散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

花のあと

2010年03月21日 | ☆たまに娯楽
いつから、藤沢周平作品の映画が、マドンナシリーズみたいになってしまったんだろう。
舞台設定は、北国の小藩・海坂藩ということになっている。
にもかかわらず「たそがれ清兵衛」「隠し剣・鬼の爪」のように、藤沢氏の出身地・山形県鶴岡市=出羽国・庄内藩をベースにして、時代背景や方言にこだわった作品に仕上げていないのは残念だ。
きっと、木村拓哉さんと檀れいさんを主人公とした「武士の一分」で、方言を薄め、マドンナ的に映像化してしまったことが、その興業収益を今一度とばかりにプロデュースする傾向を生んでしまった。
「蝉しぐれ」の市川染五郎さんと木村佳乃さん、「山桜」の東山紀之さんと田中麗奈さん、そして「花のあと」の宮尾俊太郎さんと北川景子さん。
蝉しぐれの場合、幼少期の“おふく”は、それなりに好感が持て、藩主の側室という身分になって華美な着物になる。“文四郎”もまたしかり。
しかし、身分が低く石高が少ないにもかかわらず、白米を食べ、きれいな紋付き袴を着ていたり、藩財政が逼迫している中で何度も倹約令が出ている田舎の小藩で、武士の娘が華美な着物を着て、それもひょいひょい肩で風を切って歩いているのは、当時の強烈な身分社会において、女性の置かれる環境との整合性がとれておらず、きっと違和感を感じながら映画を見させられているのを、観客のだれでもが感じ取っているに違いない。

今回の「花のあと」は、北川景子さんという女優に、時代劇というものを経験させるために作られたんだと思う。
演ずるところの“以登”は、腕の立つ女剣士という役どころで、その凛とした佇まいを表現するために、間が異常に長いと思わせるほど、以登のアップや身構えを長尺で撮影している。
立ち居・振る舞いなどの作法にこだわったために、所作を頭の中で「イチ、ニイ、サン・・・」と手順を確認しながら演技している風が見られ、その分、セリフや殺陣にまで手が回らなかったように見える。
江戸時代の武士にとって、死ぬかもしれない果たし合いをすること、藩主の許可無く私闘を行うことが、どれほどの重圧なのか、知識としてインプットしたうえで演技しているのか疑問が残る。
そう考えると、やはり「たそがれ清兵衛」や「隠し剣・鬼の爪」は秀逸な作品だ。

とにかく、北川景子さんが、若く、眩しく、輝き始めていることを、映像化し、今後、映画女優として昇華していくのかどうか、時代劇という分野での実験をしてみたと思えばいい。
それにしても、市川亀治郎さんに悪役は似合わない。
せめて「娯楽時代劇」というカンムリがあれば、まだ割り切れるかも。

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