散歩の閑人:メタ坊っちゃまのYOASOBI?

若気の至りが過ぎてメタボでも、世遊びは辞められない。

夜の「うちなぁ家」

2011年08月19日 | ☆グルめぐる横浜

沖縄で酒盛り・・・
人づてに聞いた話だけど、
沖縄海洋博覧会があって、沖縄に大型ホテルが乱立した。
昭和47年にアメリカから沖縄を取り戻したのはいいけれど、ときはベトナム戦争の真っ最中。
裏取引があったとされる返還協定により、この年に再開された北爆のB52離着陸基地として沖縄がベトナム戦争における重要拠点として維持されることになる。
翌年、パリで停戦協定が調印され、北爆の停止と、米軍の全面撤退が開始される。
これまでベトナム戦争との関わりの中で成り立ってきた沖縄経済を支えるため、沖縄振興開発特別措置法が公布された。
東西冷戦に変化はないから、沖縄の米軍駐留は維持されたまま。
その目玉事業が“観光”であり、その視点からインフラの整備が行われ、昭和50年海洋博が開幕。
くしくも、この年、サイゴンが陥落し、アメリカからの援助が絶たれた南ベトナム政府は消滅する。

平成3年にはソ連が崩壊し、平成12年には沖縄サミットが開催された。
平成4年は沖縄本土復帰20周年、平成14年は30周年にあたる。
この節目に、沖縄の戦跡と現況を知って平和を考えることを目的に、高校の修学旅行が沖縄にシフトしたそうだ。
表向きの理由はそれとして、高校生の生活形態の変化が、沖縄へと向かわせたという。
どういうことかというと、バブル経済以降、自分の部屋を持ち、ベッドで寝、朝食はパンという子が増えた。
そのために、従来、大型旅館の宴会場や大部屋に布団を敷きつめて寝るということが不眠につながり、ご飯に味噌汁、焼き魚といった和朝食を敬遠するために、旅行中、体調不良を訴える子が続出するようになった。
この受け皿として、北海道のリゾートホテルが活用されるものの、移動距離は長いし、どうしても札幌で1泊しなければならないが、その場合、シングル対応となるため管理監督が難しい。まして、自然とか炭坑とか開拓では“学ぶ”ことのインパクトに欠けるため、依然として、広島・長崎をメインとした修学旅行人気は根強かった。
そこで政府の沖縄観光振興策に後押しされた旅行業界が提案したものが“沖縄”だったのだ。
沖縄のホテルの客室は、リゾート仕様で広く、ほぼ4~6人単位で1室に詰め込める。
那覇や名護を除けば、ホテルのまわりには何もなくて、管理監督もしやすく、移動も那覇市内が渋滞するだけで短時間に見学コースが組めるのも魅力だという。

これと比例して増えたものがある。飲酒と喫煙の補導件数だ。
たいてい、修学旅行中の飲酒は部屋、喫煙は屋外階段の踊り場というのが決まり事だったが、沖縄ではホテルの出入りが自由なので、ついつい、引率教師の目の届かない、外で飲酒、喫煙することになる。
ところが、都会の子は、暗がりに慣れていないから、外灯のともる下でたむろする。
それを、現地の人が見とがめて、駐在さんに通報となり、補導件数の増加につながった。
沖縄で酒盛りするときは、店舗・家屋敷内か、砂浜、そして門中の亀甲墓の前というのがお決まりだから、すぐバレてしまう訳だ。

さて、うちなぁ家で宴会をした。
メニューを記録するのを忘れてしまった。

鍋にいれるソバ


ソーキ汁の鍋。塩はお好みで。


島らっきょ


チジミ


タコのマリネ


島豆腐の生揚げ?


ゴーヤチャンプルー


ポテトフライ


ウコン茶、サンピン茶、シークヮ-サーチューハイを飲み過ぎた。
ところで、沖縄のある町で、飲もうということになり、集落に1軒しかない飲み屋へ出かけたところ、店が開いていない。
となりのお店の方に尋ねると、
「隣の店は、主人が飲むのが好きで店をやっているので、開店時間も、休みも決まっていない」という。
せっかくだからというので、裏手から、いつ開くのかを確認してもらった。
「昨日、夕刻から今朝6時まで飲んでいたから、今日は、午後8時に開店するさー」
かといって、沖縄時間で商売しているから、どんなもんだか?
ということで、ホテルへ戻り、飲み直した。

ただし、うちなぁ家の営業時間は時間どおりなのでご安心を。


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