夏に認知症がいがいよいよ、重症化して本人の意思だった「一人暮らし」が難しくなった。
兄弟姉妹の3人の家族がそれぞれ、役割を分けて、徘徊してしまう父を何とかショートステイとか、病院にと、本当に考えてくれた妹。
地元では、どうにもならなく札幌に住民票も移し、認知症専門の病院に入院していた。
つい2週間前、誤飲が原因で肺炎をおこし、熱発。
その後自力で熱をさげ、そこそこ元気だった。
そしてまた誤飲がきっかけで、心肺停止。
私たちは、「蘇生はしないで欲しい」とお願いしていたのだけれど、「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)ができてなくて、内科の先生は30分も心臓マッサージを頑張った結果、その後心臓は動き、自発呼吸もある。
けど麻痺も残り、意識はなく、かろうじて聴覚だけ残っているかも??な状態。
80歳になる人にそんなに長く蘇生(心臓マッサージ)しても、どうなのかな??って私は思うんだけど・・・。
家族が来るまでって思って頑張ったのかな・・・。
精神科のDrには、私たち子どもがどんな思いで過ごしてきたかとか、しっかり伝えていてその先生は、「わかりました」って言ってくれた。
妹は、今の職場で高齢者の方々が、どんな暮らしをしているかを知っているので、家族が誰も逢いに来ないみたいにならないようにとか、若くないのだから、静かに暮らせるようにとか、いろんなことを考えてくれていたのに、残念。
認知症の専門病院だったけれど、いまいち家族の想いまでは、汲み取ってくれるゆとりはないのかもしれない。
どうしようかなぁ??と迷ったけれど、とりあえず札幌に向かったのが、月曜日。
考える時間も欲しかったし、出会ってどうなるかわからない自分もいたし、葛藤もあったし・・・・。
父の子どもとして、生まれてきているのは3人。
そして、内縁関係で育てた子どもが2人。
妹は小さい時に、私と一緒に暮らしているので、父のすさまじい暴力を経験したのは少ない。
私も、50歳にもなれば、暴力からは逃げられるけれど、言葉でぐっさりやられるのは、いまだに痛い。
だから、
2年前くらいに、「最後の別れ」と思い、
「パパ。ありがとう、この世に命をくれて。パパありがとう、殺さないでくれて。パパはもうパパの人生を楽しんでほしいんだ。」
そう伝えたことがあった。
私はこの時に、もうパパと娘の舞台から降板したかった。
したつもりだった。
「心肺停止」と連絡があって、30分が過ぎても、メールが途絶えたままになったとき、「エンドロールは下りなかったんだな~~」って思い、もう少し続く「ざわざわ感」と、この先私に何が待っているのかと、少し気持ちが重くなった。
夜中のJRで函館を出発し、札幌につき地下鉄に乗り換え。
病院があくであろう時間につき、娘であること、函館から今ついたことを告げると、面会時間は15時なんですと言いながら、病室を教えてくれた。
丁度洗面の時間になり、蒸しタオルを差し出され、「家族の方に拭いてもらってもいいですよ」と、言われた。
何気なくそれを受け取り、
「パパ、三千恵だよ、顔拭くね~~」と、介護職だった私にスイッチが入った。(笑)
聴覚だけは残っていると思うというDrの話だったけれど、
自分の伝えたい事、
「お姉ちゃんね、パパの事嫌いじゃないよ」
「でもごめんねって一回聴きたかった」
「パパの子どもたちの家族は、みんな元気だから心配しなくていいんだよ」
「あ!週末にまーなが来ると思うから、それまでは、頑張っててね。まーなには、いっぱいお小遣いくれたり、ほめてくれてありがとう。」
「あーやは、いろいろパパのために頑張ってしてくれているから、あーやが困らない時を選んで、おばあちゃんのところに行くんだよ~~」
「あと、神様に天国に連れて行って・・・ってお願いしているから、大丈夫だよ、ちゃんとおばあちゃんに逢いに行ってね」
などなど。
あとは、念願だった「三千恵、ごめんね」って父の手を借りて、頭を何回もよしよしと撫でてもらい、たくさんたくさん、謝ってもらった。
そのうち、私は父の顔をなでたり、身体をさすったり、80年生きてきた彼の生きざまを言葉で聴きたかったなと思ったり、
もっともっと、普通の会話をしたかったなと思ったり、
「パパ、私はパパが嫌いだったわけじゃなくて、大好きだけど、怖かったからそばに寄れなかっただけなんだよね」
とにかくいろんな言葉を使って、「嫌いじゃないんだよ」「憎んでないんだよ」と・・・・。
帰り際、妹が来てくれて、少しお茶を飲みながら、夏からのでき事を知り、いろんなことがあったけど、
緊急時には、彼が育てたすべての人間が集まって来るというのも、すごいな~~と、思いながら帰ってきた。
私は、帰り道が重たい荷物が取れて、背中が軽かった。
父とあんなに長い時間一緒にいたのは、初体験。
初めて親子になった日なのかもしれない。
私の家族も、妹の家族も、私が苦しくならないようにと、いろいろ手を差し伸べてくれてる。
その優しさにとても感謝。
ありがとう。
もしかしたら、その時間を作るために、戻ってきたのかもしれない。
虐待を受けたままで大人になること、親と対決しないままでいること、親を許容しないままで生きることって、やっぱり辛いなぁ・・・と、私は思う。
いつまでも、自分の人生を左右されてしまうし、できれば子どもの時に、だれか信頼できる大人と出会って、相談したり、一緒に悩んだりしてもらえる愛着対象がある人に慣れることが、
一番の解決なんじゃないかな。
虐待している親のことも、包み込めるそんな制度が早くできてほしいけど・・・。
この一年で本当にいろんなことがあって、そのたびに浄化されて、どんどん気持ちが楽になってきた。
その準備をずっとしてきたんだな…って思うと、どんなことも無駄じゃない。
そんな風に昨日はマルシェにいて思った・・・・。(^_^)v
私の名前の三という字は、三途の川の三でもあり、あの世ともこの世ともつながっていると教えてもらったことがあった。
その名前を付けたのは父であり、その当時は「名前辞典」を一生懸命みて、名前を考えてくれたとも、聞いたことがある。
少なくとも、その時点では私は望まれた子どもだった。
当時ではめったにないカメラがあり、小さい時からの写真はたくさんある。
年齢に応じて、表情が暗くなっているけれど、3年くらいはかわいい娘と、子煩悩の父だったんじゃないかなと、最近思うようになった。
どこで、歯車がくるってしまったのかわからないが、父は墓穴をほったあと、どんどんその穴を広げていくタイプの人なので、きっと収拾がつかなくて、こまっていたのかもしれない。(笑)
そんな父だけど、横たわっている姿はかわいそうだった。
不本意だろうね。
けど、私が一歩前進できているのは、やっぱり今命があるからこそ。
私は、私の道へ進んでいく。
そんな力をくれて、ありがとう。
そして、お疲れ様。
辛い思いをする子どもはもう、私たちの家族にはいないから、安心してね。バイバイ~~
そして、いってらっしゃい。
兄弟姉妹の3人の家族がそれぞれ、役割を分けて、徘徊してしまう父を何とかショートステイとか、病院にと、本当に考えてくれた妹。
地元では、どうにもならなく札幌に住民票も移し、認知症専門の病院に入院していた。
つい2週間前、誤飲が原因で肺炎をおこし、熱発。
その後自力で熱をさげ、そこそこ元気だった。
そしてまた誤飲がきっかけで、心肺停止。
私たちは、「蘇生はしないで欲しい」とお願いしていたのだけれど、「ほうれんそう」(報告・連絡・相談)ができてなくて、内科の先生は30分も心臓マッサージを頑張った結果、その後心臓は動き、自発呼吸もある。
けど麻痺も残り、意識はなく、かろうじて聴覚だけ残っているかも??な状態。
80歳になる人にそんなに長く蘇生(心臓マッサージ)しても、どうなのかな??って私は思うんだけど・・・。
家族が来るまでって思って頑張ったのかな・・・。
精神科のDrには、私たち子どもがどんな思いで過ごしてきたかとか、しっかり伝えていてその先生は、「わかりました」って言ってくれた。
妹は、今の職場で高齢者の方々が、どんな暮らしをしているかを知っているので、家族が誰も逢いに来ないみたいにならないようにとか、若くないのだから、静かに暮らせるようにとか、いろんなことを考えてくれていたのに、残念。
認知症の専門病院だったけれど、いまいち家族の想いまでは、汲み取ってくれるゆとりはないのかもしれない。
どうしようかなぁ??と迷ったけれど、とりあえず札幌に向かったのが、月曜日。
考える時間も欲しかったし、出会ってどうなるかわからない自分もいたし、葛藤もあったし・・・・。
父の子どもとして、生まれてきているのは3人。
そして、内縁関係で育てた子どもが2人。
妹は小さい時に、私と一緒に暮らしているので、父のすさまじい暴力を経験したのは少ない。
私も、50歳にもなれば、暴力からは逃げられるけれど、言葉でぐっさりやられるのは、いまだに痛い。
だから、
2年前くらいに、「最後の別れ」と思い、
「パパ。ありがとう、この世に命をくれて。パパありがとう、殺さないでくれて。パパはもうパパの人生を楽しんでほしいんだ。」
そう伝えたことがあった。
私はこの時に、もうパパと娘の舞台から降板したかった。
したつもりだった。
「心肺停止」と連絡があって、30分が過ぎても、メールが途絶えたままになったとき、「エンドロールは下りなかったんだな~~」って思い、もう少し続く「ざわざわ感」と、この先私に何が待っているのかと、少し気持ちが重くなった。
夜中のJRで函館を出発し、札幌につき地下鉄に乗り換え。
病院があくであろう時間につき、娘であること、函館から今ついたことを告げると、面会時間は15時なんですと言いながら、病室を教えてくれた。
丁度洗面の時間になり、蒸しタオルを差し出され、「家族の方に拭いてもらってもいいですよ」と、言われた。
何気なくそれを受け取り、
「パパ、三千恵だよ、顔拭くね~~」と、介護職だった私にスイッチが入った。(笑)
聴覚だけは残っていると思うというDrの話だったけれど、
自分の伝えたい事、
「お姉ちゃんね、パパの事嫌いじゃないよ」
「でもごめんねって一回聴きたかった」
「パパの子どもたちの家族は、みんな元気だから心配しなくていいんだよ」
「あ!週末にまーなが来ると思うから、それまでは、頑張っててね。まーなには、いっぱいお小遣いくれたり、ほめてくれてありがとう。」
「あーやは、いろいろパパのために頑張ってしてくれているから、あーやが困らない時を選んで、おばあちゃんのところに行くんだよ~~」
「あと、神様に天国に連れて行って・・・ってお願いしているから、大丈夫だよ、ちゃんとおばあちゃんに逢いに行ってね」
などなど。
あとは、念願だった「三千恵、ごめんね」って父の手を借りて、頭を何回もよしよしと撫でてもらい、たくさんたくさん、謝ってもらった。
そのうち、私は父の顔をなでたり、身体をさすったり、80年生きてきた彼の生きざまを言葉で聴きたかったなと思ったり、
もっともっと、普通の会話をしたかったなと思ったり、
「パパ、私はパパが嫌いだったわけじゃなくて、大好きだけど、怖かったからそばに寄れなかっただけなんだよね」
とにかくいろんな言葉を使って、「嫌いじゃないんだよ」「憎んでないんだよ」と・・・・。
帰り際、妹が来てくれて、少しお茶を飲みながら、夏からのでき事を知り、いろんなことがあったけど、
緊急時には、彼が育てたすべての人間が集まって来るというのも、すごいな~~と、思いながら帰ってきた。
私は、帰り道が重たい荷物が取れて、背中が軽かった。
父とあんなに長い時間一緒にいたのは、初体験。
初めて親子になった日なのかもしれない。
私の家族も、妹の家族も、私が苦しくならないようにと、いろいろ手を差し伸べてくれてる。
その優しさにとても感謝。
ありがとう。
もしかしたら、その時間を作るために、戻ってきたのかもしれない。
虐待を受けたままで大人になること、親と対決しないままでいること、親を許容しないままで生きることって、やっぱり辛いなぁ・・・と、私は思う。
いつまでも、自分の人生を左右されてしまうし、できれば子どもの時に、だれか信頼できる大人と出会って、相談したり、一緒に悩んだりしてもらえる愛着対象がある人に慣れることが、
一番の解決なんじゃないかな。
虐待している親のことも、包み込めるそんな制度が早くできてほしいけど・・・。
この一年で本当にいろんなことがあって、そのたびに浄化されて、どんどん気持ちが楽になってきた。
その準備をずっとしてきたんだな…って思うと、どんなことも無駄じゃない。
そんな風に昨日はマルシェにいて思った・・・・。(^_^)v
私の名前の三という字は、三途の川の三でもあり、あの世ともこの世ともつながっていると教えてもらったことがあった。
その名前を付けたのは父であり、その当時は「名前辞典」を一生懸命みて、名前を考えてくれたとも、聞いたことがある。
少なくとも、その時点では私は望まれた子どもだった。
当時ではめったにないカメラがあり、小さい時からの写真はたくさんある。
年齢に応じて、表情が暗くなっているけれど、3年くらいはかわいい娘と、子煩悩の父だったんじゃないかなと、最近思うようになった。
どこで、歯車がくるってしまったのかわからないが、父は墓穴をほったあと、どんどんその穴を広げていくタイプの人なので、きっと収拾がつかなくて、こまっていたのかもしれない。(笑)
そんな父だけど、横たわっている姿はかわいそうだった。
不本意だろうね。
けど、私が一歩前進できているのは、やっぱり今命があるからこそ。
私は、私の道へ進んでいく。
そんな力をくれて、ありがとう。
そして、お疲れ様。
辛い思いをする子どもはもう、私たちの家族にはいないから、安心してね。バイバイ~~
そして、いってらっしゃい。
もう函館に戻ってきていますが、落ち着いたら逢いに行きます。きっと共有できるものがあるって思うから。
泊りがけかもしれないけど・・・・(笑)
もう辛いって思わなくてもいいかもくらい、背中の荷物が下りたように思いますが・・・。
すべては、神様のいうとおり・・・。だったのかな~~って、思います。