徒然なるままに ~ Mikako Husselのブログ

ドイツ情報、ヨーロッパ旅行記、書評、その他「心にうつりゆくよしなし事」

ドイツ:5月1日はマイバウムで愛の告白

2016年05月01日 | 歴史・文化

5月1日はメーデー・デモなどで各地で物騒な暴動が起こったりすることもありますが、同じ日の行事とは思えないのほほんとした話題を今日はご紹介したいと思います。

ドイツ全国に広がっている風習ではありませんが、私が住みついているライン川流域を始めとするドイツ西部では5月1日(またはすでにその前日)に白樺の木を意中の女性の住む家の玄関前あるいは窓の下に立てる習わしがあります。送り主が分かるように樹皮に名前を直接彫ったり、ハート形の札に名前を書いて、木に括り付けます。そのように立てられた木をマイバウム(Maibaum、【五月の木】)と呼びます。マイエン(Maien)とも言われます。上の写真はその一例です。ボン近郊のケーニヒスヴィンターという小さな町で撮影されたものです。

余談ですが、私自身はマイバウムを一度も貰ったことありません。昨日、ダンナが街でマイバウムを見かけて、「ごめん、今年もマイバウム忘れちゃった」などと言い訳してましたが。一緒に住み始めて22年、結婚18年目になってまあ今更ですよね( ´∀` )

毎年森から不法に白樺切り出されることが絶えないとか。こうして立てられたマイバウムは1か月後、6月1日に送り主が引き取りに来ることになっています。ものがものですので、意中の彼女に前以て意向を聞いておくことが多いようです。やはり突然そんなものを家の前に立てられたら邪魔で迷惑ですし、求愛行為に等しいものが1か月間も人目に曝されるとなるとかなり恥ずかしいものがありますよね。

贈り主がマイバウムを引き取りに来た際に、意中の彼女の母親から食事に招待されたり、父親にビールの箱詰めをお返しされたり、あるいは意中の彼女本人からキスをもらったりするそうです。

地域によっては村の独身男性全員で村の独身女性の住むところに片っ端からマイバウムを立てるところもあるようですが… 一人の女性のためにする方が可愛げがありますよね。

 

さて、このマイバウムの起源は諸説ありますが、まだゲルマン人がキリスト教に改宗する以前の森の女神を祀る儀式が元になっているのではないかと言われています。この愛の告白としてのマイバウムがある地域は限られていますが、5月1日に木を飾って、町の広場に立てるという慣習はノルトライン・ヴェストファーレン州、フランケン(バイエルン州北部)、バーデン・ヴュルッテンベルク州、東フリースラント、オーストリア、チェコにも見られます。

キリスト教改宗後の中世辺りでは非キリスト教的な風習は徹底的に弾圧されたため、マイバウムも地域によっては名称を変えマリエンバウム(Marienbaum、【マリア様の木】)またはプフィンストバウム(Pfingstbaum、【ペンテコステの木】)と言われ、木を立てる時期にもずれがあります。北欧では夏至の日に行うことが多いようです。

下の写真はミュンヘンのヴィクトゥアリエン市場に立てられたマイバウムです。バイエルン州のシンボルである青と白で飾り立てられています。こちらの方はお祭りの一環として立てられているので、上の写真のような愛の告白的な意味合いは全くありません。

  

 

今年は5月1日が日曜日に当たってしまいましたが、ペンタコステが近く(5月15・16日)、祭日が多いので、嬉しい限りです。日本でもゴールデンウィークですね。素敵な日々をお過ごしください。

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イースターエッグに色を付けて隠すウサギの話~ドイツのイースター

2016年03月24日 | 歴史・文化

先日のベルギーの連続テロで世の中が騒然となっていますが、テロの後に必ず出て来る政治家の「テロと戦う」、「ヨーロッパはもっと密接に協力し、情報交換をしていかなければいけない」などというお決まりの宣言に興味が湧くわけもありません。2004年のマドリッド、2005年のロンドン、2011年のオスロ、そして去年のパリ。その間にヨーロッパ警察及び諜報機関の情報交換・協力体制が改善されたかといえば、依然十分ではないと言わざるを得ません。イスラエル諜報相のジスラエル・カッツがブリュッセル連続テロの翌日、国営ラジオで「もし彼らがベルギーで彼らのチョコレートを食べ続け、楽しい生活を享受し、世界に向けて素晴らしい自由主義かつ民主主義者を標榜し、その際同国に住んでいるムスリムの一部がテロを準備していることに注意を払わなければ、対テロリストの戦いに勝つことなどできないだろう」とベルギーのテロ対策を馬鹿にしていましたが、馬鹿にされても仕方ないような不備があることも否めません。ヨーロッパ以外でもテロはあちこちで殆ど日常的に起きています。この場を借りて、全ての犠牲者の方のご冥福をお祈りいたします。

 



さて、テロに屈服せずに日常生活を送るのが今のヨーロッパ人の気概とも言えますが、明日は聖金曜日、ドイツ語ではKarfreitag(カールフライターク)で、復活祭の始まりです。イエス・キリストが復活したことを記念する祭日、ということですが、それにまつわる慣習はクリスマスなどと同様、本来キリスト教とは無関係なものが定着しています。中でも典型的なシンボルはウサギと卵です。

ドイツ語で復活祭はOstern(オースタン)と言いますが、これはゲルマン民族の豊穣の女神Eostre(エオストレ)のお祭りであるOstara(オースタラ)が語源です。英語のイースター(Easter)もその変形です。つまり、復活祭の名称自体が非キリスト教的なわけです。そして、卵もウサギも古代から豊穣と生命・再生のシンボルでした。キリスト教会は布教の一環として土着の宗教のシンボルを利用し、民衆にキリストの教えを受け入れやすいものにしてきました。復活祭に関しても卵とウサギをキリストの復活に重ね合わせたわけです。

ドイツの家庭では現在、ウサギが卵に色を付けて庭に隠したことになっており、子どもたちが隠された卵を探し回ります。なぜ、ただの豊穣と生命・再生のシンボルだったウサギがこんな役割を負うことになったのでしょうか?

ウサギに限らず、動物が卵を隠すという迷信は既に16世紀ころに存在していました。チロル地方では雌鶏、スイスではカッコウ、ドイツの中央部ともいえるチューリンゲンではコウノトリ、その他のドイツ各地ではキツネや雄鶏が卵を隠すとされていました。ただ、イースター前の季節にはウサギが空腹で、本来なら人を避ける動物なのに、繁殖期ということもあって、人家の庭によく姿を現す現象と相まって、1800年ころには「卵を隠すのはウサギ」というのが定番となったようです。

同じころに主にプロテスタント教徒の間で、卵探しが教会とは関係のない家庭の祭日行事となっていました。これは、「カトリック教会による色付き卵の奉献式がイースター信仰の行き過ぎである」というプロテスタント教会の見解から、教会抜きの行事として始まったようです。19世紀には『家庭での卵探し』がカトリック教徒の間にもしっかりと根付いていました。その頃には卵とウサギが切っても切れない関係として定着してしまっていたのです。ウサギにとってはとんだ濡れ衣ですね

面白いことに、ドイツにはイースターウサギ郵便局(Osterhasenpostamt)なるものが3か所存在します。そこにイースターに間に合うように手紙を書くと、イースターウサギから返事がもらえるんだそうです。住所は以下の通り。

Hanni Hase, Am Waldrand 12, 27404 Ostereistedt(ニーダーザクセン州)

Olli Osterhase, Oberlausitzer Osterhasenpostamt, OT Eibau, Hauptstraße 214a, 02739 Kottmar(ザクセン州)

Osterhase, Siedlungsstraße 2, 06295 Osterhausen (ザクセン・アンハルト州)

さすがにサンタクロース郵便局よりは少ないですが、おちゃめな子供向け事業です。

参照記事:
ディー・プレッセ、2016.03.23付けの記事「イスラエル:ベルギー人はチョコレートを食べてないでテロ対策を講ずるべき
ドイツ公営放送ARD、プラネット・ヴィッセン、2014.04.17最終更新「イースターウサギ」 
ウィキペディア・ドイツ語版、「イースターウサギ


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カーニヴァル:ローゼンモンタークのパレード、ドイツ事情

2016年02月08日 | 歴史・文化

今日はカーニヴァルの頂点と言えるローゼンモンターク(Rosenmontag)です。この日は伝統的に各地で仮装パレードが行われますが、今年は残念ながら強風警報が出ており、カーニヴァルの牙城であるマインツやデュッセルドルフをはじめとするいくつかの都市でパレードが中止となりました。しかしながら、街頭カーニヴァル復活の元祖ともいえるケルンのカーニヴァル委員会はパレードを強行。さすがというかなんというか。中止にしたらそれこそ暴動が起きそうな勢いです

まずはローゼンモンタークそのものについて。直訳すれば「バラの月曜日」ですが、その由来はドイツ語版Wikipediaによると少なくとも二つ説があります。

ナポレオン占領下でライン川沿岸の地域のカーニヴァルは厳しく取り締まられていました。1815年のウィーン会談により占領が終了し、カーニヴァルも改革されることになりました。それを受けて1822年11月6日にケルンで「パレード整列する委員会(Festordnenden Comites)」が結成され、毎年レターレ(Laetare)と呼ばれる4番目の断食日曜日の後の月曜日、つまり本来のカーニヴァルの4週間後に総会が開かれました。レターレの日曜日は11世紀以降ローゼンゾンターク(Rosensonntag、バラの日曜日)とも呼ばれていました。なぜならこの日教皇が金のバラを祝福し、それを表彰に値する人物に贈ったからです。パレード整列する委員会はローゼンモンターク会とも呼ばれていました。つまり、この説によれば、ローゼンモンタークは本来カーニヴァルの4週間後の月曜日を指していたことになります。

もう一つの説は、グリム兄弟編纂のドイツ語辞典に掲載されているもので、中期高地ドイツ語のRasenmontag(ラーゼンモンターク)、つまり、”rasenden Montag” (バカ騒ぎする月曜日)から派生しているとします。同辞典によれば、rasen (ラーゼン:狂う、失踪する、我を失う)のケルン方言はrose(ローゼ)であり、”tollen”(トレン:大騒ぎで走り回る)の意味だとのことです。

私見ですが、グリム兄弟の説の方が説得力あると思います。なぜなら、4週間後の月曜日を指す名称がなぜカーニヴァルの月曜日の名称になったのか説明できませんから。グリム説をとるなら「バラの月曜日」ではなく、「大騒ぎの月曜日」ですね。その方が実情に合ってると思いませんか?

南の方ではファスネットやファッシング、あるいはルツェルンではグューディス・メンティク(Güdis-Mäntig)と言います。

さて、本来の意味はともかくとして、ローゼンモンタークのパレードは政治(批判)色が濃いのが特徴的です。パレードに登場する張りぼて(モットー・ヴァーゲン、Mottowagen:モットーを表現する「山車」のようなもの)は必ず最新の政治的テーマをモチーフにしており、悪趣味なものもあれば秀逸なものもあります。

今年の最大のテーマはやはり【難民問題】でしょう。このブログでも難民問題の記事が意図せず一番多くなってしまっているのも、 そのためです。

ケルンでは本行列の前座として反グローバル化団体Attacによる行進がありました。モットーは「茶色の悪党に対するカラフルな火花(Bunte Funken gegen braune Halunken)」。「茶色」は通常ナチのシンボルカラーです。ここでは難民排斥運動を推し進めているペギーダを指しています。Funken(フンケン:火花)とHalunken(ハルンケン:悪党)で脚韻も踏んでいます。

© Udo Slawiczek
(http://www.attac.de/startseite/detailansicht/news/bunte-funken-gegen-braune-halunken-beim-rosenmontagszug-in-koeln-1/)

反対に物議を醸しだしているのがバイエルン州のライヒャーツハウゼンに登場した厚紙製の戦車。イルムタール難民防衛(Ilmtaler Asylabwehr)と銘打ってあります。

© Florian Simbeck/ dpa

この写真の引用元であるツァイト・オンラインの本日付の記事によれば、この張りぼて作成者に対して民衆扇動の疑いで捜査されるとのことです。

また、チューリンゲン州ヴァーズンゲンでも「バルカン・エクスプレス」と銘打った機関車の張りぼてで、車体に「災厄が来る(Die Ploach kömmt)」と書かれています。そして、バッタに扮した人たちに囲まれていたので、メッセージとしては≪バルカンルートでバッタの大群(難民たち)が押し寄せて災厄をもたらす≫と言ったところでしょう。

写真の引用元であるMDRチューリンゲンの本日付の記事によれば、こちらも民衆扇動の疑いで捜査されるそうです。悪ふざけにしろ、難民をバッタの大群に例えるのはかなりレイシズム的で、ナチスがユダヤ人をネズミの大群に例えたことを彷彿とさせます。

デュッセルドルフではパレード自体は強風警報のため中止になりましたが、パレード参加予定だった作品は市役所前に展示されています。難民の波に難破しそうになるメルケル首相やEU国境の遮断棒にぶら下がるゼーホーファー・バイエルン州首相など。

ケルンのカーニヴァルパレードはドイツ最大規模と言われていますが、デュッセルドルフはこれをライバル視して対抗してきたのですが、今年はかなり悔しい思いをしているようです。ライバルのケルンではパレードが開催されたのに、デュッセルドルフは中止。うーん、悔しいでしょうねー。カーニヴァルの積極的な参加者たちはそれこそ一年中この日を目指して準備を頑張っているので、折角の楽しみが。。。

カーニヴァルに関してもう一つ物議を醸しだしているのがアマゾン・ファッションで販売されているカーニヴァル用コスチュームで、第1次、第2次世界大戦をテーマにしたものです。ゲシュタポの制服や当時の難民の(子供の)扮装、というのもあります。

 

アドルフ・ヒトラーのマスクも!

 

んー、悪趣味ですねー。

ドイツのカーニヴァルのパレードは草の根民主主義の発露でもあるのですが、日頃の欝憤を晴らす場でもあり、普段は表に出せないことも表現できる場でもあり、かなり羽目を外してもお祭りの一過性の中で許されてしまう風潮があります。そのため、部外者の私はなんとなく見たくもないのに、他人の脳内を見せられてしまったような妙な苦々しさを感じずにはいられません。まあ、見なければいいだけの話なのですが、一応ドイツ文化の紹介も兼ねているブログですので、今日は色々とカーニヴァル関係資料を集めてみました。


カーニバルシーズン開始

女たちのカーニヴァル

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女たちのカーニヴァル

2016年02月04日 | 歴史・文化

今日は「女たちのカーニヴァル(ヴァイヴァーファスナハト、Weiberfastnacht)」です。地元の方言ではアルトヴィーヴァ(Altwiever)とも言います。Altは「年取った」、WieverはWeiberの変形で、Weib「女性」の複数形。英語のwifeと語源は同じです。


通常、ライン川流域でカーニヴァルといえば、ローゼンモンターク(Rosenmontag)、つまり来週の月曜日の仮装行列が頂点で、その前の木曜日は前祝的な感じで、街道カーニヴァルの開始をマークするものなのですが、ボンのライン川右岸にあるボイエルという町では、この日がカーニヴァルの頂点となります。1824年に婦人委員会という団体が地元洗濯女たちによって結成され、それまで女性は朝から晩までライン川の冷たい水で洗濯するなど働き詰めで、カーニヴァルの馬鹿騒ぎは男性の独占だったことに不満が爆発し、女性も積極的に祝う権利を勝ち取ったそうです。ナポレオン占領下で廃れてしまっていた街道カーニバルはケルンで「パレード整列する委員会(Festordnenden Comites)」が1823年に結成されたことによって復活したわけですが、既にその翌年にボイエルでご婦人のカーニヴァル委員会が結成されたことは注目に値します。これは一種の女権運動の萌芽と見られています。

 

以来比較的年を取った女性がオーバーメーン(Obermöhn、Oberは「上」、Möhn(e)は地元方言リプアーリッシュで既婚女性の呼称。日本語の「奥さん」に通ずるものがあるかも)という女性代表に選ばれ、若い女性が洗濯屋プリンセスに選抜されます。そして彼女たちはこのカーニヴァル前の木曜日にボイエルの町役場を襲撃し、象徴的に権力を握りました。具体的には役場の入り口のカギを収奪します。1957年以降はこの婦人委員会だけではなく地元の全てのカーニヴァル委員会が襲撃に参加しています。現在では何と17団体だそうです。ボイエル町役場襲撃の様子はこちらで見られます。今年はテッサ1世がカギを奪い取って、ボイエルに君臨するそうです。本当にローカルな話題でどうでもいいことですが。

参照記事:ボイエル洗濯プリンセス、「ヴァイヴァーファスナハトの歴史」 

 

そういうわけで、「女たちのカーニヴァル(Weiberfastnacht)」は祭日ではないにせよ、雇用主は地元の慣行を尊重し、従業員たちが仮装して出勤しても、午後も早い時間にカーニヴァルパーティーのために早退しても、鷹揚に対応することになっています。

私の会社(ボイエルにあります)でも仮装して出社してる人たちがちらほらいますし、そもそも休みを取っている人も多く、今朝は地下駐車場ががら空きでした。
昔は会社で結構大きな催し物とかがあり、社内でも女性たちが男性のネクタイをちょん切って集めるなどという慣わしがありましたが、地元でない人の割合が多くなりすぎたためなのか、切られても大丈夫なネクタイをしてくる男性も、ネクタイを切って相手の男性のほほにキスをするという女性もとんと見かけなくなりました。
もっと地元民の多い会社や商店とかは違うのかもしれませんが。

ケルンでも例年通り街道カーニヴァルが開催されました。ただし警備にあたる警察官の数は例年よりも大幅に多くなっていました。大晦日に大事件のあったところですから、警備が厳重になるのも頷けます。警察は早期介入をモットーに任務にあたったため、カーニヴァル参加者たちは安心してバカ騒ぎができたようです。特記すべき事件は一切起こらずに済んだようで何よりでした。

街道カーニバルの歴史については拙ブログ「カーニヴァルシーズン開始」もご覧になってください。

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アウシュヴィッツ解放、国際ホロコースト記念日

2016年01月27日 | 歴史・文化

1月27日は国際ホロコースト記念日です。2005年11月1日、国連総会はナチス・ドイツ政権によって、600万人以上のユダヤ人、200万人のロマ人、1万5千の同性愛者が迫害され大量に殺害されたホロコーストを確認し、憎悪、敵対感情、人種差別、偏見がもつ危険性を永遠に人々に警告することを目的とした国際連合総会決議60/7を採択し、ソ連・赤軍によって1945年1月27日アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所が開放されたことを記念して1月27日を国際ホロコースト記念日と定めました。

ドイツでは1月27日は1996年から法的に定められた記念日です。正確には国民社会主義(ナチズム)の犠牲者たちを偲ぶ日(Tag des Gedenkens an die Opfer des Nationalsozialisumus、ターク デス ゲデンケンス アン ディー オプファー デス ナチオナールゾチアリスムス)といいます。1996年1月3日にローマン・ヘルツォーク独大統領(当時)の宣言によって1月27日をナチス犠牲者たちを偲ぶ法定記念日が導入されたのです。ヘルツォーク元大統領はその宣言の中で「記憶に終わりがあってはならない。それは後の世代も注意深くあるよう警告し続けなくてはならない。だからこそ将来まで効力を発揮するような思い出すための新たな形を見つけることが重要なのです。それは苦しみと喪失を悼む気持ちを表現し、犠牲者たちを偲ぶことにささげられ、そしていかなる過ちを繰り返す危険にも立ち向かうものであるべきです(„Die Erinnerung darf nicht enden; sie muss auch künftige Generationen zur Wachsamkeit mahnen. Es ist deshalb wichtig, nun eine Form des Erinnerns zu finden, die in die Zukunft wirkt. Sie soll Trauer über Leid und Verlust ausdrücken, dem Gedenken an die Opfer gewidmet sein und jeder Gefahr der Wiederholung entgegenwirken.“)」と法定記念日の意味とその在り方について述べました。

記念日には毎年ドイツ連邦議会で追悼式典が行われます。今年はクリスチャンシュタット強制収容所に12歳の時に連行され、運よく生き延びたというオーストリア・ウィーン生まれ、現在アメリカ国籍の文学者であり、作家でもあるルート・クリューガー氏(84)が追悼式典で演説をしました。彼女が生き延びられたのは、収容所について仕分けを待つ行列の中で、ある女性に「15歳だと言いなさい」とこっそりささやかれたことによります。もし彼女が本当の年齢を言っていたら、即ガス室送りになるはずでした。年を誤魔化すことで即死ではなく強制労働によるゆっくりとした死が選択されたのでした。

© Michael Sohn/AP/dpa

「1944-45年の冬は私の人生で最も寒い冬でした。私たちは森を開墾し、木を割り、レールを運びました。何かを建てるつもりだったようです。それが何かは私たちには教えられませんでした。」それが完成することはなかったという。
食糧不足、寒さ、採石場あるいは森での重労働。 収容所での厳しい条件。奴隷労働と呼ぶにはその状態は相応しくない、とクリューガー氏は語りました。「奴隷の主人なら、奴隷が生き延びることにそれなりの価値を見出しているものですが、ナチスの略奪が続く限り代用はいくらでも来たのです。≪人間材料(Menschenmaterial)≫ならいくらでもある、と彼らはよく言ったものでした。」「終戦後、村の誰も収容所で何が起こっていたか知らなかったというのです。」

クリューガー氏はまた強制売春婦たちの運命にも言及しました。「収容所によっては特別バラックがあり、それなりに優遇された囚人たちに提供されていました。外には男たちが行列を作り、中では女性たちが性行為を強制されていたのです。この女性たちは強制労働者として認定されず、補償を受ける権利が認められませんでした。もし私たちが今日強制労働について顧みるならば、彼女たちのことも含めて考えなければなりません。」

演説の終わりにクリューガー氏はメルケル首相の難民政策を褒め称えました。「80年前に世紀最悪の犯罪を犯したドイツが今日ではその開かれた国境とシリアをはじめとする難民たちを受け入れた、そして今も受け入れている心の広さで世界の称賛(拍手喝采)を得たのです。」

連邦議会議長であるノーバート・ラマート氏を始め、この日ドイツの政治家達は外国人排斥、反ユダヤ主義、レイシズムなどに反対する態度を示し、現在台頭しつつある難民排斥などの動きに警告を発しました。

ホロコースト記念日を意識してのことかどうか分かりませんが、今日極右的思想を持つ人たちのプラットフォームとなっている「アルタメディア(Altermedia)」というインターネットポータルが禁止となり、そのポータルを運営していたという容疑者二人が逮捕されました。サーバーはロシアにあるとのことで、その完全停止にはもう少し時間がかかる模様です。そのポータルでは排斥思想が拡散されたばかりでなく、積極的に誰かを標的にした暴力や殺害を教唆していたため、ポータルの禁止と運営者の家宅捜査・逮捕に踏み切ったとのことです。ポータル自体は既に1997年に立ち上げられていました。

トーマス・ドメジエール内相は今回の禁止・逮捕でインターネットが無法地帯ではないこと及び国が断固として極右思想と戦うことを示す明確なシグナルを送ることができると考えているようです。一つのポータルを禁止しても、またどこかで違うポータルが立ち上がるのは分かり切っているし、イタチごっこになるのは承知の上だが、無法地帯にはさせない、という強い意志を示しました。

ヨーロッパの右傾化が懸念されていますが、極右勢力が社会のメインストリームになることを許さない勢力も断固戦う姿勢を強めていますので、社会の緊張感は高まるにせよ、排他的な動きはある一定レベルで抑制されることが期待できそうです。

参照記事:

ツァイト・オンライン、2016.01.27日付の記事「今日のドイツは世界の称賛を得ました
ディー・ヴェルト、 2016.01.27日付の記事「メルケルの「私たちは成し遂げられる」に感動的な讃嘆
ターゲスシャウ、2016.01.27日付の記事「貴方たちは世界の称賛を得た」(ターゲスシャウの記事は規定により一定期間を過ぎると削除されます)
ターゲスシュピーゲル、2016.01.27日付の記事「ドメジエールは極右扇動家たちを止める」 

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『我が闘争』歴史批判的注釈付き学術版、正式販売開始前に既に在庫切れ

2016年01月09日 | 歴史・文化

拙ブログ「ヒトラー著『我が闘争』、ドイツで著作権切れ」で述べた注釈付き学術版『我が闘争』が1月8日に正式販売開始、となりましたが、発行元であるミュンヘンの現代史研究所によると初版の4000部は既に予約注文が殺到したため在庫がなくなってしまい、急遽増版することになったそうです。まだ部数は決定していないようですが、需要はかなり大きいようです。

この学術版の注釈は、歴史的背景の説明だけではなく、ヒトラーが『我が闘争』で展開した扇動的内容を徹底論破し、ヒトラーがどのような嘘やデマを書き込んでいたかを明らかにすることを目的としています。その為、現代史研究者たちが発行を待望していたという本で、研究者や国内外の図書館ばかりでなく、歴史に興味を持った一般人も(学術書にしては59ユーロという求め安い値段だということもあり)予約注文したのでしょう。


ヒトラー死後70年で著作権切れとなり、オリジナル版を復刻することも、物議を醸しだすこと請け合いですし、禁固刑・罰金刑になる可能性もあるとはいえ、一応可能となりました。ミュンヘンの現代史研究所はオリジナル版復刻の動きを、著作権切れに合わせて注釈付き学術版を発行することで牽制するつもりだったそうです。

この注釈付きの『我が闘争』はドイツのユダヤ人中央評議会からも評価されていますが、ナチスの犠牲者の方や遺族の方の中には「とんでもない!」と否定的な見解の人もいるようです。

私自身としては注釈の方にかなり興味があるので、機会があれば学術版『我が闘争』を入手したいと思っています。

そもそもある特定グループに対する敵視・迫害を扇動することは偏見や嘘や誇張や不適切な一般化なしできるものではありません。扇動するデマゴーグ自身は自分の付く嘘や誇張を自覚しているのでしょうが、受け皿となっている大衆の方は扇動目的で拡散される内容を無批判に鵜呑みにし、自分できちんと調べる手間を省こうとするのが問題です。また物事を単純に捉えようとし過ぎるのも差別の温床をなす一因でもあります。人を個人個人ではなくカテゴリーでしか見ることができない単純思考は、不適切な一般化や誇張を許容し、増長させる原因でもあると思います。そういう思考回路の人たちは論理的整合性や厳然たる個別事実に目を閉じがちで、まともな議論ができないのが難点です。こうした学術版『我が闘争』のような啓蒙活動も単純思考回路の持ち主たちには往々にして届かないところが残念です。

日本の政治家の中には「ヒトラーやナチス(特に広報担当だったゲッペルス)の方法をまねればいい」と公言する人たちすらおり、そのような人たちを野放しにしている日本のマスメディアや世論をいつもドイツから信じられない思いで見ています。もしそれがドイツだったならば、辞任だけでは済まされず、本当に政治生命を絶たれた上に、場合によっては刑罰を受けることになるでしょう。ドイツのヘイト運動といえば、現在はネオナチではなく、ペギーダ(拙ブログ「ドイツの難民排斥運動」)ですが、彼らにしてもナチスやヒトラーを公に礼賛することなど絶対にありません。鉤十字を掲げることも、ハイルヒトラーの敬礼をすることも刑罰の対象となっているからです。右翼のハードコアな人たちが内輪での集まりで鉤十字を掲げたり、ハイルヒトラー敬礼をしたりすることはあるのかも知れませんが、デモではそういうことはしません。日本でヘイトデモして、鉤十字を使っている人たちはそういうこと知っているのでしょうか? ドイツ人たちがヒトラーと鉤十字で連想することは「独裁政権」などと言う生易しいことではなく、「600万人のユダヤ人殲滅」です。もちろんナチス政権下では身体障害者や精神病者なども迫害の対象とされ、去勢手術を強要されたり、単純に殺されたりしました。他にも戦争体験がトラウマとなって心を病んでしまった兵士たちも闇へ葬り去られました。アーリア人的理想像に適合せず、労働力にも戦力にもならない人間には生存権すら与えられない世界、それこそがヒトラー・ナチス・鉤十字の象徴する世界です。そうした世界のたとえ一部であっても肯定するような言動をする政治家を許容する日本という国がどういう印象をドイツ人にあるいはユダヤ人社会に与えるか日本に閉じこもっている日本人には想像もできないのかも知れません。政治家というものは、良くも悪くも国民の代表です。誰とは言いませんが、日本の恥をさらし続ける政治家たちを選挙で選ぶ人たちの気が知れませんし、選んでない人たちも一緒に「日本人」というカテゴリーで一緒くたにされて軽蔑の対象とされるのは腹立たしいことです。

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学術版『我が闘争』(ミュンヘン現代史研究所)ついに入手

ヒトラー著『我が闘争』、ドイツで著作権切れ



ドイツの新年の迎え方

2016年01月01日 | 歴史・文化

皆様、あけましておめでとうございます。 日本では大晦日には年越しそばに除夜の鐘、正月にはおせち料理、お雑煮、おとそ、初詣、等々決まった行事や慣習がありますが、ドイツでは年越しパーティーと花火くらいしかありません。 大晦日はドイツ語でSilvester(ジルヴェスター)と言います。各地でパーティが開かれますが、一番大規模なのはベルリンのブランデンブルク門前のパーティーで、参加者は20万人以上になります。今回はテロのリスクもあるため、かなりの警戒態勢が敷かれたようです。 花火は市などの公の機関が打ち上げる大きなものもありますが、大抵は個人がめいめいに上げる花火で、早い人は既に昼間から始めてますが、通常は年明けカウントダウンをしてもおかしくないような時間、夜の11時50分辺りから打ち上げる人が多くなり、0時過ぎたら花火を用意した全員が点火し始めます。

我が家では自分たちで花火を打ち上げることはなく、0時にシャンパンを開けて乾杯し、ベランダから近所の人たちが打ち上げる花火を見物します。昨夜の写真です。

  

一般向けの爆竹・花火の販売は年末の3日くらいだけですが、毎年かなりの売り上げです。今年も前年度レベルの約1億2900万ユーロ(約168億円)になる見込みです。

花火はうちの近所では0:30くらいにだいたい終わりになりますが、街中では特に若い人たちが1時2時になってもまだ花火・爆竹をやっていたり、単にお酒を飲んで練り歩いていたり、朝までどんちゃん騒ぎ、ということもあります。

「初日の出」を見る、というこだわりは特にありません。元旦に関する縁起物もありません。

祭日は元旦のみで、2日から通常運転になります。今年は週末にかかっているので、私の仕事始めは1月4日になります。元旦から仕事をする人たちの代表は清掃業者ですね。

ジルヴェスターの後始末、ベルリンジルヴェスターのごみの後始末をする清掃業者、ベルリン(rbbより)

清掃業者が入る前の街の状態は酷いものです。毎年のことですが、なんで打ち上げた本人たちがその残骸を片づけないのか疑問です。街中にあるごみ箱はすぐにいっぱいになるから無理だとしても、近所から出てきているだけなら、残骸を家に持って帰っても良さそうなものです。もっとも、市の清掃業も重要な単純労働者の雇用先なので、清掃の需要はあった方がいいともいえるのですが。

こうした市町村の単純労働は今後、失業者ばかりでなく難民申請者たちにも回されていくようです。少なくともアンドレア・ナレス独労相は10万人分の雇用を地方自治体の清掃や子供の遊び場などの修繕で創出すると宣言しました。具体的なことはこれから検討するようです。100万人の難民申請希望者に対して10万人の雇用、しかも単純労働のみで具体案無し、というのはあまりにも情けない状況です。トルコの怪しげな協力のおかげでヨーロッパに入る難民の数は減ってきていますが、既に入ってしまっている難民の数は200万をこえるので、この人たちの処遇はヨーロッパ各国、特に難民受け入れに積極的なスウェーデン、ドイツ、オーストリアにとっての大きな課題です。

ドイツの2015年度の今年の言葉に選ばれたのは『難民(Flüchtlinge)』でしたが、2016年も難民問題は大きな社会問題のままでしょう。

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ヒトラー著『我が闘争』、ドイツで著作権切れ

2015年12月30日 | 歴史・文化

アドルフ・ヒトラーが1924-26年に書いたプロパガンダ本『我が闘争』はナチス時代に数百万部発行され、どの新郎新婦にも結婚式で『我が闘争』が贈られたものでした。これにより、ナチス思想が拡散されると同時にヒトラーも億万長者になりました。
来年1月には『我が闘争』の解説付きの学術版がミュンヘンの現代史研究所から発行されることになっています。今年末の著作権切れを目途に三年前から学術版プロジェクトがスタートしていました。本は27章、1950ページ。第1刷は4000部で59ユーロだそうです。

ヒトラーは自分の遺産相続人としてNSDAP(ナチス党)を指定し、党が解散している場合には国がそれを継ぐ、としていました。ヒトラーの住民票は最後までミュンヘンにあったため、彼の遺産はバイエルン州が相続しました。その中にはもちろん『我が闘争』の著作権も含まれています。バイエルン州政府の政策は明瞭で、これまで『我が闘争』の復刻を許してきませんでした。
この著作権はヒトラー死後70年、即ち2015年12月31日を以て失効します。その為、新たに復刻版を発行するか否かで物議を醸しだしています。バイエルン州としては復刻版の発行により、数百万人の命を奪うことになった世界観が再び広められることを何としても阻止するつもりです。しかしながら、絶版以前の古本はこれまでずっと普通の古本同様売買可能でありましたし、電子書籍もドイツ国内で出回っています。ドイツ国外でも言わずもがなです。
州法務省は刑法130条第2項、「ある特定グループに対する扇動を内容とする書物の拡散する者は3年までの禁固刑あるいは罰金刑を科される」、に基づき、復刻版を出版しようとする者を罰せられると見ています。
これに対し、パッサウ大学の政治学教授バルバラ・ツェーンプフェニヒは、『我が闘争』を禁止するのは大袈裟であり、不必要だ、70年間の民主主義を経て、ドイツ国民もこの本と理性的に向き合えると信じてもいいはずだ、と批判しています。

参照記事:ZDFホイテ、2015.12.29付けの記事「ヒトラーの『我が闘争』は今なお議論を呼ぶ」及び「アドルフ・ヒトラーの『我が闘争』、新たに出版」

ドイツ人はしょうもない論争をする、と時々呆れます。議論があるのは民主主義の証拠なのかもしれませんが、ことナチスに関しては相当神経質です。
この記事とは別に、とある右翼団体の代表がインタビューで、今時の右翼は『我が闘争』にせいぜいシンボリックな意味しか見出していないし、大抵は本棚のどこかに飾ってあるだけ、と言っていました。
そもそも『我が闘争』は「読めない」という定評があります。私も日本語で挑戦したことがありますが、退屈なうえに論旨が一向に見えない悪文が多く、読破できるものではなかったと記憶しています。解説付きの学術版ならともかく、オリジナルの復刻をわざわざ買って読もうとする人はあまりいないと思われ、出版する経済的旨味がないかと予想されるので、わざわざ禁止にすることもないのではないでしょうか。

 

追記:「わが闘争」の学術版についてはこちらもご覧ください。

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Heiligabend (クリスマスイヴ)

2015年12月24日 | 歴史・文化

今日はクリスマスイヴです。ドイツ語ではHeiligabend(ハイリッヒ・アーベント、聖夜)と言います。
私が初めてドイツに来た年、クリスマスには衝撃を受けたものでした。なぜなら、クリスマスイヴの14時からお店が全て閉まり、バスや電車まで午後の早い時間に終わってしまったからです。長距離電車はその限りではありませんが、とにかく、その寸前までのクリスマス買い物客の賑わいというものがあっという間に静寂に変わってしまったのでした。私はその当時ボン郊外の学生寮に住んでいて、街中からバスで20分弱乗らなければいけなかったのですが、買い物した後にちょっとぼーっとしていたら、帰宅する手段がタクシーしかなくなっていたという悲惨な目に合ったわけです。
ドイツは12月25,26日が祭日です。それぞれ、Der erste Weihnachtstag(デァ・エァステ・ヴァイナハツターク、第一クリスマス休日)、Der zweite Weihnachtstag(デァ・ツヴァイテ・ヴァイナハツターク、第二クリスマス休日)といいます。開いているお店は通常ありません。つまり、24日の14時までにクリスマス休日分の食糧を買い込んでおかないといけないわけです。今年はクリスマス休日明けの27日が日曜なので、1日分余計に食糧備蓄が必要です。慣れればどうということはありませんが、日本の年中無休24時間営業のコンビニがあることに慣れている人には非常に不便な生活と言えるでしょう。それでも閉店法緩和のおかげで土曜日でもスーパーが22時まで開いている所が増え、昔よりは融通が利くようになりました。

さてドイツのクリスマスですが、ドイツ人はクリスマスを家族とともにどちらかと言うと静かに過ごします。Besinnlich(ベジンリッヒ、瞑想的な)というのがクリスマスの過ごし方のキーワードです。敬虔なクリスチャンであれば、24日のKindermetteというミサに参加し、その後先祖の墓参りをします。お墓に小さなクリスマスツリーを飾り、ろうそくを供えます。ろうそくだけ供える場合も多いです。
家庭によって過ごし方は様々ですが、夕方クリスマスソング(Weihnachtslieder、ヴァイナハツリーダー)を歌ったり、クリスマスの物語などを語ったあとに、子どもにとって一番楽しみなクリスマスプレゼントが渡されます。プレゼントは前以てクリスマスツリーの下に宛名付きで置かれており、歌を歌って人心地着いたら「プレゼントがありますよ」と宣言され、各自クリスマスツリーのところに行って自分宛てのプレゼントがあるかどうか確認します。プレゼントはその場で開けるのが原則です。プレゼントの後歓談し、ディナーとなります。
クリスマスディナーに七面鳥、というのはドイツでは一般的ではありません。どちらかと言うとガチョウがポピュラーです。
私の夫の実家ではクリスマスイヴはエスカルゴとフォンデューと決まっていました。義父がフランス生まれだった為、かなりフランス風な家庭でした。
しかし本来は12月24日はまだ断食日になっていたため、肉食は厳禁で、魚料理(クリスマスの鯉料理などが知られています)が中心でした。25日のクリスマスミサの後で漸く肉が解禁となり、ソーセージやポテトサラダなどが食卓に上ったそうですが、今日ではクリスマスとキリスト教の乖離が激しく、そのような食事の規定はよほど敬虔なクリスチャン家庭でない限り残っていません。大抵の「今時普通の」クリスチャンはミサにも行かず、クリスマスっぽい音楽を聴き、プレゼント交換をし、普段より豪華な食事をします。
25・26日は親戚同士やご近所・友人同士が訪問し合い、クッキーやシュトレンなどクリスマスに典型的なスイーツを分け合ったり、またはディナーを共にします。日本でいうところの正月三が日のようなものです。年に一度とはいえ、この親戚一同とのおつきあいを煩わしく思う人が少なくないのはドイツも同じです。
シュトレン(チェリー入り)

クリスマスの起源は、ご存知の方も多いでしょうが、キリスト教とは本来一切関係ありません。イエス・キリストの誕生日でもありません。もともとはローマ帝国において冬至を迎え、春の到来を祝うお祭りだったと言います。イエス・キリストは秋に生まれたらしいのですが、その復活の神秘に重ねて、冬至祭りの日である12月25日がその誕生日に相応しいと考えられたようです。文献で12月25日に祝うクリスマスの初出は紀元後325年です。古い信仰が新しい宗教に内包されつつ生き延びていく良い例と言えます。人々の信仰はそう簡単に180度転換できるものではないということなのでしょう。

皆様、素敵なクリスマスをお過ごしくださいませ。

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カーニバルシーズン開始

2015年11月11日 | 歴史・文化

今日から、「5番目の季節」の始まりです。
「5番目の季節」とは、カーニバルの季節を指し、11月11日、11:11、市庁舎などを占拠したり、その年のカーニバルプリンス・プリンセスのお披露目をしたりすることで始まり、お笑いセッションが年末まで数回開催され、狭義のカーニバルを経て、「灰の水曜日」というカトリックの移動祭日前日で終わります。
デュッセルドルフ、ケルン等のライン川流域及びヘッセン州マインツなどがその中心地で、仮装行列やパーティーで賑わいます。行列は大都市では数万人規模になります。


因みに地域によっては、「5番目の季節」がクリスマスとそれを待つアトヴェント(クリスマスの4週間前に始まる)期間だったり、狭義の意味でのカーニバル(断食の始まる灰の水曜日前のお祭り騒ぎ期間)だけだったりしますが。

それはともかくとして、何年たっても私はこのノリだけはなじめません。カーニバルセッション中心地域にいるにもかかわらず、やはりそもそもお祭り好きではない冷めた性格のせいか、部外者丸出しです。今日もごく普通に会社に行き、ごく普通に帰宅しました(苦笑)。
でも地元の人の中にも冷めている人たちはたくさんいますし、「カーニバル逃避(Karnevalflucht)」を積極的にやる人たちもいます。カーニバル独特の音楽やどんちゃん騒ぎが鬱陶しくてたまらない、と地元だからこそ嫌ってしまうわけですね。だから、その時期に合わせて休暇をとって出かけてしまうのです。

狭義のカーニバルは「灰の水曜日」の前の木曜日の「女たちのカーニバル(Weiberfastnacht)」に始まります。こうしたお祭り騒ぎは中世からあったのですが、ナポレオン占領下の1795年に禁止されてしまい、1804年にふたたび解禁になったものの、街道カーニバルはすっかりすたれてしまっていました。フランス人が去った後はプロイセンの支配下となったケルンでは1822年に「パレード整列する委員会(Festordnenden Comites)」が創立されることによって、街道カーニバルが復活しました。また、この委員会によるパレードは外国支配をユーモラスに批判する政治色も徐々に濃くなっていき、この伝統は今に受け継がれています。19世紀中様にはFestordnenden Comites以外のカーニバル団体がいくつも設立され、競合していましたが、1888年に大きなカーニバル団体同士が合意して新しい「祝祭委員会ケルン・カーニヴァル(Festkomitee Kölner Karneval)が設立され、「パレード整列する委員会」を受け継ぎました。ケルン同様フランス支配下からプロイセン領となったデュッセルドルフでもケルンの例に倣って1825年に「カーニバル委員会(Carnevals-Comité)」が設立され、現在の「デュッセルドルフ・カーニバル委員会(Comitee Düsseldorfer Carneval)」に引き継がれています。マインツのカーニバル団体は1838年創立の「マインツ・カーニバル教会(Mainzer Carneval-Verein)」です。
こうした動きは周辺各地に広がっていきましたが、現在でもこの3都市がカーニバルの牙城と呼ばれています。

カーニバルの挨拶はアラーフ(Alaaf!)ですが、マインツ周辺ではなぜかヘラウ(Helau!)です。この違いを深く追求したことはありませんが。
因みに、カーニバルに積極的に仮装などして参加する人たちのことをイェック(Jeck)と呼びます。複数形はイェッケン(Jecken)。道化(Narr)と同義で、ライン川中流の方言です。語源は英語のgeekと同じだそうですが、英語のような否定的な意味はありません。

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