに成功。さらに、船坂は2回にわたって飛行場を炎上させることを計画するが、
同収容所で勤務していたF.V.クレンショー伍長(F. V. CRENSHAW, 生没年不詳)に阻止され失敗。
グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサス、と終戦まで収容所を転々と移動し、1946年に帰国する。
帰国
舩坂の実家に戦死公報が舞い込んだのは、その年の12月30日であった。
そのため、舩坂は1946年に帰国するまでの1年3か月間、戸籍の上では死亡していた。
故郷では、当然戦死したものと思われており、舩坂が故郷に帰って一番初めに行なったことは「舩坂弘之墓」と書かれた墓標を抜くことであったという。
しばらくの間は、周囲の人々から「幽霊ではないか」と噂をされていたという。
ボロボロの軍衣をまとって生家に戻り、先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌した時、真新しい位牌に
「大勇南海弘院殿鉄武居士」とあって驚いたと、『殉国の炎』に記している。
大盛堂書店を開業
戦後復興の中、戦争での強烈な体験から舩坂は、
この眼で見てきたアメリカのあらゆる先進性を学ぶことが、
日本の産業、文化、教育を豊かにすることではなかろうかとの思いから、書店経営を思い立つ。
弘は渋谷駅前の養父の書店の地所に僅か一坪の店を開き、帰って来た戦死者としての余生を、
書店経営で社会に捧げたいとの思いにぶつけた。これは日本で初めての試みとなる、
建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」の創設へと繋がった。
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