『黒と茶の幻想』は『麦の海に沈む果実』(講談社文庫)と間接的にリンクする小説です。大学の同窓生だった男女4人、利枝子、彰彦、蒔生、節子が大人になってそれぞれ家庭を持った後に「過去を取り戻すための旅」を企画・実行する話で、語り手は4人全員で、リレーのようにバトンタッチして彼らの旅行の様子とそれぞれの内面世界が語られて行きます。目的地は屋久島をモデルとしたY島。企画者の彰彦はミステリーファンで、みんなに「美しい謎」を持参するように頼み、旅行中にそれらの謎を議論して解くという旅のもう一つの目的を提案します。旅行中に浮かび上がってきた過去の謎の一つが4人共通の知人である日を境に行方不明になってしまった梶原憂理のこと。憂理は『麦の海に沈む果実』の主人公・理瀬のルームメイトでした。『黒と茶の幻想』においては回想の中の登場人物としてしか登場しませんが、彼女の親友だった利枝子、そして利枝子の元恋人で憂理に心変わりしたらしい蒔生(まきお)の二人にとっては重要人物であり、二人の過去のしがらみを解く鍵となります。実際に憂理に何が起こったのか、彼女と蒔生の間に何があったのかは下巻・第3部「蒔生」で語られ、大部分は蒔生の胸一つに収められ、利枝子には結局真実のほんの一部だけが提供されるだけなのですが、それは憂理の名誉を守るためと利枝子への思いやりから来るものです。
それぞれ家庭を持った中年の男女が配偶者や子供を置いて旅行に行くというシチュエーション自体特殊ですが、そのうちの二人が元恋人同士というのはかなり気まずい状況です。というわけで第1部は一番行くかどうか悩むことになる利枝子が語り手です。なぜ大の親友であった憂理が行方不明になったのか、蒔生と憂理の間に何かあったのか、もしかして憂理は蒔生に殺されたのではないかーといのが彼女の疑問です。
第2部の語り手は旅行の企画者である彰彦で、類稀な美少年だった苦悩や彼の友人を次から次への食い物にする美しい姉との確執などが語られ、なぜ紫陽花が怖いのかという謎(トラウマ)が解かれて行きます。本人がすっかり忘れていたハードな記憶が蘇ってきます。
第3部の語り手は前述のように蒔生で、彼から見た利枝子との関係や憂理との経緯そして彰彦の姉との関係等の回想と彼自身の自己分析が描写されます。蒔生にとっての最大の謎は自分自身なのではないでしょうか。
第4部の語り手である節子は蒔生とは親同士が交流のある幼馴染で、誰とでもうまい距離感で付き合え、グループ内のバランスを取ることができる社交性を持っていますが、元は内気で引っ込み思案だったらしく、変わったきっかけとなる事件などが語られます。彼女の謎は、子どもの頃から繰り返し見ている紫色の割烹着を着たおばさんに追いかけられる夢。
各人の回想や謎解きのための会話などをしながらY島の自然を堪能するというなんとも贅沢で濃厚な時間が羨ましいくらいですね。
こんなところを通って
逆さ杉を見て、
縄文杉に到達(作中では「J杉」となってますが)
この「J杉」トレッキングは彼らのY島ツアー最終行程で、その前の2日間で体を慣らすためのハイキングコースなどが描かれているのですが、その風景描写が素晴らしくて、しんどそうだけどいつか行ってみたいと思わせるだけの力強さがあります。